2017年01月分(五篇)

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2017年1月29日(第5主日礼拝)
『キリストの名のゆえに』
マルコによる福音書9章36~37節


 誰が一番偉いかと議論し合う弟子たちにイエスさまはひとりの子どもを連れてきて、次に抱き寄せて言われました。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
  イエスさまの教えを正しく理解するためには、「子ども」という比喩の意味を、正しく把握する必要があります。「子ども」とは今の私たちの時代のように、かわいい天使のように考えられていなかったようです。子どもの無邪気さとか、素直さとか、親に万事をまかせきる信頼の強さとかいうことよりも、しばしば「子ども」はつまらない愚か者の比喩として用いられていました。大人の世界からいうならば、ちっぽけで無価値な存在という意味で、理解されていました。ですからこのことばの意味するところは、他の人から、「青二才よ、鼻たれ小僧よ」とののしられるほどに自分を低くしなさい、という意味です。
 ここで大切ことばは「わたしの名のゆえに」と「遣わされた」です。
「キリストの名のゆえに」でなしに、小さい者を受け入れることも、立派な行ないであると言われるかもしれませんし、大いなる者が小さい者を受け入れたならば、その名誉をいよいよ大きくするでしょう。大いなる者はますます大いなる者とされるのです。そして、ひるがえって幼子のようになる道はますます遠くなってしまいます。それはイエスさまのみこころから全く離れたことです。私たちが小さい者を受け入れるのは、まさにイエスさまのみ名によってなのであり、私たちの名によってでもなく、小さいということのゆえにでもありません。ここでは、イエスさまのいましたもうところに、小さい者を受け入れる秩序が成り立つ、イエスさまのいましたまわないところにあっては、ただそれは人間的な価値の大きさ、小ささを表すことでしかない。この世では確かに、小さな者に対する同情や優しさは美徳として捉えられ、勧められます。またそうした人を、他人はすばらしい、立派と評価するでしょう。しかし、神の国の倫理、基準からするならばまったく違ったものになる。神さまのみ前には、さほど大きな意味を持っていないことが明らかになります。つまりこの世の論理、この世の秩序とは全く違う、神さまの国の秩序がここに存在するのです。
  インドの聖女、マザー・テレサは貧しく路上でただ死を待つ人々に寄り添って生きた方です。彼女は、ここにイエスさまがおられる。今いのち尽きようとしている人の中にイエスさまのお姿を見たのです。私たちも私たちの目の前にいるひとりの人を、その外見や、あるいは貧しさや、その人の性格が自分にそぐわない、考え方も生き方も違うということで、排除してはいけません。あなたの目の前にいる人は、神さまがあなたの愛をためすために、あなたのもとに遣わされた存在です。どんな人でも、その人の内にはキリストがおられるのですから、私たちはその人を重んじなければなりません。それをしないならば、私たちは自分の内に住みたもうキリストを拒否していることになるのです。
 天国ではだれが一番偉いのでしょうか。第1に、自分を捨てて、兄弟姉妹を主イエス・キリストのごとくに尊ぶ人です。第2に、兄弟姉妹の救いの達成のために奉仕する者として、兄弟姉妹をつまづかせないよう努力する人です。神さまの期待の目は「幼子(小さい者)」に向けられ、注がれています。イエスさまの目には決して小さくないのです。彼のこの値打ち、彼にかけられた期待、それを私たちは忘れてはなりません。

2017年1月22日(第4主日礼拝)
『 主の祈り 』(1)
ウエストミンスター小教理問答書から


第100問 主の祈りの序言
問: 主の祈りの序言は、私たちに何を教えていますか。
答: (「天にまします我らの父よ」という)主の祈りの序言が私たちに教えている事は、私たちを助ける力と志をもっておられる神に、全くきよい崇敬と確信とをもって、父に対する子のように近付くこと、また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。
 問100は主の祈りの序言についてです。
(1)「天にまします父」とのことばは、神さまが完全な父であられることを言い表しています。
A.私たちを助ける力を持っておられること。
 肉親の父は、子を助けたいと切望しても力が及ばないことがありますが、天の父は無限の力で私たちを助けて下さいます。
B.私たちを助ける志を持っておられること。
 肉親の父の愛は完全ではないために、子供への適切な助けを与えられないことがあります。天の父は完全な愛で、私たちのために万事を益として下さるのです。
(2)古代の父は、現代日本の平均的父親より、はるかに威厳と力がありました。「天にまします父」と祈る時、単なる親しみではなく、神さまへの崇敬の思いも心に抱いて祈ります。

