2017年04月分(五篇)

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2017年4月30日(第5主日礼拝)
『自分が何を求めているのかわかっていない』
マルコによる福音書10章35~40節


 「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」。ヤコブとヨハネが言ったとき、他の10名の弟子たちは腹を立てた、とあります。つまり弟子たちはイエスさまの十字架と復活を全く理解しておらず、「栄光の座」をイエスさまがやがて全能の力をもってローマ軍を破り、世界を新しくし、ユダヤ人が支配する神の国を造られるはずだ、と誤解していたのです。弟子たちはどこまでも上下関係、ピラミッド型の社会、そういうものの発想から自由になれなかったのです。それは、イエスさまのご支配、神の国というものを、この世の延長でしか考えることが出来なかったということです。
 イエスさまは言われました。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 彼らは「できます」と言いました。
 もし私たちがそう問われたならば、「出来ません」と答えるでしょう。それが私たちの現実だからです。事実弟子たちの皆が、十字架につけられたイエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。
 イエスさまが続いて言われたおことばを私たちはどう理解したらよいのでしょう。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」
 「あなたがたの求めは、かなえてあげましょう。求めたとおりのことが起こるのです。しかし、それはあなたがたが思いもかけない形で、実現するであろう」という意味でイエスさまはこう言われたのではないでしょうか。すなわち、彼らは、時が来てキリストの王国が始まったならば、王座の「右と左」に、右大臣、左大臣の格で座につくことを願ったのですが、願いの実現は全く別の形で起こり、イエスさまは十字架にかかられ、その左右につく者もやはり苦難を忍ぶ者、殉教者となるのです。ヤコブとヨハネは、自ら知らずして、殉教者、血をもってキリストをあかしする者となったのです。
 「杯」と言い、「バプテスマ」と言うとき、私たちがただちに思い起こすのは、その本来の意味であるところの、聖餐式の杯であり、父と子と聖霊の御名によって、水をもって執り行なわれるバプテスマです。それらが苦難というよりもむしろ恵みを意味することはいうまでもありません。だがしかし、恵みの面だけを真剣に強調するとき、キリストの苦難にあずかるという面も、真剣に考えられていなければなりません。すなわちそれらはイエスさまの十字架を表すものだからです。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(ローマ6:3)
 神さまの恵みは、それを受けない者にとっては意味を持ちません。けれども、恵みは、それを受け入れる力をも恵みとして添えて、私たちに差し出されます。ですから、信仰をもって、しかしへりくだっりつつ、私たちにも「できます」と答えましょう。
 このみことばはヤコブとヨハネの後半生とその死とについての予告でした。しかし、私たちはこれがすべてのクリスチャンに適用されたものであると考えなければなりません。そして、私たちはここに、イエスさまのあとに従って行くことのきびしさだけでなく、その恵みの豊かな確かさをとらえておかなければなりません。
 軽薄で、自己過信した答弁でした。が、それにもかかわらず、真実でありました。それをイエスさまは受け入れてくださったからです。

2017年4月23日(第4主日礼拝)
『 主の祈り4 』(第三の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から

第103問 主の祈り、第三の祈願
問: 第三の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という)第三の祈願で私たちが祈る事は、神が恵みによって私たちにも、天における御使いたちのように、万事につけて神の御意志を知り・従い・服することができる力と意志とを、授けてくださるように、ということです。
 神の「み心」は一つですが、人の目には二通りに見えます。
(1)万事を導くみ心。一羽の雀でも御心によらなければ地に落ちません(マタイ10:29)。この意味での御心は今でも実現しています。
(2)善の実現を願われるみ心。神と人への愛が行われ、人が幸いを得ることを神は願っておられます。この意味でのみ心は罪と悲惨がこの世にある限り、完全には実現していません。
 第三の祈願での「み心」は、(2)の意味です。この世界に満ちる罪と悲惨が取り除かれて、神の願われる善が実現するように祈るのです。
 み心は本当は一つです。万事を導く神は世の終りにはついに罪と悲惨をこの世界から取り除いてくださいます。第三の祈願は、歴史を支配し完成して下さるこの神の恵みの御手に一切をゆだねる祈りでもあります。
 主は「み心が行われますように」と祈り、み心に従って十字架に死なれました。その模範に従い、私たちはこの祈りを、何よりも自分自身がみ心を行うことを願いつつ祈ります。
 そのために必要な二つのことを祈るように小教理は教えています。
(1)主のみ心を知る知恵(信仰的判断力)。何が主のみ心か思い惑うこと多い者として、信仰的判断力を私たちは願い求めます。
(2)主のみ心に従い服すること(実行力)。なすべき善を知っても行なえない者として、実行力を私たちは願い求めます。
 「天になるごとく」は、天にはみ心に沿わない事は何一つない事を踏まえた言葉です。特に、天でみ心を完全に行う天使に、私たちがならうことができるように祈り求めます。自分の弱さを言い訳とした妥協や割引を求めず、み心を行なうことを切に願い求めるのです。信仰と悔い改めなしには祈れない祈りです。
 イエス・キリストは「もし、みこころならば・・・そうした方がいいかな」とはおっしゃっていません。「行われますように」とはギリシア語でゲネセートー。これは「~であれ」の意味です。軟弱さはありません。どちらでもいい、という程度のなまやさしさはありません。イエス・キリストは模範を示しておられます。
 ルカの福音書22章42節をお読み下さい。なぜみこころを第一にするように求められているのでしょうか。罪の正体はエゴイズムです。このエゴイズムを退治することができるからです。エゴイズムを貫いた、そのときは気持ちがいいかも知れませんが、結局は誰からも相手にされなくなり、さびしい思いをするものです。
 今私たちは私たちの思いの中で、神さまのみこころと自分のこころとを戦わせなければなりません。逃げてはいけません。しっかりと戦わせなければなりません。自分のこころは言います。「私はこう考える、でも神さまのおこころとは違っているなあー。私はたとえ相手が神さまであっても自分の主張を譲ることはできない」というふうに。信仰生活とはこの戦いを続けることを言います。理想的にはイエス・キリストがおっしゃったことにうなづくことです。

