2017年02月分(四篇)

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2017年2月26日(第4主日礼拝)
『 主の祈り2 』(第一の祈願)
ウエストミンスター小教理問答書から


  第101問 主の祈り、第一の祈願
問: 第一の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。
答: (「ねがわくは、み名をあがめさせたまえ」という)第一の祈願で私たちが祈る事は、神が御自分を知らせるのに用いられるすべての事において、神が私たちと他の人々に神の栄光をあらわす力を授けてくださるように、また、神が万事を御自身の栄光のために配剤してくださるように、ということです。
神のみ名
 「み名」とは「神がご自分を知らせるのに用いられるすべての事」であり、具体的には「神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業」(問54)のことだと小教理問答は説明しますが、「み名をあがめさせたまえ」とは、「神様があがめられますように」と言うのと同じだと考えてよいと思います。第一の祈願は、神の栄光が現わされる事を求める祈りなのです。
神の栄光が現わされる道
 神の栄光は二つの道で現わされます。
(1) 神の栄光を現わす信仰者の自覚的行動。
 例えば、A.公同礼拝・家庭礼拝・個人礼拝、
B. 伝道・奉仕など教会での行動、
C. 信仰に基づくすべての行動(家庭・職場・地域・交友における行動)、
D. 人間としての向上。
 第一の祈願を祈る時、私たちは、まず自分自身が、そして、他の人々が、このような道で神の栄光を現わすことを願うのです。
(2) 神の導き(配剤)が現わされ、神のすばらしさが明らかになるようなすべての出来事。
 例えば、A. 神が支配されるこの世界から罪や悲惨がなくなること、
B. 神の愛が明らかになるようなさまざまな幸福、
C. 悪に対する善の勝利。
 主の祈りは、私たちの必要(日用の糧、罪の赦し、試練からの守り)を求めるに先立って、神の栄光を求める三つの祈り(み名、み国、みこころについての祈り)を祈るように教えています。それは人間の幸福を顧みずにまず神の栄光を求めるということではありません。神の栄光(すばらしさ)が現われる事が、人間の幸福にとっても必須の事柄なのです。
 それでは「あがめる」ってどういう意味でしょうか。それは「聖」とされること。ではいつ、どうやって、神は「聖」とされるのでしょうか。
 反対語から探ってみましょう。エゼキエル書36章23節周辺をお読み下さい。いつどのようにして神のみ名が「汚された」と主はおっしゃっておられるでしょうか。神の民であるイスラエルが悪いことをした時です。ということは「聖」とされるのは良いことをした時です。最高に良いこととは主の名のゆえに殉教することであるとさえ考えられました。しかし一般に良いことをすること、と理解できます。
 しかし、まだ結論を出さないでください。「聖」の本来の意味は「他と違う」です。あなたは他の人たちといつも調子を合わせていないと不安でしょうか。「この世と調子を合わせないようにしなさい」(ローマ12:2)と言われています。「みんなで渡れば恐くない」という言い方もあります。
 「他と違う」とは、たとえば、次のようなことです。朝、食事の前にお祈りをする、出がけにちょっと立ち止まってお祈りをする。それらはわずかな時間でしょう。でもこの世のやり方とは違います。そのようにしてみませんか。私たちのただ一つの願い、それは神の栄光が表されることです。

