2017年09月分(四篇)

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2017年9月24日(第4主日礼拝)
『 主の祈り8 』(主の祈りの結び)
ウエストミンスター小教理問答書から


第107問 主の祈りの結び
問: 主の祈りの結びは、私たちに何を教えていますか。
答: (「国とちからと栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」という)主の祈りの結びが私たちに教えている事は、私たちが、祈祷における励ましを神だけから受けるということ、また祈祷において、神に国と力と栄光とを帰して神を賛美することです。また、自分の願いと聞かれる確信とを証言して、私たちは「アーメン」と言うのです。

聖書にはない結びの言葉

 結びの言葉は、聖書(マタイ6:9-13)にはありません。しかし、教会は古くから結びの言葉をつけ加えて祈ってきました。内容的に、この結びの言葉は主の祈りを損なうものではなく、むしろ、主の祈りの趣旨を汲み取った教会の正しい応答の言葉だと言えます。

信頼と賛美

 「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」は二つの趣旨を含んでいます。

(1) 信頼:国(神の国=すでに始まり世の終りに完成する神のご支配)と力と栄光を神に帰して神さまの偉大さを告白し、自分の力や人々の力に最終的に頼らず、神さまにだけ信頼し、神さまの励ましを受けて祈ることを言い表します。

(2) 神賛美:神さまに願い事をささげることで、私たちは、御国の進展のみならず、日々のパンも罪の赦しも試練からの救いもただ神さまからのみ来る、との信仰を言い表します。結びの言葉で、私たちは、そのように神さまにすべてを帰している事を明言して、神さまを賛美するのです。

アーメン

 「アーメン」は、「真実に」という意味のヘブライ語起源の言葉です。主の祈りでは二つの思いをこの言葉に込めています。
(1) 願いの真実さ:六つの祈願全部について、真実に心から、神の栄光、御国の到来、御心の実現を願い、また、自分の霊肉の必要の満たしを神に願っている事を言い表します。
(2)祈りが聞かれることについての確信: 「国と力と栄えとは限りなく神のものである」ということが真実であり、また神ご自身が真実であられるので、この祈りは必ず聞かれる、という確信を言い表します。

 主の祈りは、神さま御名の栄光を求める祈りで始まり、頌栄で結ばれています。神さまのみことばを学び理解する全ての者は、常に変化するこの世界の流れに、心が取り乱されることはありません。なぜなら、神さまのみことば、つまり聖書の学びを通して、究極的に万物を支配し、信じる者全てに永遠の報いを与える、神さまの実在を知っており、やがて地上に実現する神の御国とその栄光を見ることを確信しているからです。