2017年4月16日(復活祭記念礼拝)
『平安があなたがたにあるように』
ヨハネによる福音書20章19~23節


 復活祭を最近では「イースター」と言われることが多く、キリスト者の少ない日本でも多くの人が一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか。この時期には有名なホテルや大手のスーパーなどがこぞって「イースターフェス」と銘打って、盛大にキャンペーンを流しています。ディズニーランドやシーでも、この季節は「イースター」の特別な企画で多くの人を呼び集めています。
 果たしてどのくらいの人がこの「イースター」について知っておられるでしょうか。卵を食べるのが「イースター」だと思っている方も多いかも知れません。
 「イースター」、それはイエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を負って死なれて、三日後によみがえられた、つまり復活した日です。ですからこの日、全世界のキリスト教徒と教会が、イエスさまのよみがえりを記念し、神さまを賛美し、礼拝をささげています。
 ではいつごろから「イースター」と呼ばれるようになったかは諸説さまざまですが、定着しているのは、その語源をゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているとされています。8世紀の教会史家ベーダ・ヴェネラビリスはゲルマン人が「エオストレモナト」に春の到来を祝う祭りをおこなっていたことを記録しています。本来はキリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の布教の際に、意味を変え、普及したと言われています。寒さ厳しい暗い冬から、草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる様が、十字架で処刑された後に復活したとされるイエス・キリストのイメージと重なり、統合されていったと考えられています。卵が「イースター」のシンボルとなっているのも、ヒナが卵から生まれることをイエスさまが墓から出て復活したこと、新しいいのちを結びつけたものと関わりがあるようです。
 「イースター」は毎年、日にちが違います。その計算方法はまず、春分を計算の基点にし、その春分の後の最初の満月を探し、そしてその満月の後の最初の日曜日が復活祭としています。紀元325年以来復活祭は春分の後の最初の満月のすぐ後の日曜日に祝われるようになりました。ですからこの計算により、今年は今日、4月16日を「イースター」、「復活祭」として、祝われています。
 イエスさまの復活により、キリスト教の歴史は始まりました。もし、復活がなければ、イエスさまが十字架の上で死んでそれで終わりであったのなら、弟子たちは散り散りになり、聖霊は与えられず、弟子たちが伝道することもなく、イエスさまの名前もこの歴史の中から消えていたに違いありません。実に、このイエスさまの復活により、世界は変わったのです。復活の主イエスさまに出会った弟子たちの人生が変わっただけでなく、この世界の歴史が変わったのです。このイエスさまのご復活の出来事は、イエスさまがまことに神の子であられること、神そのものであることを示しました。そして、その神さまが生きて働き、この世界のただ中に、そして私たちの人生の中に突入し、神と共に生きる者となることへと促し、招き、造り変えようとされていることを示したのです。
 私たちの人生、日々の生活の中では、いろいろな艱難や、苦悩、試練がなくなるわけではありません。でも平安あれというこのイエスさまのおことばが勝っているのです。イエスさまを十字架に追いやってしまったその罪の力が最終的な力ではなく、その力は復活の力によって塗り替えられた。死の力が勝利に飲み込まれてしまったのです。

