2017年08月分(四篇)

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2017年8月27日(第4主日礼拝)
『 主の祈り7 』(第六の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から


第106問 主の祈り、第六の祈願
問: 第六の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という)第六の祈願で私たちが祈る事は、神が私たちを罪の誘惑から守ってくださるか、私たちが試みられる時に私たちを支えて助け出してくださるように、ということです。

罪の赦しと罪との戦い

 第六の祈願は、罪の赦しを求める祈願(われらの罪をも赦したまえ)に続いています。私たちは、罪の赦しを神に願い求めて罪の赦しの確信を得た後、罪と戦う決意を持って第六の祈願を祈るのです。
(1)罪を赦していただくために、善い生活を目指して努力するのではありません。罪の赦しは、ただ、キリストの十字架の償いに基づいて、「一方的に」(問105)与えられるのです。
(2)しかし、罪の赦しを一方的に得た人は、罪と戦わずに赦しを受け続けて良いのではありません。赦しを受けた人は、その恵みに励まされて、罪と戦い続けるのです。
(3)戦った結果、また罪を犯す人には、なお、罪の赦しを願う事が許されています。罪との戦いへの完全な勝利(完全聖化)はこの世ではありません。神は私たちの聖化(愛ときよさへの変化)をすでに始めておられますが、その完成は天国に移される死の時なのです。
(4)ですから、この祈りは、試みから解放され天国に入る死の時まで、希望の内に祈り続ける祈りです。私たちは、罪の赦しを繰り返し味わいつつ、罪との戦いを繰り返し決意し、戦う力を神に祈り求めるのです。
罪との戦いで祈り求めるべきこと

二つの事柄を祈り求めます。

(1)罪の誘惑からの守り:
 自分の弱さを自覚して、罪の誘惑自体から守られるように祈ります。自分の強さを過信して、無頓着に誘惑に身をさらすことを私たちはしません。
(2)試みの時の支えと救出:
 それでも誘惑はやって来ます。逆境の時に目前の必要に心を奪われて神に背く誘惑があり、順境の時に高ぶって神に背く誘惑があります。快楽も苦痛も誘惑になり得ます。私たちは、それらの試みに自分の力では打ち勝てない無力を認め、神の支えに期待し、神による救出を願うのです。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

 なぜ「試みに会わせないでください」と祈らなければならないのでしょうか。私たちは弱いからです。悪習慣に染まりやすいし、足を洗うことも容易ではありません。罪を犯してしまいます。だからみこころを生きなければなりません。神さまの軍門にくだりなさい、これがイエス・キリストのおこころです。イエスさまはあなたを必ず助けて下さいます。

