2016年10月分(五篇)

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2016年10月30日(第5主日礼拝)
『神の御子イエスさまの苦難と栄光』
マルコによる福音書9章1~8節


 弟子たちが見た光景、それは驚くべきものであった。栄光に包まれ輝くイエスの姿を見たのである。しかも旧約の預言者エリヤ、律法の受諾者モーセが語り合っている。弟子たちは恐怖に打たれて、とんでもないことを言う。「ここに記念の宮を建てよう」と。人は神々しいものを小さな器、それが祠であろうと、黄金に包まれた神殿であろうと、首にかけるお守りであろうと、絶対に出来ないことなのだ。神がちっぽけな世界に閉じ込めることなど出来ようもない。しかし愚かな人間はそれをもって、安逸の根拠、頼りとする。雲の中から声があった。「これに聞け」と。そう、信仰とはまず聞くことから始まり、聞くことに終わる。語るのではなく、神のことばに耳を傾け、従う。それこそが信仰である。
 古くより人は高い山を霊山と崇め、修行の場、神と出会う所としてきた。日本にある山岳宗教などはそうだ。しかし、高い山が、人間の目指す最高の場所であるのか、つまり、倫理の世界での再終点を示しているのか。あるいはそこが、人間の最も低くされる場所、つまり神からの示しを「聞き、受ける」場所であるのか、ということ。この二つの似て非なるものの違い、これこそが聖書の宗教なのである。
 「彼の言うことを聞きなさい」と。そこにはイエス・キリストだけがおられた。私たちには、「聞く」ことだけが求められているのだ。教えに従ったり、形にして礼拝したり、高い山で瞑想したりするのではなくて、どこでも聞こえてくるに違いないイエス・キリストの声に聞くということだけが、求められているのである。
 輝かしい時は、ごく短い間に終わった。彼らをおおっていた雲も、モ-セもエリヤもいなくなり、イエスのえもいわれぬ輝きも消え去った。天国の栄光のまばゆさも、神の臨在も、そして彼らの恍惚境も過ぎていった。では、後には薄暗さや、もの悲しさや、空虚な思いが残ったであろうか。否、「自分たちと一緒にいるのはイエス」だけであると知ったのである。
 イエスは昨日も、今日も、明日も変わらぬお方として、私たちとともに歩まれるのお方である。栄光の主が、その栄光をかなぐり捨てて、十字架の道を歩まれた。この方が言われる。「自分を捨てて、自分の十字架を負って私に従って来なさい」と。栄光に輝く天国の門に至る道は、苦難と悲しみと恥辱に満ちた十字架の道なのだ。そこには土ぼこりと汗にまみれておられ、顔には憂いが刻まれているイエスがおられる。
 広き道を大きく開かれた門ではなく。狭き道と門をくぐり抜けて天国に入らなければならないと聖書は教える。
 けれども私たちは失望しない。たといこの目をもってイエスを見ることができなくとも、イエスのことばを聞くことができる。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と言われるイエス。それだけで私たちに対する恵みは十分ではないだろうか。私たちは、イエスのことばに励まされて、恐れることなしにこの世の悩み、あらゆる困難に立ち向かって行くことができる。あなたと一緒にいてくださるのは、イエス・キリストだけ。それで十分ではないか。私たちは霊のまなこをしっかり見開いて、イエスを見据え、イエスの語られるおことばに、日々耳を傾けて歩んでいこう。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12章2節)

2016年10月23日(第4主日礼拝)
『一日の苦労は一日にて足りる』
ジョン・ウェスレー


 神が今日、あなたの上に起こることをお許しになるすべてのものを、み名のために、今日快く耐え忍びなさい。しかし、明日の苦しみを見てはならない。「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6:34)。それが不面目(ふめんぼく)であろうと。あるいは、貧乏であろうと、それが苦痛であろうと、あるいは、病気であろうと、人間の話し方で言えば、苦労である。しかし、神の言語によれば、すべてが祝福である。それは、神の知恵によって用意された貴重な香油であって、神の子たちの間に、彼らの魂のいろいろな病気に応じて、いろいろに調剤して与えられるのである。そして、神は、一日に、その日にとって十分なだけをお与え下さる。これは、患者の必要と力とに釣合いをとって、なされるのである。それゆえ、もし、あなたが、明日に属するものを、今日奪い取るならば、もし、あなたが、すでに与えられているものにこれを付け加えるならば、それは、あなたが耐えることのできる以上のものであるだろう。これは、あなたの魂をいやすためではなく、滅ぼすための方法である。だから、神があなたに今日お与えになるちょうどその分量だけを取りなさい。今日、神の意志を行ない、それにまかせなさい。今日、キリスト・イエスを通して、あなた自身を、あなたの身体と魂と精神とを、神に任せなさい。あなたの人格のすべて・行なうすべて・耐え忍ぶすべてによって、神が讃美されること以外、なにも欲求してはならない。永遠の霊を通して、神とそのひとり子イエス・キリストを知ること以外、なにも求めてはならない。この時において、また、全永遠にわたって、神を愛し、神に仕え、神を喜ぶこと以外、なにも追求してはならない。

 ジョン・ウェスレー(John Wesley、1703/6/28--1791/3/2)は、18世紀のイングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物。この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、アメリカ合衆国・ヨーロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至った。特にアメリカではプロテスタント系で信徒数第2の教派である。聖化を強調し、『キリスト者の完全』を唱えた。これはウェスレー派のメソジストときよめを強調するホーリネスに継承されている。