2017年4月9日(受難週礼拝)
『私たちに先立って歩かれるイエスさま』 
マルコによる福音書10章32~34節


 「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。」と始まっております。イエスさまがエルサレムに向かって進んで行く。エルサレムで待っているのは十字架です。イエスさまはその十字架に向かって歩み出されたのです。ここからあとの福音書の記述はすべて、エルサレムにおける十字架に向かっての歩みです。これ以前の記述は、イエスさまがおもにガリラヤ地方を中心に活動されたことが記されておりました。この時期を「ガリラヤの春」と言ったりします。この言い方からも想像出来ますように、これ以前の所では、イエスさまは村から村へと旅をしながら人々を癒やされたり、教えを宣べたりと、少し穏やかな日々を過ごされていた時期と言えるでしょう。しかし、次の11章においてイエスさまはエルサレムに入られるわけですが、それ以降に記されていることは、受難週と呼ばれる一週間の出来事なのです。まさに受難週を迎えたこの時、エルサレムに向かって歩み出されるイエスさまのみ姿を、共に心に刻みつけましょう。
 弟子たちは先頭を歩くイエスさまのみ姿に驚き、恐れました。弟子たちは前途に何があるのかを知りません。イエスさまは受難を予告しておられるのに、弟子たちはそれを正しく聞き、受け止めることができません。自分たちの行く先に何が待ち構えているかを知ったら、弟子たちも覚悟を決めたでしょう。けれども見通しのつかない不気味さに、彼らは言いようのない不安を感じました。
 イエスさまが「先頭に立って行かれる」ということばが、福音書にもう一度、印象的に使われます。それは、復活の予告の際です。14章28節の「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」といわれる「先に…行く」が、これと同じことばです。すなわち、イエスさまが先頭に立ち、私たちがあとに続くその対列は、ゴルゴタで止まるのではありません。それはゴルゴタを越えて行く行進です。勝利と栄光といのちへと続く歩みなのです。
 「人の子は、引き渡される」とイエスさまは言われました。9章31節で使われ始めた、イエスさまの受難を表わす特徴あることばです。ところで、誰がイエスさまを「渡す」のでしょうか。マタイ26章15,16節では、この特徴あることばはイスカリオテのユダを指しています。ユダが裏切って、イエスさまを引き渡すのです。しかし、もっと奥にある意味として、父なる神さまがみ子イエスさまを渡したもうことが読みとられなければなりません。ロ-マ書8章32節には「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が…」と記されています。イエスさまを十字架に架けるために引き渡したのは、ユダでもなく、祭司長や律法学者たちでもありませんでした。父なる神さまが私たちの罪のために、愛するひとり子を引き渡されたのです。
 しかし、それで終わるのではありません。「3日の後に、よみがえります」というところに、最大の力点が置かれています。そして、このよみがえりの描写は、受難のそれと比べて、極度に簡略です。もはや、注釈も、前置きも、加筆もいりません。「3日目によみがえりたもうた」。それが事実のすべてであります。
 復活の主イエスさまは私たちに先立ち行きたもうお方であります。死を復活にまで突き抜ける道は、ただ、イエスさまが先頭に立ちたもうことによってのみ開けました。それゆえに、今、イエスさまのあとに従う私たちは、心を強くいたしましょう。私たちのために、大いなる光の道が、すでに備えられているのです。

2017年4月2日(第1主日礼拝)
『 先の者があとに、あとの者が先に 』
マルコによる福音書10章28~31節


 「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」とイエスさまは言われました。富める青年が肩を落としてイエスさまの前を去っていきました。その姿を見てペテロは言います。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」。マタイの記述にはこう付け加えられています。「(ついては)私たちには何がいただけるでしょうか」。つまり、「自分たちはこれだけ犠牲を払い、これだけ功績をあげました。ですから、それ相応のご褒美をもらうのは当然である」というのです。自分の功を誇るのです。
 イエスさまを見捨てない、最後までついていきますと思い、そう言い切ったペテロでした。しかしこのペテロがイエスさまを三度知らないと言って裏切ることになるのです。自分の力ではイエスさまに最後までついていくことが出来ない、自分の力では神の国に入ることは出来ない。そのことがイエスさまによって明らかにされます。
 イエスさまはここで順番を語っておられます。先の者があとに、あとの者が先になる。これは、私たちの人生の現実を言っているわけではありません。ここでのテーマはずっと、永遠のいのちに与ること、神の国に入ることなのです。ですから、このイエスさまのおことばは、「神の国に入る順番が、自分たちの思ったようにはならない。」そういう意味です。なぜなら、神の国に入る、神さまの救いに与る、永遠のいのちに与るということは、神さまのあわれみによるものだからです。私たちの努力の結果として手に入れるものであるならば、先の者は先に、あとの者はあとに、そうなるはずなのです。しかし、そうはならない。なぜなら、それは神さまのみこころの中で決められることだからです。
 私たちは何か、順番というものを大切にし、こだわるところがあるかもしれませんが、そんなことは全くないのです。あとだろうと先だろうと、救いに与れば良いのです。そして、その救いに与らせてくださるのは、ただ神さまのみこころだけなのです。自分の力で救いに与ろうとする人は、この順番を気にすることになります。しかし、順番に意味は無いのです。
 とにかく、イエスさまはここに、秩序の転換を説いておられます。この世の秩序にとって変わらなければならないのは、神の国の秩序です。教会と私たちをつなぎ止めるものは、イエスさまの愛の秩序です。
 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」(Ⅱコリント10:12)
 「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」(ガラテヤ6:4)
 「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(ローマ12:10)
 「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」(ローマ12:16)
 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)
 このみことばを人ごととしてではなく、自分を他人と見比べて、高ぶったりせず、横を見ず、あとをふりかえらず、ただ神さまを、前を見て歩もうではありませんか。