2017年10月分(五篇)

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2017年10月15日(第3主日礼拝)
『どんな前兆があるのでしょう』
マルコによる福音書13章1~4節


 ガリラヤの片田舎から出てきた弟子たちの前に荘厳なエルサレム神殿がありました。この神殿は、ヘロデ大王が46年にわたる工事を経ても、いまだ完成していないほど入念に作られていました。その美しは格別で、回廊の中のある石柱は一つの石で出来ており、高さは約4mもありました。かつてイエスさまの時代より1000年も前にソロモン王が建てた神殿は、バビロン捕囚ととともに破壊されてしまいましたが、帰還したユダヤ人たちは神殿を再建しました。しかしそれはソロモン王が造ったものよりも小さく、貧弱なものでした。それをヘロデ大王が40年以上にわたって手を加え続け、イエスさまの時代には、朝日に照らされると黄金に輝くと言われるほどに、大理石と金をふんだんに使った荘厳で豪華な建物になっていたのです。
 ガリラヤ出身の弟子たちにとって、年一度の上京の時に見るこの宮の大きさは、ほとんど威圧を感じさせるものであったでしょう。彼らは「石」をしげしげと見ます。積み上げられている大理石のひとつだけでも、すばらしい大きさです。それをもって建て上げられている「建物」がまた立派なのです。弟子のひとりが思わず、こう言います。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
 しかし、イエスさまは言われました。「この大きな建物を見ているのですか。だが、わたしは言います。・・・石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません」。この建物もいずれ崩れ落ちる日が来ると言われたのです。このイエスさまの預言は、この時から40年後、紀元後70年にユダヤがローマ軍によって滅ぼされた時、瓦礫の山と化してしまいました。
 イエスさまは、どんな立派な建物もやがては崩れる。目に見えるものはすべて過ぎ去るものだ。あなたは目に見える荘厳さに目を奪われているけれど、もっと大切なものに目を向けなければいけない。そう言われたのだと思うのです。更に言えば、イエスさまはこれから十字架にお架かりになるわけです。そのことによって、神殿において動物の犠牲を献げることによって成り立っていた礼拝のあり方そのものを変えてしまわれる。目に見える神殿ではなくて、イエスさまを信じる私たちひとり一人が聖霊の宮となり、いつでもどこでも、イエスさまの名によって集う者たちによって礼拝をささげることが出来る、そういう時代が来る。もう、そこまで来ている。そうお告げになったのです。
 イエスさまは、未来における神殿破壊を予測されただけでなく、現在すでにこの宮が無用の長物化していることを見ておられたのです。ヨハネは
「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(2:21)と注釈しています。イエスさまの到来は、旧約の人たちが重んじていた神殿は影であったにすぎず、その本体はイエスさまご自身であることを明らかにしました。それはこの数日後に十字架の死において現実のものとなりました。神殿はその果たすべき使命を終えました。
 「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」(ヨハネ4:21)
 イエスさまは、未来における神殿破壊を予測されただけでなく、現在すでにこの宮が、その主人であるイエスさまの到来によって、意味を失っておられること。今や新しい時代がここに始まっていると宣言しています。 私たちは世の終わりがいつなのか、と問うのではなく、イエスさまによって今すでに来ていることを知って、喜びの礼拝をささげましょう。

