2017年06月分(四篇)

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2017年6月25日 (第4主日礼拝)
『 主の祈り5 』(第四の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から


第104問 主の祈り、第四の祈願
問:第四の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答:(「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という)第四の祈願で私たちが祈る事は、神の一方的な賜物のうちから、わたしたちがこの世の良き物の正当な分を受け、それによって神の祝福を楽しむことができるように、ということです。

「我らの」ことについての祈願
 主の祈りは、第三の祈願までが神さまの(あなたの)御名、御国、御心に思いを集めて祈るのに対し、第四の祈願からは「我らの」必要に思いを集めての祈りです。その最初に「我らの日用の糧」について祈ります。
必要と喜びのために
 日ごとの食物には、 1.命の支え、 2.楽しみと喜び、 という二つの面があります。第三の祈願はこの両面についての祈願です。
 「日用の糧」で代表されているのは、「この世の良き物」すべてです。食物に限らず、衣食住・趣味・受験・就職・結婚等々、この世的必要と祝福とを私たちは願ってよいのです。
 霊的な事だけを神さまに頼り、物質的な事については自分の才覚に頼るのは誤りです。一切を神さまに頼る者として、「この世の良き物」についても神さまに祈り求めるべきです。
 また、「この世の良き物」を軽んじるのも誤りです。それは、創造者なる神さまからの贈り物として感謝して受けるべきものなのです
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 ただし、「この世の良き物」は、人を誘惑し、神さまから人を離す恐れもあります。私たちは「神と富に仕える事は出来ない」のです。この世の良き物の限界を弁えるべきです。その点で小教理問答は、次の点に注意を向けています。
 (1)神の一方的賜物として願うこと:人はこの世的祝福を願う時、神さまに権利要求を突きつけるのではありません。罪人である私たちの必要を満たしてくださるだけでなく喜びさえ与えて下さる神さまの一方的な恵みに感謝しつつ願うのです。
 (2)正当な分を求める事:不正な算段で欲望を満たすことを願わず、できる努力をしながら自分の力に頼らず、神さまの祝福として受けることができるように祈り求めます。

 「日ごと」とは何か、をまず理解する必要があるでしょう。イエス・キリストのおことばには旧約聖書のおことばが珠玉のようにちりばめられています。聴衆も同時にそれとして理解したでしょう。多分箴言30章8節を念頭において話をされているのでしょう。貧しさも富むことも行き過ぎると私たちには良くない、と言っています。与えられた分で満足しなさい、の意味です。これがそのまま「日ごと」の真の意味であると理解していいでしょう。また聴衆は荒野で神さまがくださった食料マナ(出エジプト記16:4-20)を連想しながら聞いたでしょう。2日分を集めても腐ってしまいました。両方の意味を重ね合わせれば、今日を、そして今を大切に生きること、といったらいいでしょうか。

2017年6月4日(第1主日礼拝)
『 主 が お 入 用 な の で す 』
マルコによる福音書11章1~8節 

 「主がお入り用なのです。」この子ろばは、だれかの持ち物であったに違いありません。しかし、この「主がお入り用なのです。」という一言によって、この子ろばは、イエスさまのエルサレム入城という、まことの王としてイエスさまが預言を成就される時の、無くてはならないものとして用いられることになりました。
 今は亡き榎本保郎牧師さんは、「ちいろば先生」と子どもたちに呼ばれ慕われました。「ちいろば」とは小さいろばのことです。榎本牧師はこの物語を大変愛し、よく子どもたちに話したそうです。そして「自分はイエスさまを乗せたこの小さいろばになりたい。」と言われたと伝えられています。小さい子ろばは力も無く、何の役にも立ちそうにないけれど、「主がお入り用なのです。」というイエスさまのおことばによって、イエスさまに選ばれ、用いられ、イエスさまをお乗せするという大変光栄な役を果たすことが出来た。イエスさまのお役に立つことが出来た。自分はこの子ろばになりたい。そう榎本牧師は言われたのです。この時この子ろばは、自分でこれがしたいとか、自分にはこれが出来るとか、そんなものは何もなかったのです。あるのはただ、「主がお入り用なのです。」というイエスさまのことばだけでした。
 私たちもこのイエスさまを乗せたろばの子になりたいのではないでしょうか。もしそう願うのなら、そう祈ったら良い。そうすれば、イエスさまは必ず、私たちひとり一人を用いてくださいます。しかしそう祈るなら、「自分にはそんな力はありません。」とか、「自分は他にしたいことがあります。」とか、そんなことを言ってはいけません。主がお入り用なのですから。私の思いや私の都合は横に置かなければなりません。ここでイエスさまは「主がお入り用なのです。」と言われました。「主が」です。イエスさまは私たちの「主」、私たちの主人なのです。キリスト者である、キリスト者になるということは、イエスさまが自分の主人になったということです。私たちは、イエスさまという人生の主人を持ったのです。私たちの人生の主人は、もはや私ではないのです。
 この子ろばは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」だったのですから、人を乗せるということがどういうことなのか分かりません。どうやって歩けば良いのかも分かりません。でも、大丈夫でした。どうしてか。イエスさまがちゃんと上手く乗ってくださったからです。イエスさまによって用いられる時、今まで自分でしたこともない、全く経験のないことをしなければならないということもあるでしょう。私たちは経験のないことに対しては、要領も分からないし、失敗したらどうしようと恐れを抱くものです。しかし、「主がお入り用なのです。」ということは、イエスさまがちゃんと良いように用いてくださるということなのです。イエスさまは、私たち自身よりも私たちを良くご存知だからです。そのイエスさまが私を選び、用いてくださるというのですから、私たちは安心してイエスさまにすべてを委ねたら良いのです。そこに道は開かれていきます。私たちが考えてもいなかった道です。
 イエスさまは「わたしがあなたを必要とし、用いたいのだ。」と言われます。まことの王として、私のために十字架にお架かりになってくださったイエスさまが、私にそう告げておられるのです。イエスさまは力ずくで私たちを用いようとはされません。ただ私たちの心に語りかけ、私たちが一歩を踏み出すのを待っておられます。そして、このみ声に私たちが従う時、私たちはイエスさまを平和の王、愛の王、まことの王として受け入れ、イエスさまのみ国、神さまの国の住人として歩み出すことになるのです。