2017年03月分(四篇)

目次に戻る

2017年3月26日(第4主日礼拝)
『 主の祈り3 』(第二の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から

第102問 主の祈り、第二の祈願
問: 第二の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「み国をきたらせたまえ」という)第二の祈願で私たちが祈る事は、サタンの王国を滅ぼしてくださるように、恵みの王国を進展させ、私たち自身と他の人々をそこに入れ、その中に守ってくださるように、また栄光の王国を早く来たらせてくださるように、ということです。
み国の進展と完成
(1)「み国」(神の王国)とは、「キリストによって始まった神のご支配」のことです。キリストは、罪と悲惨の内に人間を閉じ込めていたサタンの支配を十字架と復活により打ち破り、み国を始めて下さいました。キリストにより人は罪赦され、罪の力から自由にされ(聖化)、苦難の中でも神の愛を信じられる者とされ、最も深い悲惨からは解放されました。「恵みの王国」の開始です。
(2)しかし、み国は未完成です。
A.罪と悲惨がなお世界を覆っています。
B.信仰者も、罪赦され心を新しくされる恵み(聖化)を受けつつも、繰り返し罪を犯しますし、様々な悲しみと悩みを避けることはできません。
(3)やがて世の終りに、み国は完成し世界は天国に変わります。「栄光の王国」の出現です。罪と悲惨はなくなり、信仰者は完全な愛に達して、神に完全に従う者とされます。
み国をきたらせたまえ
 「み国をきたらせたまえ」との祈りは、以上のような理解と見通しに立つ祈りです。それは感謝と悲しみと希望の祈りです。キリストにより始まったみ国を喜び感謝しながら、しかし、なお世界と自分自身の内に残る罪と悲惨を悲しみながら、それでもみ国の完成する天国に希望を抱いて、私たちはみ国が進展し、完成するように祈るのです。小教理は第二の祈願の内容を三つにまとめています。
(1) サタンの王国の滅亡: 私たちの悲しみのもとである罪と悲惨の支配(サタンの支配)がこの世界からなくなることを、祈り続けます。
(2) 恵みの王国の進展: 伝道が進展し、教会に連なる信徒が誘惑から守られ、神にいっそう従うことができるように、祈り続けます。
(3) 栄光の王国到来: 世の終りにみ国が世界を覆うことを信じ、希望を失わず祈ります。

 国とは明らかに民主主義国家ではないでしょう。「天国」と理解することは間違ってはいません。「来るように」はギリシア語ではエルセトー。これは「~であるように、~であれ」です。
 「国であれ」とは余計分かりにくくなりましたね。「国」とは「統治」の意味ですから、「統治であれ」。ユダヤ人にはこのような言い方がありました。「統治が統治であれ」。まるで「馬から落ちて落馬した」みたいです。でも彼らの言い方では広がりとかプロセスとかを含意します。すなわち「神の統治が拡大するように」です。「神の統治が広がる」ところ、平和、愛、問題解決あり、秩序があります。
 ではどのようにして統治は拡大していくのでしょうか。「神の指」(ルカ11:20、出エジプト記8:19)によってです。あなたはこう祈るべきです。「どうか神さま、神さまの指を動かしてください。そして不思議なことをなさってください」、「以前もそのようにしてくださったことを感謝します」。