2017年2月19日(第3主日礼拝)
『愛の破れのただ中に立たれるイエスさま』
マルコによる福音書10章1~12節


 イエスさまは「離婚は絶対にしてはダメだ。」と言われたのでしょうか。パリサイ人たちはイエスさまを陥れるためにこの問題を取り上げました。なんと悪意に満ちた問いでしょう。
 聖書は結婚の奥義について語っていますし、これを軽んじることを厳に厳しく戒めています。今朝のイエスさまが語られたおことばを読んで、やはり私たちは離婚をイエスさまは厳しく禁じられているのだ、と読んでしまうわけです。イエスさまはここで、離婚は絶対にダメだ、そう単純にお語りになっているのではありません。
 律法の専門家であるパリサイ人たちは旧約の律法を良く知っていました。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」とは申命記24章1節のことばです。これがパリサイ人たちの見解であり、当時のユダヤ人たちの常識でした。しかし彼らは聖書の教えを知ってはいましたが、正しく理解してはいませんでした。
 当時は二つの代表的な解釈がなされていたようです。厳しく取る見解では、これは妻が不貞を働いた場合以外には適用出来ないと言います。一方緩く取る見解は、夫が何か気に入らないことがあればそれで十分というものでした。料理がダメだとか、掃除が苦手とか、何でもいいわけです。男の身勝手と言いますか、ご都合主義です。厳しい見解と緩い見解があれば、緩い方に流れるのが人の世の常というものでしょう。ですから、夫が離縁状さえ妻に渡せば良い、それが実態だったようです。そしてパリサイ人たちは、それが当然だと思っていたわけです。律法に従っているのだから、何ら罪ではない。何も悪くない。全く正しい。そう思っていたわけです。聖書に書きつらねてある文字のある部分だけをとってきて、表面的な解釈をほどこし、自分の都合に合うようにするのがパリサイ人たちでした。
 それではイエスさまはこの問いに対してどのようにお答えになられたでしょうか。
 イエスさまはここで、単に離縁することが律法に適っているかどうかということではなくて、離婚以前に、この問いを出しているパリサイ人たちの人々の結婚についての根本的な理解の仕方、聖書から神さまのみこころを聞く、そのあり方自体を問い正しておられます。
 まずイエスさまは、こう答えました。5節「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」
 確かにモーセは、申命記24章において、離縁する場合についての仕方を記している。しかしそれは、離縁せざるを得ない、人間の心の頑なさの故なのだと言われるのです。パリサイ人たちは、律法に記された手続きさえ踏めば、離縁することは何の問題もないと考えていました。しかしイエスさまは、「人間の心が頑なだから離縁しなければならないことがあるだろう。そうでない、互いにもっと深く傷つけ合い、互いに憎しみ合い、とても生きていけないような状態になってしまうことがあろう。その場合にはこのようにして離縁しなさいとモーセは告げたのであって、離縁は何の問題もないということではないのだ。そこには、神さまのみこころを悲しませる罪が、私たちの心の頑なさという罪が露わに現れているではないか。だから、離婚しなければならない状況にあるということ自体、私たちは悔い改めなければならないことなのだ。」そうイエスさまは告げたのです。
 「結婚」それは神さまの定められた祝福の約束です。それゆえ男と女は「ひとつ」です。イエスさまは私たち人間の愛の破れのただ中に立たれるお方です。離婚の善し悪しではなく、愛の交わりを与えてくださるお方です。愛すること、それは赦すことです。ここにこそ結婚の奥義があります。

2017年2月12日(第2主日礼拝)
『いのちにはいるために…』
マルコによる福音書9章42~50節


 イエスさまは「小さい者たちをつまずかせてはならない」と言われました。聖書は人を「つまずかせる」罪の重さについて教えています。信仰とはひとりひとりが神さまの前に立つことであり、他の人を無視することはゆるされていません。他の人をつまずかせてまで自分を主張してはならないのです。私たちは自分の徳を建てるのではなく、他の人の徳を建てることを常に考えて生きることが肝要です。 マタイ福音書には「つまずきが起こることは避けられない」とあります。イエスさまはたいへん現実主義者でもあられます。「ここは教会だから、四面波静かで、いさかいやつまずきなど、絶対に起こらない」というようには語ってはおられません。現実に、つまずきは、この世にある限り、教会にも必ず起こります。しかし、その事実を覚悟した上で、やはり「つまずきをもたらせる者は忌まわしい」という責任ははっきりしておかなければなりません。どうせ石ころだらけの道だから、邪魔な石をどんどん放り込んでもよい、ということにはなりません。むしろ精を出して、丹念につまずきの石を取りのけるべきです。
 この世では小さい者、価値がない者とか弱い者とかみなされている人は簡単に切り捨てられています。私たちでさえそのような危険にいつもおびやかされているのです。イエスさまは、弱く小さい者に対して、愛の配慮を忘れないようにと言っておられます。私たちの目には取るに足りないと思える者でも、イエスさまの目にはこの世界のどんな英雄や賢者よりも尊い存在なのです。しかしこの世の価値観や競走心が忍び込んでくるとき、弱く小さい者は顧みられなくなり、そのたましいが傷つき倒れても、誰ひとり気にかけなくなります。そうした愛の配慮の欠如は、私たちには断じてあってはなりません。
 つまずきを引き起こしてやむことを知らない私たちに、それでもなお救いがあるとするならば、それは、私たちが、つまずかされるような、そして見落とされるような、最も小さい者になることではないでしょうか。私たちが大いなる者になろうとする限り、人につまずきを与え、自分にはさばきを招くほかありません。私たちは主イエス・キリストのあわれみをこうむる「小さい者」にならなければなりません。
 ちょうどその時、弟子たちは小さい者にはなるまい、弟子仲間でも大きい者になろう、とあせっておりました。イエスさまは言われます。「あなたがたみんな、石臼を首にかけられて海に投げ込まれるのを承知のうえで、そのような馬鹿げた主張をしているのですか」。キリストの王国に対して、この世の迫害の手が迫っていました。教会の中で割れ、実権を持った者が弱い者を踏みにじるようなことをしていたならば、海の底に葬られるところでありました。そのような危険はまだ今も去っていないのです。
 だれが一番偉いか、というようなつまらない問題ではなく、「いのちにはいる」ことをイエスさまは強調されました。「いのちにはいる」ために、私たちは何と多くのものを切り捨てなければならないでしょうか。弟子たちは互いに誰が一番かと議論し、仲間でない者には切り捨てるという体たらくを露見しました。イエスさまは言われます。「切り捨てなければならないものは外の彼のことでしょうか。あなたがたの身の内の中にこそ、今の間に切り捨てておくべきものがあるということを忘れてはなりません」。
 私たちが内なる生命についてのどんなに深い感覚を持っているか。すべてを失っても保たなければならないものに対する感覚の喪失が、この物質的に豊かな時代の中で起こっているのではないでしょうか。
 「いのちにはいる」ことの意味について今一度思いをはせましょう。