2017年8月20日(第3主日礼拝)
『あなたの神である主を愛せよ』
マルコによる福音書12章28~30節


 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とイエスさまは言われました。これは申命記6章45節のことばです。これはイスラエルの人たちの間で、基本教理として重要視され、敬虔な人たちは毎日、少なくともこの聖句を唱えていたのです。この「聞け」というのが「シュマー」です。「シュマー、イスラエル」と言って始まるので、「シュマの祈り」と言われ、ユダヤ人が一日に何度も唱えていたものでした。しかし、実際にこの命令がイスラエル人の霊的生活の中で第一の位置を占めていたとは思えません。これが第一の命令であることは、よく考えればわかるはずですが、それを本当に理解していた人は少かったのです。
 「われらの神である主は、唯一の主である」と言われます。私たちに出会いたもう神さまは、並ぶ者のない唯一の神さまであり、私たちと唯一無二の関係を結びたもうお方なのだ、ということが明らかにされます。それは主権者として君臨するよりも、父として愛したもう関係です。
 「あなたをエジプトの奴隷の家から導き出したわたし。あなたと契約を結んだわたし。わたしはそのように全力であなたを愛しているのだから、あなたもわたしを全身全霊をもって愛しなさい。」と言われているのです。何と強烈な愛の告白でありましょう。この「愛しなさい」というのは、ただの命令ではないのです。そもそも、「愛しなさい」と言われて愛せるものではないでしょう。そうではなくて、神さまはイスラエルを自分の宝の民として愛したのです。全力をもって守り、支え、導き、エジプトから救い出したのです。その愛があってイスラエルはあるのです。そのイスラエルへの愛という前提があって、「愛しなさい」と告げられているのです。これは神さまからの愛の告白であり、この愛の交わりにとどまり続けるようにとの熱い招きなのです。この戒めに生きる者は、神さまとの愛の交わりの中に生きるために、全身全霊をもって応えるのです。それは、神さまがそのようにまず私たちを愛してくださっているからです。ここに生まれる神さまとの交わりとしての信仰は、この世の生活における様々な幸い、富であったり、家庭であったり、栄誉であったり、健康であったり、そういう幸いを手に入れるための手段、あるいはそういう幸いに加えてあった方が良いくらいの、人生のスパイスとしての信仰、そんなものではあり得ないことは明らかです。この神さまとの交わりにこそ、私たちの人生の幸い、生き方、希望、平安、そのすべてがあるのです。
 神さまをどのように愛するのか、「心を尽くし、思いを尽くし…」と言われるように、神さまへの愛は力を限界まで出し尽くす、いっさいを賭けたものでなくてはなりません。ほのかに神さまを愛しているというようなことはできません。神さまへの愛は憧れではないからです。神さまへの愛は、神さまの激しい愛に対する応答でしかありません。神さまは選び、神さまは召し、神さまはいつくしみ、神さまはいっさいを与えたまいます。最も愛したもう独り子さえも私たちに与えてくださったのです。
 もし私たちが、私たちの心のすべてをあげ、思いのいっさいをあげて愛さなくてもよいような神があるならば、それは神でなくて偶像にすぎません。私たちはそのような偶像を捨てようではありませんか。そして、私たちのいっさいを要求したもう活ける神さまだけを愛そうではありませんか。そのような神さまだけが私たちを救いたもうのです。
 イエスさまは私たちに問いかけておられます。「あなたは私を愛しますか?」「イエスさま、私は全身全霊をもってあなたを愛します。あなたに従います。」と答えて前進しようではありませんか。

