2016年11月分(四篇)

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20166年11月27日(第4主日礼拝)
『 あなたは聞いているか 』

               
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。マタイによる福音書7章8節

 あるとき、神に語りかけてくださるように挑んだ男がいた--。
 神よ、モーセになさったように柴を燃やしてください。そうすれば私は従います。
 神よ、ヨシュアになさったように、城壁を崩してください。そうれば私は戦います。
 神よ、ガリラヤ湖でなさったように、波を静めてください。そうすれば私は耳を傾けます。
 そして男は、湖に近い城壁の傍らの柴のそばに座り込んで、神が語りかけてくださるのを待った。
 神は男の言葉を聞かれて、答えてくださった。
 神は炎を送られた。柴にではなく、教会に。
 神は城壁を打ち壊された。レンガではなく、罪の壁を。
 神は嵐を静められた。湖ではなく、魂の嵐を。
 そして神は男が応えるのを待った。待って待って、待っておられた。
 だが男がずっと目をこらしていたのは、心ではなく柴で、人生ではなくレンガで、魂ではなく湖だったので、男は、結局、神は何もしてくれないじゃないかと思い込んだ。
 最後に男は神に目を向け、訊ねた。あなたは力を失ったのですか。
 神は男を見つめて、言われた。あなたは聴く力を失ったのか。

            マックス・ルケード「みことばの宝石」より

2016年11月20日(第3主日礼拝)
『 できるものなら、と言うのか 』
マルコによる福音書9章19~24節


 悪霊に支配されている子どもの父親は、イエスに向かって言う。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。
 期待しては裏切られ、また期待しては裏切られる、それを何度も繰り返してきた。そして今やっとたどり着いたイエスの弟子たちもやっぱりダメだった。だから、この父親は、もうあまり期待するのはやめよう、そんな思いさえ持ったのかもしれない。そして、「もし、おできになるなら」とつい口に出てしまったのだろう。ここには「出来ないのなら、それも仕方がありません。諦めますから。」そんな思いが表れている。この父親の言い方は、私たちにもよく分かるのではないだろうか。これと同じような祈りを、私たちもしているからである。
 イエスは、父親のこのことばを聞き流さなかった。イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできる。」と明言された。それは、「できれば」と言ったのを、「神の子であるわたしには何でもできる。」と言われ、イエスは「信じる者には」と言われた。つまり、この父親が本当に信じるなら出来るのだと明言されたのである。問題は、イエスに力があるかないかではなくて、この父親の信仰だ、そう言われたのである。「おできになるなら」ということばの中に、神に対してもう期待することさえも半ばやめようとしている思いを見抜いておられたイエスは、神に信頼せず、神に期待しないところで何が起きるのかと言われる。
 父親はこう答えた。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 「信じます。不信仰な私をお助けください」「信じます。」と言っていながら、「不信仰な私」と言う。信仰があるのかないのか、どっちなのか。
 私たちは自分に「信仰がある」「信仰がない」と言った場合、その信仰とは、自分の神に対しての確信、揺るがぬ思い、そんなイメージを持つのではないだろうか。だから、「私の信仰を強くしてください。」とか「弱い信仰を強くしてください。」という祈りをするのである。しかし、どんなことがあっても揺るがぬ確信、どんな時でも神を信じ切る信仰、そんなものを持っている人が果たしているだろうか。この父親は、「わたしにはそんなものはありません。」そうはっきりイエスに告白したのである。しかし、「それでも、お助けください。」そうイエスに助けを求めた。
 「揺るがぬ信仰も確信もないような私です。でも、私は今、あなたに頼るしかないのです。助けを求めるしかないのです。あわれんでください。不信仰な私のすべてをあなたはご存知です。信じ切ることの出来ない私のすべてを、今あなたに委ねます。あなたのみこころのままになしてください。」そう言ったのである。それが、「信じます。」と言った父親の思いだった。イエスは、それを良しとされ、受け入れられたのである。信仰とは、自らの不信仰を率直に認め、神に絶対の信頼を置くことなのだ。
 私たちは、強い信仰を持たなければ、どんなことがあっても信じ切らなければ、そうでなければ信仰とは言えない。そんな風に思ってしまうところがある。そして同時に、でも自分はそんな強い信仰は持てそうもない。そのように決めつけてしまう。しかし、私たちの信仰には、強いも弱いもないのである。私たちの信仰は、どこまで行っても不徹底なものなのだ。信じ切れない私、不信仰な私なのである。しかし、イエスはそのような私たちの姿を私たち以上に御存じであり、その上で私たちを招き、「私を信頼しなさい。祈りなさい。信仰のない自分をも含めてすべてを委ねなさい。神が事を起こしてくださる。安心して祈りつつ待ちなさい。」そのように私たち一人一人に声をかけ、招いてくださっておられる。

