2016年12月分(四篇)

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2016年12月25日(クリスマス&越年感謝礼拝)
『初めに、ことばがあった』
ヨハネによる福音書1章1~5節

                
 「初めに、神が天と地を創造した。」で始まる天地万物の創造は、「光りあれ」とのことばによってはじまった。「ことば」、これをギリシャ語で「ロゴス」という。このロゴスということばは,ユダヤ人にとっても,ギリシヤ人にとっても,長い思想史的背景を持った宗教的,哲学的に重要なことばである。このことばが先在のキリストを指し示すために用いられたことは,福音が広くギリシヤ・ローマ世界に宣べ伝えられるために重要なことであった.ロゴスはユダヤ人にもギリシヤ人にも等しく,宇宙の支配的な事実を表していた.ユダヤ人は,「主のことばによって,天は造られた」(詩33:6)ことを信じ,ギリシヤ人は,ロゴスが宇宙を支配する原理そのものであり,すべての自然法則はその特殊な表現であると考えた.したがって,両者共,このロゴスが万物の出発点であるということにおいては一致していたのである。ヨハネは、当時の世界の至る所で共通に用いられていた用語を選択して、これをキリストを全世界に紹介するために使用したのである。ヨハネにとってはロゴスは世界に内在する原理ではなく、生きた存在であり、生命の源泉である。ロゴスは神そのものなのである。
 「ことばにいのちがあり、このいのちは人の光」となった。これがクリスマスの出来事である。今、人は光を求めてさまよい歩く。行き先の見えない道は依然として暗闇に閉ざされている。またそこを歩く人の心にも暗闇が覆っている。これが光を失った人間の姿である。
 今から2000年前、この地上に光が訪れ、人々を照らし出した。あの夜、羊飼いたちは天使たちの大合唱を。「天には神に栄光が、人にはみこころにかなう人々に平和を」。混沌として争いの絶えないこの世界に、まことの平和をもたらす方が来られた。闇は光に勝つことはできない。だから私たちは祈ろう。すべての暗闇が駆逐され、平和の世界が訪れるように。
 創世記7章16節に「主は、彼のうしろの戸を閉じられた」とある。ノアは神の命じるままに、巨大な箱舟を造った。これは趣味や片手間でできる仕事ではない。全身全霊を打込んでこれにあたった。しかし、その最終的な完成は「主は、彼のうしろの戸を閉じられ」ることによってなされた。戸を閉じるのはノアでなかった。もちろん私たちでもない。すべての締めくくりは神によるのである。今日は2016年最後の礼拝。過ぎし一年を振り返り、この日を閉じられるのは神なのである。その神がこう言われる。「これでよい」と。神の造られたものは、皆良かったと聖書は告げる。
 弱い私たちのために、執拗な誘惑に耐えられない、力なき私たちのために、信仰の高嶺に立つために、神はうしろの戸を閉じたもうのである。
 創世記8章1節には「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」とある。
 神は私たちの歩みに目を留めておられた。この一年がどんな年であっても、確かなことは、神の目に留めていただいた一年であったということではなかっただろうか。それゆえに私たちは感謝をしよう。感謝こそがこの年を締めくくるにふさわしいのである。
 始まりがあり、終わりがある。ことのならわしである。しかし同時に、この終わりは新しい始まりとなるのである。
 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(黙示録21:5)と言われるお方が、ここに立っておられる。
 だから私たちもまた「心の一新によって自分を変え」ようではないか。