 「われらの父」ということばは、祈りが孤独な行為ではないことを示しています。
(1)他の人々と共に祈る:教会で、家庭で、信仰の友同士で、私たちは天におられる共通の父を仰いで、共に祈りましょう。
(2)他の人々のために祈る:「我らの父よ」と呼びかけて始まる主の祈りは、後半で、「われらの日用の糧」、「われらの罪」、「われらを試みに会わせず」と祈ります。他の人々の霊肉両面の必要のために、祈りましょう。
(3)主イエスは、密室での個人的祈りを命じられた時に、主の祈りを教えられました(マタイ6:6,9~13)。公同の場での祈りだけでなく、密室での祈りも、「我らの」という思いを忘れずに、他の人々(家族・教会・友人・世界の人々)の必要のために祈りましょう。

 「天にいらっしゃる私たちのお父さま」。このような呼びかけから始めなさいと主イエスは仰せられました。
 「天にいらっしゃる」の意味ですが、これは「天地万物を創造された神さま」を意味します。八百万の神々ではない、唯一無二の神さまへの信頼をこめた祈りということができるでしょう。
 「お父さま」。なんとおおらかな、懐の深い父親でしょうか。このイメージがユダヤ人の社会における父親の理想でした。やさしくて、いざとなったら頼りがいのある父親。このようなイメージを抱きながら、呼びかけることから始めるのが祈りです。
 「私たち」。祈りは個人的なものであると同時に、主イエスにあるすべての信仰者たちの祈りでもあります。
 主の祈りは礼拝で、あるいは2.3人で心を合わせて祈るように、ひとりで祈るときにも、同じイエスさまにある隣人と心を同じくして祈りましょう。「アーメン」とことばと心を一つに祈る祈りには、大きな祝福が与えられます。

2017年1月15日(第3主日礼拝)
『 だ れ が 一 番 偉 い か 』
マルコによる福音書9章33~35節


 私たちは人を押し退けても、自分が先に立とうとします。遅れた時はすぐ追いつこうとします。それは一面からいえば傲慢でありますが、また一面から言えば、人に遅れをとっている自分自身の惨めさを、見るに耐えないほど弱気だからであります。イエスさまのみことばは思い上がりがちな私たちの心を砕くとともに、惨めな私たちに真の自由を回復してくれるのです。
 イエスさまは謙遜を命じておられます。一番へりくだった人が、一番上に昇れると言っておられます。へりくだりとは手段ではありませんし。報酬を期待する功績でもありません。ここには、イエスさまによって与えられた神の国の秩序が示されているのです。そして、神の国の秩序の中に、世俗的な、人間的な価値を持ち込んではなりません。しかもイエスさまは、高遠な思想をお説きになるのではありません。現実の生活の中で追い回されて、正しくものを考えるゆとりをもっていない私たちに、所詮理解できないような、超越的な理論を教えることをなさいません。イエスさまの話は常に具体的であり、実践的です。およそ、一番偉くなろうとするものは、人の先に立とうとします。それはこの世で通用している原理です。イエスさまはその原理を取り上げます。それは誰にもわかることです。こうして、イエスさまはその原理を逆さにしてお示しになります。「一番先の者が一番後になる、それが神の国の原理であり、秩序です。わかりましたか」と言われます。わからない、と答える人はいないでしょう。「わかったならば」とイエスさまは言われます。「それを行ないなさい。それはあなたがたには手の届かないような高遠なものではなく、あなたがたの生活の現実の中に単純に持ち込むことのできるものなのだから」。…価値の体系が全くくつがえったのです。しかも、新しい価値体系に即して生きる実践は、決してむずかしいものではありません。そして、その実践を始める時、私たちは神の国の秩序を、すでにこの地上において先取りすることができるのです。
 私たちは何よりも視点の移動を、上へ上へと向けられていることを、下へ移動すること、「自分が、自分が」と言っている時に、「あなたが」「みんなが」という視点をもつことが求められているのではないでしょうか。
 そして何よりも、イエスさまが、古きものをこぼつ新しい力をもって、すでに来ておられること、イエスさまご自身が新しい生き方を生き抜いて、徹底的にへりくだり、徹底的にしもべになりたもうたこと、このイエスさまのみ前で先なる者が後になるという奇跡的転換が起っているということこそ大切なのです。
 「では私たちはへりくだりましょう」と言う心の中には、自分が上であるという前提の意識が働いています。ただへりくだりさえすれば、上位になれるというのでは、おおよそ無意味です。へりくだりが人間のわざである限りは、どんなに己れを低くし、むなしくし、己れの罪の意識に砕かれようとも、救いにとっては何の意味もありません。へりくだりが貴いのは、それがイエスさまによってこの世に持ち込まれた新しい価値だからであり、私たちにへりくだりができるのは、イエスさまにおいて、恩寵としてそれが成立するからです。何よりもこんな惨めな自分がイエスさまの視点の中にとらえられ、受け入れられていること、その位置を与えられ、支えられていることを認めて、「ありがとうございます」と感謝することから、私たちの始まりがあります。さらに進んで、誰よりも下になり、しもべとなり、仕えるものとなられた方が、主イエス・キリストご自身であることへと私たちの目を向けさせてくれるのです。

