2017年07月分(五篇)

目次に戻る


2017年7月30日(第5主日礼拝)
『遣わされた神の御子イエスさま』
マルコによる福音書12章1~12節


 さて、収穫の時が来ました。主人はぶどう園の収穫の一部を受け取ろうとして、しもべを送りました。ところが、農夫たちはこのしもべを捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰したのです。主人は、他のしもべを送ったけれど、農夫たちは同じようにそのしもべを殴り、侮辱しました。更にもう一人を送ったが、今度は殺してしまった。このしもべというのは、イスラエルに送られ続けた預言者を指していると考えられます。そして、最後に殺されてしまったしもべである預言者は、バプテスマのヨハネと考えられるでしょう。
 最後に主人は、自分の息子を遣わします。「私の息子なら敬ってくれるだろう。」と言って送り出すのです。しかし農夫たちは、「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」そう言って息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出したというのです。何ともひどい話です。この息子がイエスさまを指しているのは、言うまでもありません。息子が捕らえられて殺され、ぶどう園の外にほうり出されるというのは、イエスさまの十字架を指しているのです。事実この三日後にイエスさまは十字架に架けられ殺されてしまいました。
 ところで、このぶどう園の主人である神さまは、どうして次々に預言者を送り続けたのでしょうか。そして、どうして最後に自分の愛する独り子まで送ったのでしょうか。考えてみれば、なんとお人好しな主人なのかと思わされます。6節にあります「私の息子なら敬ってくれるだろう。」と言って息子を遣わす、これはいささか変ではないでしょうか。今までさんざんしもべを遣わし、そのしもべたちは袋だたきにされたり、殴られたり、殺されたりしているのです。今度は自分の息子だから大丈夫。そんな風に思うでしょうか。神さまはよっぽど人が良いと申しますか、疑うことを知らないお人好しかとさえ思えてきます。
 しかし、このたとえ話において最も重要なところは、まさにこの度外(どはず)れたお人好しのように見えるところなのです。何故なら、これが父なる神さまの愛だからです。イエスさまは、7の七十倍人を赦すようにと言われました(マタイによる福音書18章22節)が、それは誰よりも父なる神さまご自身が、7の七十倍お赦しになる方だということなのです。
 この神さまの徹底的な愛によらなければ、この度外れた愛によって赦されなければ、救われようのない罪人が私たちなのです。これほど徹底して赦してくださるお方であるがゆえに、私たちさえも赦されるのです。この主人は私たちの想像を超えた愛と赦しをもってしもべたちを送り続け、自分の息子さえも送るのです。ここに神さまの愛があるのです。そして、この愛のゆえに、私たちも救われたのです。こうした恵みの忍耐のクライマックスとして、イエスさまが私たちのもとに遣わされてきたのです。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9~10)

2017年7月23日(第4主日礼拝)
『 主の祈り6 』(第五の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から


第105問 主の祈り、第五の祈願
問: 第五の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という)第五の祈願で私たちが祈る事は、神が、キリストのゆえに、私たちのあらゆる罪を一方的にゆるしてくださるように、ということです。私たちは、神の恵みによって他人を心からゆるせる者とされているので、なおさらこれを求めるように奨励されているのです。
罪の赦しの必要
 人間の基本的必要を求める三つの祈願(第四祈願~第六祈願)の内の一つは、罪の赦しを求める祈りです。どんなに物質的に豊かでも、罪の赦しなしには、人は悲惨なのです。
(1)その人は、客観的事実として今、神の怒りの下にあり、死後に滅びに至ります。
(2)その人は、良心の真の平安を得られません。自責の心や空しい自己弁護から解放され、欠けのあるままの自分が温かく肯定されていることを味わい知るためには、罪の赦しが必要です。
罪の赦しの道筋
 赦しの恵みは次のようにして与えられます。
(1)神の一方的な(無代価の)赦し:
 対社会的には人は罪の償いをできますが、神に対して罪を償い罪責から自由になることは誰もできません。神の一方的な赦しこそ、私たちが真に罪責感から解放される唯一の土台です。
(2)キリストのゆえの赦し:
 この神の一方的な赦しは、キリストの十字架の償いに基づいています。十字架によって、私たちは神の一方的赦しを確信することができるのです。
(3)私たちによる赦し:
 「我らが赦すごとく」との言葉は、根拠ではなく類比の言葉です。罪赦されて生きる信徒は他人を赦す心を与えられ、罪の赦しが人にさえ可能である事を味わいます。そこで、無限の愛の神様にはなおさら罪の赦しが可能であることを確信して、この祈願を捧げるのです。ただし、主の祈りに続くマタイ6:14~15によれば、私たちが人を赦す心を持たなければ、私たちは赦しの恵みにとどまることはできません。キリストの十字架以外に赦しの根拠はありませんが、赦された恵みに根ざす赦しの心を全く欠く人は、自らの救い自体を確信すべきでないのです。