2017年9月17日(第3主日礼拝)
『イエスさまの約束しておられるご支配』
マルコによる福音書12章35~37節


 イエスさまの時代、「メシアはダビデの子」として生まれるということはユダヤの常識でした。それは、そのように旧約において預言されていたからですが、新約聖書も、この預言の成就としてイエスさまの誕生を記しています。「ダビデの子」とはダビデの子孫という意味ですが、マタイやルカにあるイエスさまの系図はそのことを示しております。
 「ダビデの子」それは文字通りには「ダビデの子孫」ということです。しかし、それだけではないのです。律法学者たちがメシアを「ダビデの子」と言う場合、それは「ダビデのようなメシア」「ダビデの再来としてのメシア」という意味も持っていたのです。律法学者たちだけに限らず、当時のユダヤの人々のメシアに対する理解はそのようなものでした。つまり、メシアはダビデ王のように、武力をもって周りの国々を平定し、ユダヤに繁栄をもたらす方。当然、ローマ帝国の支配からもユダヤを自由にするでしょう。それが、律法学者たちの、また当時のユダヤの人々のメシア理解だったのです。
 ご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週での一連の出来事、エルサレム入場に始まって、宮きよめ、そしていちじくやぶどう園のたとえを用いてのイスラエルの不信仰と審き、いくつかの指導者たちとの論争を通して、しだいにイエスさまの名声は高まってきました。今や時の人であり、いやそれ以上のものがありました。人々の歓声は、この数日間の間に、急激に高まってきたのです。
 エルサレム入場の序曲として、エリコにおいて、盲目の物乞いバルテマイが、そして次に、エルサレム入場の日、多くの人々が「ダビデの子にホサナ」と歓呼してイエスさまを迎えたのでした。そして、日一日と、民衆の内には、イエスさまがダビデの子であって、キリストである、との熱狂的な期待が高まってきました。毎日毎日、民衆は、ダビデの子がダビデの子たることをあらわにする決定的瞬間を期待して、イエスさまの周囲に群がり集まっています。その瞬間が刻一刻近づいているという切迫間で、民衆の間には熱気が立ちこめていたでしょう。イエスさまはしかし、そこにある危険を感じとっておられたのです。
 「キリストはダビデの子」、すなわちダビデの後継者、ダビデの失われた王国の回復者であると民衆は見ていました。それは正しいのです。たしかに、キリストは王国の王、イスラエルの支配者として来られました。けれども、民衆の期待とは意味が違っていたのです。
 「キリストは自分たちユダヤの民の指導者として来たりたもう」と人々は考えていました。ユダヤ人は今、異邦人の支配のもとに虐げられているが、キリストが現われて、外国の支配権力や、それと結託している国内の勢力を追い払って、自由なイスラエル王国を回復してくださる、と期待して彼らの心は燃えていたのです。
 イエスさまはそれに冷却水をあびせようとされるのです。彼らがイエスさまに寄せた期待は熱烈でしたが、彼らの考えるキリストはダビデと同列の地上的な王でしかありませんでした。したがって、キリストに対する彼らの期待は、具体的には革命戦争への参加でした。それはイエスさまのみこころとは全く違ったものでした。--確かにキリストは王国を建てようとしておられます。しかし、それは人々の考えるような肉的、地上的な王国ではなく、霊的な王国でありました。
 キリストはたしかに勝利しようとしておられます。しかし、それは人々の考えるような武力による勝利ではなく、十字架の苦難の内にある勝利であります。彼らの考えているこの誤りを正すために、イエスさまは、キリストが何であるかについて考え直させようとされるのです。

2017年9月10日(第2主日礼拝)
『あなたは神の国から遠くない』
マルコによる福音書12章32~34節


 イエスさまは言われました。「あなたは神の国から遠くない」。それはイエスさまの教えを聴き、心からイエスさまに同意し、見事な聖書の解釈をした律法学者への「褒めことば」なのでしょうか。確かに、彼は「神の国から遠くない」のです。ちょっと手を伸ばせば手に入れられるところにいるのです。
 注意深く読んでみますと、イエスさまは「あなたから神の国」とは言っておられません。「神の国から」であって、「あなたから」ではないのです。神さまに喜ばれ、受け入れられる供え物は、私たちの側からのものでなく、神さまの基準にかなうものでなければならないのです。
イエスさまは「神の国のすぐ近くにまで来ている」と言われるです。けれども、イエスさまは「あなたはそれだけよくわかっているなら、もう神の国に入ったのだ、あるいは、入ったも同様だ」とは言われませんでした。今までイエスさまは、福音を聞く人たちに「神の国は来た」と言いたもうたのと比べるなら、大きい開きがあります。律法の神髄をつかんだ学者は、神の国からそう遠くないのですが、福音を聞いた人が神の国の内に踏み込んだのとは、大きく隔たっているのです。福音の神髄を理解するだけでとどまっておりますなら、神の国から遠くないけれども、神の国入ったことにはならない、ということを私たちは知らなければなりません。
 この律法学者は、イエスさまの答えが全く正しいことを知っています。そしてこの人は、この二つの戒めに従うことは「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」とまで言うのです。実に見事な答え、模範的な答えでした。しかし、何かが欠けています。この人は、この二つの戒めが何よりも大切だということは知っている。しかし、知っているという所にとどまっているのです。知っているところにとどまっていますから、この戒めを守れない自分に気付いていませんし、それが出来ないということに心を痛めてもいないのです。これが一番の問題なのです。自分は出来るし、出来ていると思っている。だから、心は痛まないのです。
 彼は、このイエスさまの答えに対して、「私もそのことは知っています。しかし、それが出来ないのです。どうすれば良いのでしょうか。」そのように、もう一歩、イエスさまに問うべきだったのです。そうすれば、イエスさまは必ず、福音の核心に迫る答えを与えてくださったに違いありません。その答えとは、「悔い改めて、わたしに従ってきなさい。」ということであったろうと私は思います。
 イエスさまはここで、この律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない。」と言われました。「遠くない」という言い方は微妙です。イエスさまはこの律法学者に対して、「あなたは神の国に入る。神の国に既に居る。」とは言われなかったのです。あなたは大切な所は知っている。頭では分かっている。しかし、それでは神の国に遠くないということではあっても、神の国に入ることは出来ないのです。なぜなら、自分は出来る、出来ている、そう思っているのですから、悔い改めるということは起きず、イエスさまに助けを求めることがないからです。これでは神の国に入ることは出来ません。聖書を読んで、キリスト教の知識を増やしても、この律法学者と同じ所、「知っている」という所にとどまるならば、その人にとって神の国はどこまでも「遠くない」という所にとどまってしまうのです。そこから一歩、イエスさまに向かって踏み出さなければなりません。「主よ、あわれんでください。律法を全う出来ない、罪人である私をあわれんでください。」
 その時、私たちは神さまの国に迎え入れられるものとなります。