2016年11月13日(第2主日礼拝)
『 弟子たちにはできませんでした 』
マルコによる福音書9章14~18節


 何という不甲斐ない弟子たちだろうか。律法学者たちに問い詰められてしどろもどろになっている。ことの発端はこうだ。悪しき霊に捕らわれて苦しむ息子を救って欲しいと懇願する父、意気揚々と弟子たちはイエスのみ名によって祈った。ところが悪しき霊は息子から出て行くどころか、かえって激しく息子を苦しめる。弟子たちは「できなかった」のである。
 かつてイエスが弟子たちを遣わすにあたり、「彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。」(マルコ6:7)。そして出て行った弟子たちはどこででも力あるわざをおこなったのである。では、なぜこのたびはできなかったのだろうか。
 イエスの弟子たる者たちが悪霊を追い出せないでいるということは、とりもなおさずイエスご自身の権威を疑わせずにはおかないだろう。弟子たちの受ける恥はとりもなおさず彼らの主であるイエスの恥とはならないだろうか。弟子たちはこれまで、イエスが律法学者たちを論駁するのを幾度も見、その都度得意になっていた。ところが、今度は彼らが矢面に立たされることになった。群衆の面前で彼らの面目は丸つぶれであり、さんざんに攻撃され、嘲笑を受け、言い返すことばにも詰まってしまったのである。
 子どもの父親は、弟子たちには「できなかった」、すなわち「力がなかった」と訴えている。私たちは、同じ訴えが、私たちクリスチャンにも向けて訴えられているように思えてならない。私たちは事実無力なのであるが。現実の世界で生きる私たちも同じ敗北感を味わうことはないだろうか。こんなはずではなかったのに、と思わされることは多いのだ。
 イエスの名をいただいた私たちもまた、大きな間違いを犯す。人々の前に恥をさらし、その恥をイエスにまで及ぼすのである。それが今日のキリスト教会の偽わらざる姿なのだ。この情けない状態について、私たちは十分自覚を持っていなければならない。しかし、自分自身の無力さの自覚だけでは、単なる無力感、敗北感以上の何ものも生み出すことはできない。
 周りの人たちも私たちがクリスチャンであるということで、何かの期待感を抱いているかもしれない。私たちはクリスチャンという肩書きのゆえに、あるときは勢い込んで、力んであかしをしようと考える。けれども私たちの気力や気迫は何の訳にもたたない、反対に自分の無力さにいやというほど気づかされるのではないだろうか。
 私たちには今、イエスから授けられる力がどのようなものであるかがしめされている。それは一度受ければ終身保証されているのではない。それはあくまでもイエスの委託なのである。委託の外でその力を用いることは許されていない。教会も私たちもいつもいつも、この委託に立ち返っていなければならない。自分たちが有ると思っているわずかな力に頼って、独り立ちできると思ってはいけないのだ。私たちはいつも、自らとしては無力であり、ただ、委託されたつとめを信仰において担うとき、イエスの力に満たされるのであるということを忘れてはならない。
 この手のものは「祈り」によらなければならない、とイエスは教えられた。弟子たちは教えられたように祈ったのである。しかし力がなかった。祈りそのものに力があると思ってはいけない。イエスのみ名を信じ、信頼して祈ることを聖書は私たちに教えている。イエスもそのように教えられた。自分の中には何もない。祈る力さえもない。その何もない私が、ただ神の力を信頼して、神のあわれみを信じて、ひたすら神に願う。神を愛し、信頼している、ただそれだけが祈りの根拠であり、そこに立ち続けることが私たちの祈りである。