私たちの負い目をお赦しください

 「負い目」とは「罪」であって、ルカの福音書では明確に表現されています。イエス・キリストは他者の罪を赦すようにと何度も、そして強調していらっしゃいます。もし赦さないとどうなるか。マタイの福音書18章23節をお読み下さい。ここで知ることができることは、私たちの人間関係は私たちの信仰を表す鏡であることです。どんなに立派なことを言っても、人との関係が悪い、すなわち赦さない、憎む、受け入れることができないなどなどはその信仰に問題があります。信仰はその中身を実体を人間関係で証明するものです(マタイの福音書25:45)。赦すことは大変難しいことです。「天にいらっしゃる」という表現を唯一度だけ使ったルカは、「聖霊をくださる」天のお父さまと書きました(ルカの福音書11:13)。聖霊さまがあなたの中で働いて下さるとき、あなたは赦すことができます。

2017年7月16日(第3主日礼拝)
『 イ エ ス さ ま の 権 威 』
マルコによる福音書11章27~33節


 祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来て、イエスさまにこう言いました。28節「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
 確かに彼ら指導者たちには権威が与えられていました。しかしその権威が何のために、誰から付託されたものであるかを問題にしませんでした。今彼らの前にいるイエスという人物が、どう見ても、客観的に今まで権威の裏付けとして必要とされていた何の資格や背景もないだけに、彼らにとって、いっそう不安と苛立ちは激しかったに違いありません。何のゆえにこんな片田舎の、聞けば大工のせがれである、この男ひとりに悩まされなければならないのか、と思いながら相手を見るとき、加速度的に怒りが高まってくるのでした。そして彼らは無名の新人と、それを支持する背後の民衆たちに恐れを抱いています。
 イエスさまは彼らの詰問に逆に問い返します。問いました。彼らが依って立つ所、権威の所在、平たく言えば「何を気にして生きているのか」が問われるのです。ヨハネのバプテスマが取り上げられました。そこで彼らの現実があらわにされます。一方には神さまへの不信があり、他方には民衆への恐れがあります。権力の座にある者は、思いのほか不安であり、不安定であります。内心は戦戦兢兢としたものを持っています。地位や名誉や財産も人間を安心させてくれません。持つ者は失うまいとして不安を持つのです。
 何かをつかんだと、と同時に人間はそれを失うことを恐れます。つかんでいるものが大きければ大きいほどその恐れは強いのです。地位、財産、名誉、知識、経験、健康から人間関係にいたるまで、豊かに持てば持つほど、私たちはそれを失うことを恐れます。私たちの「信仰」であってもそうです。持ったと思った時から失うことを恐れ、弱くなることを恐れています。熱心な牧師や信徒は自分の恐れを傍らに置いて、他の人のこの恐れをチクリチクリと刺激します。
 何かを持ちますと、それを胸に抱えた込んだままで、横を見ます。他の人の持ち物が気になってくるのです。自分の持ち物と比較してみたくなるのです。誰にも負けない持ち物がさらに欲しくなります。車やマイホ-ムだけではありません。「信仰」の世界でも大小や強弱が問題にされ、取り沙汰されます。とたんに不自由な信仰の世界を造り出してしまうのです。そこには、「神への恐れ」がなくなります。祭司長、律法学者、長老たちは、いつのまにか、まるで自分たちが背後に神さまの権威をになっているかのごとく錯覚し、神さまの代理人に仕立ててしまいました。そこには「神への恐れ」が失われていたのでした。
 イエスさまがバプテスマのヨハネについて語ったとき、彼の権威についてではなく、彼が宣べ伝えていた福音、「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」についてでした。それは単なるきよめの儀式ではありません。人生の後半の新出発ではありません。それは人生の終とうを宣言し、神の国の開始を告知します。イエスさまは今、ヨハネのバプテスマが新しい時の始まりだということを語っておられるのです。そして、その新しい時を新しい時たらしめているのが、「わたしである」と宣言しておられるのです。つまり、どこから権威が来たか、というようなことはもはや中心問題ではなく、神の国がすでに始まっていて、その中で一連の事実が次々と起こっているではないかと言われるのです。権威とは、天と地を造られた神さまと、その独り子なるイエスさまにのみあるのであって、私たちはただその権威に服する者であることを覚えて、神さまに栄光を帰するものとなりましょう。