2017年10月8日(第2主日礼拝)
『レプタ二枚を献げたやもめ』
マルコによる福音書12章41~44節


 レプタ銅貨2枚を献げた貧しいやもめをイエスさまは「誰よりも多く献げた」と賞賛しました。もちろん、これは献金の多寡について語られたのではありません。
 「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」と言われました。
「あるだけを全部、生活費の全部」。今日一日をどうやって生活するのか、明日の生活はどうするのか、やもめは考えはしなかったでしょうか。
 今朝のみことばを私たちは献金のあり方を教えるものであると片付けてはならないのです。そもそも、献金の多寡を比較するということ自体、意味がありません。イエスさまは金額を見ていないのです。乏しい額でも、それが一切であることをイエスさまは評価しておられます。すなわち、うわべの金額ではなく、それをささげる誠実さを見たもうたのです。
  「ありあまる」ということばは、食べ残し、残飯という意味です。私たちはアナニヤとサッピラのように、自分の分をまず確保し、その残りをささげることをしているのではないでしょうか。自分は十分に食べて、食べきれない残飯をささげているのでないでしょうか。自分の生活にさしさわりのない範囲をよく計算して献金しているのではないでしょうか。自分の仕事やレジャ-を優先させて、時間のある時だけ、礼拝に出席したり、奉仕をしたりしている。私たちの信仰や奉仕は、その程度にとどまっているのではないでしょうか。
 献金は献身のしるしです。献身というのは、神さまに愛されていることを知らされ、神さまの御手にある明日を信じ、神さまの御手の中にすべてを委ねて歩み出すことです。だから、このやもめは、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」を献げたのです。
 当時のやもめは、生活手段がない、社会における最も貧しい者でした。金も無い、地位も無い、力も無い。しかし、何も無い自分のすべてを、この人は献げたということなのです。そして、神さまはそれを喜んで受け取ってくださるということなのです。律法学者と比べるならば、この人には何もありません。しかし、神さまを愛し、神さまを信頼し、神さまの御手に自分のすべてを委ね、献げました。彼女はこの時、自分の献金する姿をイエスさまが見ておられるということに気づかなかったでしょう。彼女はすべてを献げて、神さまに祈ったに違いないのです。もちろん、その祈りは人に聞かせる祈りではありませんでした。ただ神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまとの交わりの中にある喜びに満ちたものだったことでしょう。そして、明日のことを思い煩うことなく自分自身を献げ、神さまにすべてを委ねたのです。イエスさまは、このやもめの姿に、信仰者としてのあるべき姿を見たのです。
 イエスさまはこれから十字架にお架かりになられるのです。数日後には十字架にお架かりになる。そういう時ですから、イエスさまはこれからご自分が十字架に架かる歩みを、このやもめが献金する姿に重ねて見ておられたのではないか。そう思いました。実に献身とは、このイエスさまの十字架において極まっています。私たちがなす献身というものは、十字架のイエスさまと繋がることです。私たちは誰もが罪に満ちた者です。そのような私たちがなすわざ。それはイエスさまの十字架に連なる献身です。イエスさまの十字架が人々の賞賛を受けることがなかったように、人々からの賛辞を受けることはありません。私たちは、ただ私のために十字架にお架かりなられたイエスさまを見るのです。ただこの方の愛に応え、ただこの方と共にありたいと願うのです。ここに献金の真の意味があります。

2017年10月1日(第1主日礼拝)
『神さまからの報いを求めて』
マルコによる福音書12章38~40節


 イエスさまの批判の矛先は律法学者たちに向けられています。もしこれらのイエスさまのおことばを他人事として読み過ごしてしまうなら、私たちは聖書を読み違えることになってしまうでしょう。イエスさまは、私たちに信仰の姿勢、私たちが信仰者として生きる上で、最も心しておかなければならないことは何かということを教えようとしているのです。別の言い方をするならば、信仰者として生きていく上で、私たちはどこを見ているのか、何を求めていくものなのか、そのことをはっきり示しているのです。
 律法学者に対する批判とは、ひとことで言えば、私たちはいつも神さまに見られているということです。ですから私たちは神さまの前にいつも誠実、真実でなければなりません。しかし実のところ、私たちは神さまのみ前に生きているということよりも、人の前に、人の目を気にして生きている、というのが現実ではないでしょうか。
 「彼らは、長い衣をまとって歩き回っている」というのは、自分は律法学者ですということを示す長い衣、それを日常的に着ることによって、日常的に人々から尊敬のまなざしで見られ、人から挨拶される。そういうことを求め、望んでいる心の有り様が批判されています。
 「広場」は大ぜいの人々が集まる所でしたので、そこで「あいさつされること」によって、自分が人々から尊敬されている存在であることを、誇示することができました。
 「会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。」。これもまた彼ら律法学者たちが人々に重んじられることを求め、それを望むことを具体的に指摘しています。
 ヤコブはその手紙の中で次のようにおしえています。
 「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」(2:1~4)
 イエスさまはどうされたでしょうか。イエスさまは会堂や宴会の席に来られたとき、いきなり上座に着かれたでしょうか。実際、ほとんどの場合、イエスさまは上座に着いたのです。なぜなら、弟子たちはイエスさまをさしおいて上座につくことができず、イエスさまを食事に招いた人たちも、イエスさま以外の人に上座を与えることをしませんでした。けれども、イエスさまは好んでその座にお着きになったのではありませんでした。イエスさまは「上着を脱ぎ、手拭いを腰にまき、水を入れたたらいを持って」その場に入って来られた、とヨハネ13章4節に書いてあります。イエスさまは一座の中で、一番偉い人としてではなく、一番影のうすい人、すべての人のしもべとして、入って来られます。人々が、自分こそ真理や正義を表現している、と口々に言い張っているとき、イエスさまは控え目に、辛そうな顔をして、片隅に立っておられるのが目に映るようです。要するに、イエスさまは「苦難のしもべ」なのです。そして、ご自身だけがしもべになるのではなく、すべての人がしもべになるように、と呼びかけておられるのです。