2017年1月8日(第2主日礼拝)
『 十字架と復活への信仰 』
マルコによる福音書9章30~32節

 十字架と復活、これは私たちの信仰の土台であり、教会に託されている福音宣教の要です。その片方でも損なわれ、失われるとき、私たちの信仰は力を失います。
 イエスはその生涯において何度もご自身の受難と復活について、弟子たちに教えられました。少なくとも3回、福音書にはそのことが言及されています。何度も繰り返して教えなければならないほど、弟子たちには理解しがたいことでした。32節には「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。」とあり、「また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とあります。以前、このことがイエスによって語られた時には、弟子のひとりペテロが「そんなことがあってはならない」とイエスを戒め、イエスによって「下がれ!サタン」と一喝されたことを見ました。こんどは弟子の誰ひとりとして尋ねることができませんでした。彼らは「理解」していたからではなく、「理解できず」「恐れていた」のです。やがてイエスが十字架に磔にされて死ぬことを恐れていたのではなく、自分たちが無知であることを知られるのを恐れていたのです。
 民衆もイエスを王と担ぎ、弟子たちもイエスによって、イスラエルが解放されることを期待していました。威風堂々とした凱旋の王としてイエスは立たなければならないと考えていたのです。
 そんな弟子たちに、イエスは繰り返して十字架の受難とそれに続く復活を教えられました。弟子たちは十字架は知っていました。それがどんなにむごい刑罰であることを。あってはならないことと心の中では否定したかったのでしょう。しかし十字架は必要でした。神が世を愛し、滅びることを望まず、身代わりとしてひとり子イエスを差し出し、十字架の上で死ぬことが神の心でした。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」ガラテヤ3:13)
 十字架は私たちのために必要だったのです。しかし十字架で私たちの救いは完結したのではありませんでした。3日後にイエスの復活があるのです。復活によって私たちの救いは完結しました。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ4:25)
 十字架の先に復活が起こるのです。十字架、それを私たちの悲しい運命としてではなく、勝利の前ぶれとして受け取りましょう。現実には十字架の重みしか感じられない時にも、希望において復活を確実にとらえた生き方が私たちに出来るように、イエスが道をつけておいてくださったのです。
 弟子たちは何も「理解できなかった」。それもやむをえないかもしれません。十字架がすでに信じ難いことなのですから、その先の復活まで理解することは全く不可能でありました。だが、よく見ておきたいと思いますが、イエスは弟子たちの理解の程度に応じて教えの内容を切り下げることはなさいませんでした。また、「不信仰」な弟子たちを、別の手段で、すなわち奇跡を見せることによって、堅固にし、いかなるつまづきにも耐えられる者としようともなさいませんでした。今もイエスは、ただ十字架と復活との教えだけによって、私たちの信仰を堅くしようとしておられます。私たちの道もそこにしかありません。
 この十字架と復活の信仰に私たちも私たちの教会も立っていきましょう。ここにこそ真の教会としてのよりどころ、あかしがあるからです。

2017年1月1日(新年元旦礼拝)
『 みことばによって成長する信仰 』
エレミヤ書15章16節


 2017年、私たちいのちの泉聖書教会に与えられた主題聖句はエレミヤ書15章16節のみことばです。
 「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
 2017年の私たちの歩みにおいて3つのことを信仰生活の柱とさせていただきましょう。
①みことばを見出しましょう。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」
 神さまは今、私たちに、書物となった聖書という形で、みことばを与えてくださいます。しかし、私たちが自らの手で、実際に聖書を手にとって開かなければ、みことばは見つけ出されることはありません。与えられたものを、自ら受け取らなければならないのです。
 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
 みことばは、「糧」として必要なものです。食物を食べなければ飢えるように、みことばを食べなければ霊的に飢えます。成長することはできません。使徒ペテロは、成長するために、みことばが必要なことを語っています。
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(Ⅰペテロ2:2)
②みことばを喜びとしましょう。「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」
 真摯な心、祈り心をもって、みことばを聞くとき、それは喜びとなります。身体が必要なものを欲するように、たましいも必要なものを欲します。それこそがみことばです。それを得るとき、私たちには楽しみがあり、喜びが与えられます。
 「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」(詩篇119:162)
 「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」(Ⅰテサロニケ1:6)
③私たちは主の名がつけられている者です。「万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
 イエスさまを信じる私たちは、「主の名がつけられている者」なのです。「クリスチャン」とは「キリストのもの」「キリストの所有とされたもの」という意味です。主の名がつけられ、主の名によって呼ばれる者、それは主のご性質にあずかる者です。キリストにあってすべてのものを分かち合う者です。そして、みことばをいただく幸いを知ることを許されている者です。「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙示録22:4)。主の名が与えられていることを誇りとしましょう。
 この一年も、神さまのみことばを味わい、体験し、感謝と喜びをもってご一緒に進んでいきましょう。
 「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ2:16)