2016年12月18日(特別音楽歓迎礼拝)
『 岩渕まことさんの歌 』
・・・思いつくままに・・・


 岩渕まことさんは1953年生まれでボクと4つ違いだが、同じ世代である。ボクたちの世代は70年安保を経験、反戦歌からやがて青春フォークの全盛期だろうか。町には歌声喫茶なるものがあり、そこで友だちと誘い合って、時間を忘れて歌った。ちょうどその頃、ボクも中古のギターを買い求め、見よう見まねで♪花は咲いた~などと歌ったものだ。
 そんな時代も岩渕まことさんにあったのだと、彼のブログを見ながら考えた。何を求め、何を当てにして生きていくのかわからず、ただその時代を斜めに構え、あるいは牙をむき出しに大人に反抗したものだった。中島みゆきに激しい慟哭を合わせ、一方では山口百恵に心ときめかした。石川さゆりの津軽半島冬景色にバイクを走らせ、津軽半島の突端に、小さなテントを必死に風に吹き飛ばされないようにしがみつき、♪冬げ~しきと歌った。理屈はわからないが、歌には何か人を突き動かす不思議な力があると思っている。好みは皆違っても、その人の歌というものがあるのだろう。
 岩渕まことさんはいわゆるシンガー・ソングライターというのだろうか、自作自演をし独自の世界観を表現している。このたびノーベル文学賞に選ばれたボブ・ディランや、ビートルズなどが有名だろうか。日本では70年代に吉田拓郎に代表されるようなシンガー・ソングラィターが次から次へとメジャーデビューしている。そうした歌い手と同列に置くことはできないけれど、岩渕まことさんはプロとして活躍した。しかし岩渕さんにとってイエスとの出会いによってその歌の世界は画期的に変わる。
 岩渕さんのCDを買い求め、人工透析の5時間、i-podで聞きながら時を過ごすことが多い。不思議に引き込まれるような感覚に陥るのは、同じ世代に生きたものだからだろうか。そうかもしれない。しかし魂の叫びではなく、神に向かう賛美であり、祈りとして歌い継がれていることに、深い尊敬の念を抱いている。癒されるのだ。メロディーはもちろんだが、歌詞がとてもすばらしい。いつの間にか、聞いているボクの心の歌になってしまうから、これまた不思議だ。日本においてゴスペルシンガーとして、教会に若者たちの心をつかむ歌を歌い続けてきた。その歌は、どれもがすばらしい。パラダイスの歌などは簡潔で、スーッと心に染みいる。今でもふと気づくと♪パッ・パッ・パラダイスと口ずさむ自分がいる。ペトラ通りで岩渕さんの歌は、円熟していく。ボク個人としては横町のジーザスがスキだ。そこはかとなく共感するのはなぜだろうか。東京の下町に生まれ育ち、浅草だとか上野の人混みの中にもイエスの姿を見るような思いだ。星野富弘さんとの出会いによって、岩渕さんの歌はさらに深化し、豊かに広がりを感じさせてくれる。富弘さんの詩歌として、こんなにもふさわしい歌は岩渕さん以外に聞いたことがない。
 だがなんと言っても、心打たれる歌は父の涙だ。ここに岩渕さんの原点があるかもしれない。そしてDOD BLEES YOUだ。人の祝福を常に祈り続ける岩渕さんの変わらぬ生き方が、いつしか私たちの祈りとなっている。そんな岩渕まことさん、由美子さんの歌を、このいのちの泉聖書教会で再び生で聞くことができる幸いをしみじみ思う。
 岩渕まことさんをいのちの泉聖書教会にお招きしたいと願っていた。ダメ元でお電話をしたところ、すでに予約でいっぱいであるが、年内一日だけ空いていると。しかも12月18日。なんという神の恵みか。すぐにブッキングしていただいた。そして今日を迎えた。私たちのような小さな教会のために、わざわざ来てくださった。本当にありがたい、感謝だ。
 そして今日を迎えた。皆さんと共に心合わせて神をほめたたえよう。隣人の祝福を心から祈る、魂のコンサートにしようではないか。

2016年12月11日(第2主日礼拝)
『 待 降 の う た 』
ヨーハン・クレッパー



夜のやみは迫った
日はもはや遠くはない
それゆえに今こそ輝くあけの明星に賛歌をうたおう
夜に泣きぬれる者も よろこびをもって声をあわせよ
あけの明星は君の不安と苦悩にも光を注ぐ