2017年9月3日 (第1主日礼拝)
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
マルコによる福音書12章28~31節

 「自分自身を愛するように」ということが、「隣人を愛する」ことの基準になっています。これはある意味で意外なことです。というのも、私たちは「自分を愛する」ことはむしろ否定し、自分を無にして隣人を愛することを聖書から読み取ろうとしているのです。自分を愛することを断ち切って、他者を愛せよ、というのが本当ではないでしょうか。
 そうかもしれません。しかし、自分を憎むことができるようになるまでは、人を愛せない、と言おうとする私たちに向けて、神さまは「そのままでよいのだ。自分を愛しているままでよいのだ。その上で、隣人を愛することを始めなさい」と言われるのです。これは隣人を愛することを躊躇しているものには、大切な教えです。私たちは、今あるままで、罪人のままで、自分を愛するままで、隣人への愛を始めなければならないと教えられているのです。
 神さまは私たちの「自我」というものに対して、きびしく「否」とさばきたもうのではありません。驚くべき寛容をもって「しかり」と言ってくださるのです。私たちの「自我」は、私たち自身ですら、本当は否定しなければならないものだと痛いほど知らされわかっているのです。私たちの人間関係で私たちを疎外し、ダメにしているもの、それが私たちの「自我」であることは明々白々です。それだのに神さまは、私たちが私たち自身を愛することを否定しておられません。私たちが自分を愛する存在であることをよくよくご存じです。他の人を押しのけても、自分を愛するような私たちを、決して拒否しておられません。だからといって、私たちがここで、私たち自身を愛することの権利が保証されたかのように思ってはなりません。それよりも、今あるままの状態で、ただちに隣人愛の実践に移る義務がある、ということを学びましょう。
 私たちは、何か良いところ、優れたところがあるから自分を愛するわけではありません。私たちは、お腹がすけば食べるし、喉が渇けば水を飲む。疲れれば眠るのです。つまり自分のことを、意識することなく大事にしているのです。自分にはこんな優れたところがあるから、自分を大切にしているわけではないのです。あるいは、私たちは他人の失敗は厳しく責めても、同じような自分の失敗は笑って済ませる。そのように自分に対しては甘いのです。この教えは、それと同じように、その人が良い人だからとか、自分に良くしてくれるからとか、そういう条件を一切つけないで、その人を受け入れ、その人を赦しなさいというのです。
 さて、あなたはどう思われたでしょうか。すぐに「私には無理。」「私には出来ない。」そういう心の反応が引き起こされたのではないでしょうか。私は神さまを愛する、愛したい。だけれど、いつでも、どこでも、何をしている時も、神さまを第一にすることなんて出来ない。神さまを忘れていることだって、しょっちゅうある。あるいは、隣人を愛したいと思うけれど、自分のようには愛せない。特にあの人は絶対ダメ。無理。そんな風に思うのではないでしょうか。それが正直な私たちの心の動きなのです。
 自分を愛することを、隣人を愛することの尺度にするのはなぜでしょうか。それは、自分と隣人とが平等だからです。自分以上の者も、自分以下の者もないのです。愛の水準に幾通りもあるのではなく、ただ一種類の隣人愛だけです。身分の上下、能力の高い低い、自分にとっての価値の大小で、隣人を差別することは認められていません。単に、私たち自身が差別をしないだけでなく、この世から差別をなくしていくように努力もしなければなりません。