2017年3月19日(第3主日礼拝)
『 何とむずかしいことでしょう 』
マルコによる福音書10章23~27節

 「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。・・金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 「幸いにして私には財産がありません。裕福な者が神の国にはいる際の困難は私にはありません」。そう考えて安心する私を、イエスさまのみことばは第2の鉄槌によって打ち砕きます。「神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」
 富があろうとなかろうと神の国に入ることがどんなに難しいかをイエスさまは教えています。弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」と驚き互いに言い合ったのです。イエスさまは、弟子たちをじっと見て言われます。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 イエスさまはここで、人は自分の力、自分の努力、自分の良きわざ、自分の富、自分の持っている一切のどんな物によっても、神の国に入ることは出来ない、と言われたのです。ただ神さまだけが私たちを神の国に迎え入れてくださるのです。
 それでは一体だれが神の国に入ることができるのでしょうか。私たちが神の国に入る、永遠のいのちをいただくためにはどうしたらよいのでしょうか。そうです。神さまの赦しに与るしかありません。自らの罪を悔い改め、ただ神さまを信頼し、赦しを求め、イエスさまに従う。それしかないのです。神さまが赦してくださらなければ、罪人である私たちは決して神の国に入ることは出来ません。しかし、神さまは赦してくださり、私たちを神の国へと招いてくださいます。この神さまの愛、神さまのあわれみ、神さまの赦しによってのみ、私たちは神の国に入ることが出来るのです。
 救いの道としては、神さまからの道しかないのです。イエスさまは言われます。「誰も救われることはできないのだよ。あなたがたは不安に思いますか。そうです。うんと不安になるがよい。徹底的に自信を喪失するがよい。まったく空しくなりなさい。そして、そこで、神さまの全能に信頼を向けなさい。たしかに『どんなことでも、神さまにはできるのです』」。そうなのです。神さまは全能でありたまいます。神さまはその全能を私たちの救いのために発動してくださいます。神さまは富める者が貧しくせられる奇跡を起こしたまいました。すなわち、み子イエス・キリストにおいてそれが起こったのです。そして、このお方において、私たちのために低く、貧しくなりたもうた栄光のイエスさまにおいて、私たちの貧しさが始まったのです。それは実に奇跡的に始まったのです。私たちはもはや、神の国にはいることの不可能性を論じてはなりません。私たちの富と誉れと誇りは、キリストの十字架と共に消えたのです。私たちはこの地上の富に心を奪われることなく、天に宝を積むものとされたことを心から感謝しようではありませんか。
 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)
 「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30篇8~9節)

2017年3月12日(第2主日礼拝)
『 汝 な お ひ と つ を 欠 く 』
マルコによる福音書10章17~22節


 生活の中でのあかしと、せいいっぱいの求道心と、最大の敬意とをはらってイエスさまの前にひざまづくこの青年に、イエスさまは目をとめ、いつくしんで言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります」。
 いったい何が欠けているというのでしょうか。少なくとも私たちの現実生活の中に、このような青年が現われたら、とたんに頭を下げて「おみごと!」と言う以外にはありません。欠けたところなど見当りません。強いて言えば、欠けたところがないというのが欠けている点だと、こじつけるのがせいいっぱいでしょう。しかし、イエスさまはそんなことは言われません。イエスさまの視点はいったいどこにあるのでしょうか。
 この対話がかわされる直前に、イエスさまが幼子について言われたことばを思い起こしましょう。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」と。永遠のいのちを受けるということが、神の国にはいるということと同じ内容であるならば、幼子と対比してこの青年に欠けたものがあると言えましょう。それは何でしょうか。
 イエスさまが、何か新しい律法を、今までにない斬新な律法解釈を示してくれるのではないかと青年は期待したのです。その新しい何か良いことをすれば、永遠のいのちを得られる、神の国に入ることが出来る、そう考えているのです。しかし、そうではないのです。子どものように神の国を受け入れる。つまり、何も出来ない、ただ与えていただくしかない。自分の中には永遠のいのちにふさわしい所など少しもない。ただ神さまのあわれみを求めるしかない。そのような者として神の国を、永遠のいのちを受け取るのでなければ、これを受け継ぐことは出来ないのです。しかし、青年は、自分の中に更に加えて何か良いこと、正しいことをしなければ神の国を受け継ぐことは出来ないと思っていた。それこそが根本的な問題であり、間違いでした。そのことをイエスさまは教えようとされたのです。
 私たちの世界にあっては、持っていることが大切であり、持たないことが欠けであるというのに、イエスさまの示す世界では、持つことが欠けることだというのは、なぜでしょうか。それは、神の国という永遠のいのちが、取引のル-ルで成り立つのではなく、「価なしに恵みとして与えられる」というル-ルで成り立っているからだと、イエスさまは言われるのです。そして、恵みであるゆえに、取り引きの到底成立しない者でも、与えられるということを示されます。イエスさまはそのことを、神さまの愛の内容として、繰り返し繰り返し、教えと行動によって、さまざまの仕方で、私たちに告げてくださいました。
 イエスさまのみ声はこの青年には福音として響かなかったのです。ひとつには、彼のかたくなさがあります。彼は財産を持ち、教養を持ち、善行を積んでおりました。しかも、それらでは満足できない意識を抱いておりました。彼はこれまで積み上げたものでは足りないことを感じ、欠けを補う最後のひとつをイエスさまに求めました。それが間違いだったのです。永遠のいのちを得るためには、今まで獲得してきたものに加えて、もうひとつの新しいものを積み上げればよいのではありませんでした。むしろ、これまでに積み上げてきたものを根元から崩壊させなければなりません。人間のわざが砕け去って、上からの、「価なしの恵み」が下ります。イエス・キリストのみことばは、今も私たちに、まず砕いて、しかる後に救うべくいつくしみをもって迫っているのです。かく言われるイエスさまご自身、富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたのです。