すべての天使が仕える者、
それは幼な子にしてしもべである方
神ご自身がご自身の義をなだめるべく現われてくださったのだ
地上で罪の責めを負う者も
もはや頭を覆い隠すな

この幼な子を信ずれば救われるのだ
なお多くのやみが人間の苦悩と罪を覆うだろう
だがすべての人と共に神のみ守りの星もあゆむ
その光に輝く時、君たちにもはや闇はない
神のみ顔より君たちに救いが訪れる

神はこのやみのうちに住み、しかもこれを照らされる
神はむくい、また世をさばく
大地をつくった方は罪人をそのままにはなさらない
しかし今ここにみ子を信頼する者は
その時さばきにあうこともない

2016年12月4日(第1主日礼拝)
『 祈りによらなければ 』
マルコによる福音書9章25~29節


 弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
 イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
 愚かな問いであった。答えはすでに出ていたのだ。信じる者には、すべてのことがなし得る。それが果たせないのは不信仰によるのだ、と。それゆえ、私たちは、弟子たちが「無力」について尋ねたことを「不信仰」についての問いに言い換えなければならないだろう。「私たちはどうして不信仰なのでしょうか」と。
 イエスは、不信仰を克服するものが「祈り」だと教えられた。でも---と私たちはさらに尋ねずにはおれないのではないだろうか。---不信仰な状態のままで祈りができるのだろうか。むしろ、不信仰を整理してしまってこそ祈りが始まるのではないだろうか……。
 それでも、祈りの貧しさを打開する突破口は、祈りなのである。祈れないから祈らない、というもっともらしい言い分は通用しない。祈れないからこそ祈らなければならない。
 けれども、祈りの欠乏を指摘され、ただちに祈りに精励するほど、私たちが素直でない事実を、黙っておくわけにはいかないだろう。
 弟子たちが、私たちにはどうしてできなかったのか、と尋ねたとき、彼らは自分とイエスとを比較し、あなたにできるわけを教えてください、と言ったのだ。それに対するイエスの答えは「私に出来て、あなたがたに出来ないのは当たり前である。私は神の子、メシアなのだから」というのではなかった。「あなたがたと私の違い、それは、このことに関する限りはひとつ。すなわち、祈り。私は祈っている」と答えたもうたのである。
 主イエス・キリストが祈りたもう。そこに、私たちの祈りの浅さと乏しさを打破するものがある。私たちが祈るとき、「イエス・キリストのみ名によって」祈るのだが、それは、私たちの祈りが主イエス・キリストによって、主イエス・キリストの祈りによって担われているという最も根本的な事実をさしている。その根拠に安らいでこそ、私たちは自分の祈りの精進へと踏み切ることができるのである。--これは理論ではない。実践、祈りの実践あるのみだ。
 私たちの時代のキリスト教は、これまでどの時代にもまして、祈りなきキリスト教になっているのではないか。祈りなしに愛のわざがなされ、祈りなしに奉仕がなされ、祈りなしに伝道がなされ、祈りなしに神学が学ばれ、祈りなしに説教が作られる状態を、なんとしても克服しなければならない。私たちは今イエスご自身が私たちために祈りとりなしてくださっておられるということを忘れてはならない。
 私たちの信仰には、強いも弱いもない。私たちの信仰は、どこまで行っても不徹底なのだ。信じ切れない私、不信仰な私なのである。しかし、イエスはそのような私たちの姿を私たち以上にご存知であり、その上で私たちを招き、「私を信頼しなさい。祈りなさい。信仰のない自分をも含めてすべてを委ねなさい。神さまが事を起こしてくださる。安心して祈りつつ待ちなさい。」
 神は私たちを愛し、さまざまな出来事の中で、私たちが祈ることを待っておられる。信じ切ることが出来ない私たちのために待っておられる。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と祈るのを待っておられる。イエスは、私たちのつたない祈りにならない祈りを聞き、これに応え、出来事をもって私たちの歩みを導いてくださるのである。