2016年11月6日(第1主日礼拝)
『罪人のために来られたイエスさま』
マルコによる福音書9章9~13節


 驚くべき光景を目の当たりにした弟子たちは、興奮冷めやらぬ心持ちで山を降る。そのときイエスは命じられた。「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と。なぜだろうか。弟子たちの見たイエスは復活の栄光に輝く姿であった。しかし弟子たちにはイエスの言われたことばを理解することが出来なかった。なぜ栄光のイエスを人々に語ってはならないのだろう。それは人々が、そして弟子たちも抱いていたメシアへの期待を間違った形で増幅することになるからだ。おそらく人々はイエスを彼らの王として、解放者として担ぎ出してしまうだろう。しかし、それは神のみこころではなかった。すでにイエスは言っておられたではないか。人の子は苦しみの中で十字架に架かって死ぬのだ、と。だがその先にあるものこそ栄光に輝くイエス、復活があるのだ。しかし、人々はイエスの十字架を、まして復活を信じることができない。だからその時が来るまでは、この山上の変貌を封印しなければならなかったのである。
 全く理解できなかった弟子たちは、互いに論じることしかできなかった。当時の指導者、律法学者たちの言い分は、イエスはメシアではない、というものであった。なぜなら聖書はメシア到来の前に、エリヤが来るはずだと信じていたのである。
 イエスはその考えを否定しない。むしろすでにエリヤは来ているではないか、彼こそがメシア到来の前触れを告げる預言者である。バプテスマのヨハネこそがエリヤの再来である。ヨハネは来たるべきメシア、真の救い主の到来を告げたではないか。ヨハネはすべてのことを立て直したのだ。彼は人々に真の悔い改めをもたらした預言者ではなかったか。
 ヨハネはエリヤであった、とイエスは断固として言われる。イエスは「彼について書いてあるとおり」人々はヨハネをあしらった、と。ヨハネが地上で受けた苦しみは、エリヤが受けたと書かれている記録にそっくりではないか、と言っておられる。イエスは預言者エリヤを輝かしい英雄とは見ておられない。エリヤもヨハネも、地上においては悲惨であったとされるのだ。
 イエスはご自身を苦難の人としてお示しになったばかりでなく、ご自身の証人が、エリヤにしろヨハネにしろ、やはり苦難の人であったということを私たちに教えたもう。華やかなエリヤの再来であっては、ヨハネは何ひとつその意義を果たすことはできなかった。イエスは私たちにも求めておられる。自分を捨て、自分の十字架を負って、我に従えと。
 私たちのことを言えば、私たちもまた弟子たちと同じかも知れない。私たちもまた自分が本当に愚かな存在であり、罪を犯し続ける者である。しかし、そのことを知っているがゆえに、私たちはイエスの十字架の前にひざまずくことが出来るのであり、そのような私たちのためにイエスを与えてくださった神の愛にただただ感謝するのだ。その上イエスの復活にも与る希望に生きることが出来るのだ。イエスの十字架は私のためであり、十字架抜きの復活はなく、復活へと至らぬ十字架もない。愛する独り子イエスを私たちのために十字架にお架けになってまで、私たちの罪を赦し、私たちとの愛の交わりを回復されようとした神である。その神の御手の中に生かされているのだから、私たちは安心して良いのだ。困ったこと、大変なことが次々に起きたとしても、神の愛の力強い御手は私たちをとらえて放さない。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ31:3