2017年3月5日(第1主日礼拝)
『子どものように神の国を受け入れる』
マルコによる福音書10章13~16節

 
イエスさまは「子どものように神の国を受け入れることの大切を教えられました。「子どものように」とはどのようなことでしょう。私たちはすぐに「純真無垢、素直」と考えます。イエスさまは大人たちに向かってそのようにならなければ、と教えられたのでしょうか。確かに人は成長とともに、この世のさまざまな汚れに染まり、純粋さを失ってしまうでしょう。しかし、よく言われるように「子どもには罪がない」のでしょうか。わずか2.3才の子どもでも、教えられなくても嘘をつくのです。わがままで、我慢することを知りません。
 聖書は、子どもは素直で純真で罪がないとは考えていません。私たちは、詩篇51篇を悔い改めの詩として読んでいますが、そこには「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(5節)と告白されています。これは、私たちはこの世に生を受けた時から、母に産み落とされた時から、更には母が私たちを身ごもった時から、罪人であったということを告白しているのです。ですから、子どもの時は素直で純真で罪はなかったけれども、大人になるに従って罪を犯し、罪人になったということではないのです。ですから、ここでイエスさまが「子どものように」と言われた場合、それは子どものように素直に純真にということではないということが分かると思います。
 そうではなくて、この「子どものように」というのは、子どものように何も出来ない者、ただ受けるしかない者、そういう者を意味しているのです。神の国には、自分はこれこれが出来る、こんなに頑張った、努力した、そういうあり方で入るのではないのです。何もない者として、ただただ神さまのあわれみを受ける者として、その恵みに与る。そのようにしてしか、入ることは出来ないということなのです。
 神の国に入るのにふさわしくない者。それは、自分は神の国に入るにふさわしいと考え、自分を誇る者です。自分を誇る者は、詰まる所、イエスさまを必要としません。自分で救いに至ることが出来ると思うからです。神さまのあわれみさえ必要としません。自分は正しい者なのですから、神さまが自分を神の国に入れるのは当然であって、神さまにあわれんでもらう必要はないからです。神さまが「正しい自分」を神の国に入れるのは、神さまとして当然のことをするだけなのであって、あわれみでも何でもないということです。何という傲慢でしょう。このような者こそ、最も神の国にはふさわしくないのです。
 宗教改革者M・ルターは、「自分は乞食だ。」と言ったと伝えられています。ただあわれみを施してもらうしかない乞食。神の乞食。神さまのあわれみを受け取るしかない乞食です。神さまのあわれみを求め続けるしかない私です。それこそが、子どものように神の国を受け入れる者の姿なのです。私には何もないのですから、イエスさまのおことばに従い、イエスさまのみわざにならい、イエスさまについて行くしかありません。そして、そこにこそ、神さまのあわれみが現れていくのです。私たちの中に光はありません。ただイエスさまこそが光です。このイエスさまの光に照らされ、神の国への道を、「主よ、あわれみたまえ」と歩んでいきましょう。
 人間は値なくして、値なきがゆえに救われます。救われる者は、無力で、空虚な者になっていかなければなりません。大人ぶって、何でも知ったような態度ではなく、子どものように、何も分からず、力もなく、信頼だけによって、神の国に入るのです。
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(Ⅰペテロ2:2)