2017年8月13日(第2主日礼拝)
『神は、生きている者の神です』
マルコによる福音書12章18~27節


 イエスさまを陥れるために、今度はサドカイ人たちがやってきました。もともと彼らは「復活」信仰を否定する輩です。「復活はない」とイエスさまを論駁しようと、作り話をぶつけます。それに対するイエスさまのおことばは「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだ」というものでした。私たちもいつしか聖書の教えを、思い違って、誤解しているのかもしれません。
 その代表的なものが、私たちの死後の世界についてです。イエスさまは「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのよう」だと教えられました。
 いつしか私たちも聖書の教えと現実の世界を混同し、間違った理解をしているかもしれません。たとえば、私たちは、死んで天国に行ったら家族皆で仲良く暮らせるのではないかと考えます。まるで理想郷のように、復活の後のことを現実の延長線上にあることのように考えてはいないでしょうか。
 私たちは復活ということについて、復活した後の自分を、この地上での生活の延長として考えてはなりません。新しい創造に与る、全く新しい私に造り変えられるのです。それはこの身体だけのことではありません。夫婦、親子、兄弟、そのような関係もまた、新しくされるということなのです。御使いのようになるとはそういうことなのです。このことについてヨハネは、ヨハネの手紙一3章2節で「御子に似た者となる」と言っています。これも同じことです。罪に満ちた私たちが、あのイエスさまに似た者として造り変えられ、復活するのです。
 「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともない」とイエスさまは言われました。皆さんはこれを残念と思うでしょうか、それとも良かったと思うでしょうか。人それぞれだと思いますが、これを残念と思うにしろ、良かったと思うにしろ、この結婚という関係もまた、復活する時全く新しいものになるということなのです。復活する私たちが全く新しくなるのですから、そのお互いの関係もまた、全く新しいものになるのです。結婚というものは、私たち罪ある者が愛を学ぶ、愛の交わりを形作る、そのために与えられた地上における秩序です。しかし、復活において私たちの愛もまた完成されるわけですから、結婚という形もまた必要ではなくなるということなのでありましょう。
 私たちは、復活されたみ子イエス・キリストと似た者とされます。そして私たちが復活して会って喜ぶのは、夫や妻、父や母、あるいは自分の子ではなくて、神さまご自身であり、イエスさまご自身だということなのです。もちろん、地上で親しかった人とも再び会うことになるでしょう。それはそれで嬉しいことであるには違いありません。しかし、それ以上に嬉しいのは、神さまとお会いすること、イエスさまとお会いすること、神さま、イエスさまとの親しい交わりに生きることになるということなのです。そこに愛の完成があるからです。もし、私たちが愛する者と再び会うことが復活における一番の歓びであるとするならば、そのような復活理解は全く間違っています。なぜなら、その裏返しは「あの人には会いたくない。」ということになるからです。それでは、ちっとも救いの完成にはなっていません。地上の延長でしかありません。
 私たちはやがて死にますが、それで終わりではなく、復活するのです。キリストに似た者としてよみがえるのであり、救いの完成であり、神さまとの完全な交わりが与えられることであり、この世界が過ぎ去り全く新しい世界を生きることになるという希望が与えられています。

2017年8月6日 (第1主日礼拝)
『神のものは神に返しなさい』
マルコによる福音書12章13~17節

 
悪意に満ちた問いがイエスさまに向けられました。税金を納めるべきか、否か。どちらを選んでもイエスさまを陥れるに十分な、熟慮されたものでした。
 彼らは、イエスさまが「よい」と言うか、「悪い」と言うか、どちらかの返事をされるに違いないと期待していました。もし「税金を納めてはいけない」と言われるならば、彼らはそれをただちにロ-マの官憲に知らせて、イエスさまを反乱の指導者として葬り去ります。もし「税金を納めるべきだ」とお答えになるならば、彼らはそれをただちに民衆に知らせます。ユダヤの民衆にとっては、この人頭税を納めることは、経済生活の圧迫であるとともに、異民族の支配への屈従という精神的苦痛でした。ですから、イエスさまが「税金を納めるべきだ」と言われたならば、民衆は「この方も結局、私たちの味方ではなかった」と失望するでありましょう。
 イエスさまは答えられました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
 当時のローマ貨幣にはカイザル(皇帝)の肖像と銘が刻まれていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。イエスさまをおとしめようとする彼ら自身が、ローマ貨幣を使わなければ生活できない。なんという皮肉でしょう。
 このイエスさまの答えにパリサイ人たちもヘロデ党の人たちも言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。
 ここで私たちが注目しなければならないことは、「神のものは神に」とイエスさまが言われたことです。「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリ銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神さまによって造られたもの、それを造られた神さまの肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神さまの似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちのいのち、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神さまのものなのです。イエスさまは「神のものは神に返しなさい。」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神さまにお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。すべてを神さまにです。イエスさまがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい。」ということではありませんでした。
 私たちは、日曜日の朝だけクリスチャンであるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも何をしていてもクリスチャンなのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、クリスチャンなのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神さまのご支配のもとで。そんな使い分けは出来ないのです。どうしてか。それは、私たちはあのイエスさまの十字架によって、完全に神さまのものとされてしまったからです。ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神さましかいないのです。
 まず「神のものは神に」という人生の軸がしっかりしているならば、この世の権力、王にも支配されるのではなく、むしろ健やかな心をもって仕えていくことができます。だれもふたりの主人に仕えることはできない。これこそが私たちのあるべき生き方であると思います。