2017年7月9日(第2主日礼拝)
『わたしの家は、すべての民の祈りの家』
マルコによる福音書11章15~19節


  今日の箇所は、「宮きよめ」として知られているところです。先週のいちじくの木に対する呪いも、今日の宮きよめも、人間的には何か常識に欠けた行為のようにも思えますが、それほどに深く激しいイエスさまの失望と怒りを見ることができます。イエスさまは、エルサレムの神殿が喧騒に満ち、欲望と利益を満たす場になりさがっていることに言いようのない憤りを覚えられたのです。まさしく神さまの怒りでありました。
 たしかに、ここに見る門前市は、旧約聖書の命じるいけにえ礼拝と献金を、聖書のとおりに守るのに必要な設備でありました。聖書も許した制度であったのです。それでも、イエスさまは憤られました。
 何故でしょうか。何をそのように怒っておられるのでしょうか。祭司と商人の馴れ合いがあり、このことを当時のユダヤ教の腐敗に抗議をされたのでしょうか。
 そうではないのです。イエスさまは正義感として、見るに見兼ねてこれをなさったのではないのです。イエスさまは生涯に何度もエルサレムの宮に行かれましたが、ただ一回、宮きよめをなされただけです。イエスさまは神殿の改革者というよりは、この神殿の「主」として、礼拝の「主」として、これを改革したもうたのです。イエスさまはこの世の権威に反抗されたのではなく、ご自身こそが権威であることを、これによって示されたのです。翌日、祭司長、律法学者、長老がイエスさまを詰問して、「何の権威によってこれらのことをしているのか」(28節)と言いましたが、イエスさまはたしかにここでご自身の権威をお示しになったのです。
 すなわち、両替屋で両替をし、犠牲の動物を買い、供え物を整えて、それから礼拝をささげた時代はもう過ぎた。「霊とまことをもって礼拝する時が来た」とイエスさまはヨハネ4章24節で教えておられます。犠牲としては、イエスさまの肉体が、ひとたび十字架の上でささげられたならば、もうそれで十分です。羊、牛、鳩、その他の供え物を差し出すことはもういらないのです。信仰者は、キリストがひとたび十字架上でなしとげたもうた和解に基づいて、自分自身を生きた供え物としてささげる生活に入ったのです。イエスさまが商人たちを宮から追い出されたことの中に、私たちはこのような宣言を読みとらなければなりません。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
 宮のうちをきよめた上で、イエスさまは人々に教えたまいます。旧約聖書のイザヤ書56章7節を引用し、またエレミヤ書7章11節を引用されました。
 そこには、形の上では一応礼拝のようであっても、霊とまことをもって礼拝することがないならば、礼拝はもはや礼拝でなく、神の宮はもはや神の宮ではない、と書かれています。
 私たちに向かってきびしく礼拝のあり方を問われるイエスさまが、同時に、私たちの礼拝に実質を与えるために、私たちの間に来ておられるのです。すなわち、イエスさまは私たちの礼拝をただ審くだけでなく、完成させるために来ておられることを覚えて、感謝しましょう。
 そして、イエスさまが祈りの家から商人を追い出したということは、イエスさまが積極的に祈りの人を求めておられることを意味しています。ひとりでも、まことの礼拝をささげるものはいないのか、と切に求めておられます。この求めに応えることのできるものとなろうではありませんか。

2017年7月2日 (第1主日礼拝)
『呪われたいちじくの木』
マルコによる福音書11章12~25節

 いちじくは実をつける季節ではなかったとありますから、実が付いていないのは当たり前です。それなのに、イエスさまは実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。イエスさまは何と無茶苦茶なことを言われる、わがままな方かということになりかねません。イエスさまもお腹がすいて短気になって、八つ当たりのようにこんなことをされた。そんな風に受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。それではこの聖書の記事をどのように理解したらよいのでしょう。
 そのヒントは「時が切迫している」ということです。この数日後の金曜日には十字架にお架かりになって死なれるのです。残り少なくなったこの地上での日々の中で、大切なこと、どうしても伝えておかなければならないことがあった。イエスさまには、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。
 それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神さまの裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神さまのみこころに適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。この時は受難週ですから、3月末か4月ということになります。いちじくが実を結ぶのは6月とか7月です。ですから、実が付いていないのは当然なのです。そのことを百も承知の上で、イエスさまが求めた時に実を付けていないいちじく、神さまのみこころに適った歩みをしていない者は、神さまの裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。
 ご生涯の最後の週に、イスラエルから悔い改めを求められたイエスさま。すでにバプテスマのヨハネから始まっていた悔い改めの要求を、イエスさまはまたも繰り返しつつ、忍耐してお待ちになられました。バプテスマのヨハネが予告したことは、後から来られる主は、手に蓑を持ち、もみがらを吹き分け、殻は消えない火で焼きつくすお方であるはずでありました。それなのに、イエスさまは3年もお待ちになりました。もうこれ以上待つことはないのです。時は、満ちたのです。もう時は延びないのです。
 エルサレム入城から、エルサレムの真の王様がその国に来られた。エルサレム神殿の真の主がおいでになられた。しかし、人はそれを受け入れることはなかった。かえって主であり王であられるお方を、ご自身の都から追い出し、十字架に磔にして殺してしまいました。イスラエルは自らその身に滅びを刈り取らなければならなくなりました。それが紀元70年に実際に起こりました。イスラエルはその地図から抹殺され、姿を消しました。
 いちじくの木を呪われたのは、実を結ばないユダヤ人の審きを象徴するものでありました。いちじくの木が、遠くからそれとわかったと書かれていますが、ユダヤ人もまた、遠くからそれとわかるような、表面のとりつくろいをしておりました。私たちも、一見してキリスト者とわかるような物腰をしているのでしょうか。しかし、葉だけがよく茂って、実のないいちじくのように、うわべはキリスト者らしく装っていても、実のないものは、空しいのです。イエスさまは見せかけを求めておられません。真実を求めたもうのであります。
 私たちは祝福の実を豊かに結ぶ信仰生活を歩もうではありませんか。