2017年2月5日(第1主日礼拝)
『誰が味方で、誰が敵か』
マルコによる福音書9章38~41節

 イエスさまは言われました。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」 敵味方という考えは私たちの中にいつも起こる思いです。私にとって味方でない者は敵であるという構図が自然に生まれてきます。ただここで注意しておきたいことは、イエスさまが「敵」ということばを使っていないことです。狭量な私たちはといえば、私たちに「反対する者」を敵と見なしてしまうのです。
 ヨハネがそうでした。彼は「私たちの仲間でない」としました。イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している人を見て、不当な輩(やから)と考え、やめさせようとしたというのです。ヨハネは、自分は正しいことをしたと思っておりましたし、ですから、きっと自分はイエスさまからお褒めのことばをいただけるものと思っていたと思います。
 しかし、イエスさまの反応は全く逆でした。イエスさまは「やめさせてはならない。」と言われたのです。イエスさまが問題にしたのは、弟子でない者がイエスさまの名前を使って悪霊を追い出していたことではなく、それをやめさせようとしたヨハネでした。
 ヨハネはどうして、勝手にイエスさまの名前を使って悪霊を追い出しているのをやめさせようとしたのでしょうか。それは、ヨハネの目の前でなされていることが間違っていることだ、あってはならないことだ、そう思ったからでしょう。この時ヨハネは、自分は正しいことをしている、そう信じて疑わなかったはずです。イエスさまは、ヨハネが自分は正しい、この人は間違っている、そう信じて疑わない心を問題にされたのです。
 「誰が味方で、誰が敵か」。この心の動き、このように人を見る私たちの眼差し、これをイエスさまは問題にされました。このような心の動きは、私たちが無意識のうちに人を分け隔てしている時に、誰の心の中でも起きる動きではないでしょうか。これは、「誰が身内で、誰が他人か」と言い換えることが出来るかもしれません。私たちに友人が出来、仲間が出来ますと、そこでは必然的に、仲間とそうでない人が出来てしまいます。そしてそれは、その仲間の集団が大きくなれば、その中においてもさらに仲間とそうでない者とが出来ます。それは会社であっても、学校であっても、地域であっても、そして教会であっても同じことなのです。そしてその時、ほとんど無意識のうちに、私たちは仲間とそうでない人を分ける。自分の味方とそうでない人を分ける。そういうことをしてるのだと思います。更に言えば、私たちは仲間以外の者を非難することにおいては厳しくなる。少しの違い、少しの間違いも見逃さないのです。
 イエスさまがここで問題にしているのは、ヨハネが止めさせようとした時に、彼は自分を正しい者とし、相手を間違ったことをしている人として断罪しているわけですが、ヨハネ自身はその自分のまなざしに全く気付いていない。それが問題なのです。ヨハネは、自分はどこまでも正しいのです。ヨハネの正しさの根っこに、自分たちに従わない、自分たちの仲間にならない、そういうことがあるということをイエスさまは見抜いておられたのです。私たちが正しさを主張する時、いつでもこの危険があるのです。正しさの主張の裏に、自分が重んじられていない、自分の考えと違う、自分の考えに従わない、だから間違っている、そのように非難する私たちの心があることを、イエスさまは良くご存知なのです。そして、このヨハネの姿こそが私たちの日常の姿なのです。ヨハネは私なのです。
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ローマ12:10