2016年10月16日(第3主日礼拝)
『 キリストと福音のために 』
マルコによる福音書8章34~38節


 日本に来た最初の宣教師フランシスコ・デ・ザビエルは、もともとすばらしい学問と教養を身につけた青年学徒であった。彼の前途には、望めばどんなに高い学者の地位でも与えられそうな光が見えていたのである。しかし、彼の学んでいた聖バルバラ学院の同じ寄宿舎に、年長で兵隊上がりのイグナチウス・デ・ロヨラという学生が入って来た。ロヨラはもちろん、学問・教養の点ではフランシスコより劣っていた。しかし、そのロヨラが絶えず口にし、学問によって平安を得られずに迷っていたフランシスコを、ついに学者の名誉を捨てて信仰の勇者として立たせた聖句、それがほかでもない、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」というみことばだった。
 なるほど、今の日本には「全世界を得」ようという、たいそれた夢を見る人はいないかもしれない。せめて、美しい奥さんと一姫二太郎の子どもを得、ハイブリットの最新の車を磨き上げて、週末に家族でドライブをし、こじんまりとした家でも手に入れ、自分の職場ではせめて課長くらいにはなり、子どものPTAで人の上に立つようになって、という程度の小市民的な夢に酔っているかもしれない。しかし、大なり小なりその「世界」は、手に入れようとする私たちにいのちそのものを失わせてはいないだろうか。あなたの期待する小さなメシヤは、本当に、あなたに永遠のいのちを見い出させてくれるのだろうか。否、まことのメシャは、長老、祭司長、律法学者たちから捨てられ、多くの苦しみと十字架の死とを受け、三日目によみがえったイエス・キリストだけである。この主イエス・キリストを信じ、従い、行動を共にすることこそ、本当の幸せなのである。
 「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロ-マ6章20~23節)
 イエスは言われる。「わたしとわたしのことばを恥じる」ものは、と。私たちの日々の生活においても、私たちは常に神から問われている。イエスとかれのことばを恥じるような生き方ではなく、「自分を捨てて」とあるように、自分の思いや願いをいったん横に置いて、今自分に神が求めておられることがなんであるかと自らに問いながら、イエスに従っていくものとなりたい。イエスがもしあなたに「赦しなさい」と言われるならば、そのようにしよう。「互いに愛し合いなさい」と命じられているならば、私たちは互いに愛する道を選び取ろう。これが、十字架を負ってイエスに従うということなのだ。
 私は、イエスが与えると約束してくださった永遠のいのち、復活のいのち、これにすでに与ることとされた者は何と幸いなことかと、しみじみ思う。そして、この約束に与っている者として、イエスのみ前に立って恥じることのない歩みをしたいと、心から願う。私のただ一つの願いは、やがて主イエスのみ前に立ったとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイによる福音書25章21節)と言っていただけるよう歩みたい。どんなに豊かな富も、人々からの称賛も、このイエスのみことば前に立つ日のことを思えば、心を奪わない。やがてイエスのみ前に立つ、その日のことを思って今なすべきこと、イエスに求められていることをなしていこうではないか。

2016年10月9日(第2主日礼拝)
『十字架を負って、主に従う』
マルコによる福音書8章34節


 「十字架を負う」と人は言わない。「十字架を背負わされる」と。人生に起こるさまざまな苦しみを、人は「十字架を背負わされる」と言うのだ。あってはならない、決して歓迎されない、本人の意志とはまったく関係なく、こうした苦しみは人を襲う。
 しかし聖書は言う。「十字架を負って」と。自らの意志で十字架を背負って行けと。イエスの言われたことばは命令である。人は皆十字架を背負って人生を歩むのではない。十字架を選び取って背負って生きるのだ。そして「イエスに従え」と。これが聖書のメッセージである。
 人はこれを良しとはしないだろう。しかし神の国への門は、十字架と復活によって開かれている。これは狭き門だろう。誰も好き好んで苦しみを背負うものではない。だから「十字架を背負わされ」と、まるであらがうことの出来ない運命であるかのように。そこには喜びなどひとかけらもない。イエスが言われる「十字架」とは何か。イエスは言われる。「自分を捨て」と。これはたやすくできるものではないし、いったい人は自分を捨てることなどできるのだろうか。しかし、イエス自らこの十字架を背負ってゴルゴタの丘を上った。十字架、それは世界最悪の刑死であった。なぜイエスは十字架に架けられたのだろうか。彼には万死に価いする罪などひとかけらもなかった。罪と死の縄目に虜となっている私たちを救い、解放するために、私たちの罪の裁きを身代わりに受けられた。これが聖書の最大にして唯一の使信であり、「福音」である。「福音」とは、グッドニュース、私たちを支配するあらゆる罪とその裁きからの解放を告げる喜びのことばである。
 私たちにもその十字架を背負えとイエスは命じる。そしてイエスに従えと。付け足すことも、割り引くことも許されないことばである。キリスト教会の歴史は殉教のそれである。多くの血によって染め抜かれた歴史なのである。ならば、私たちにも殉教せよ、というのか。
 自分の十字架を背負うということと、自分を捨ててということは、切り離すことは出来ないものである。自分の思い、自分の願い、自分の好み、そういうものを捨てなければ、自分の十字架を背負うことは出来ない。
 人は自己を守り、自己を表わし、自己を主張する。恐ろしいことに、人間は自己主張のためには神さえも利用し、人間にとって有用であるかどうかで神を量るのだ。そのような人間に対し、キリストは、自己を否定し、無になれ、と要求される。自分を捨てるとは、最終的に自分を自分の心の王座から引き下ろし、その代わりにイエスを王座に迎えることである。自分を中心にして生活することをやめ、神を生活の支配原理、否それ以上に、わたしの情熱とすることである。
 自己放棄の教えを聞いて大きくうなずく人もいるだろう。なぜなら、自己への執着が不幸の起こりだということを、賢明な人はすでに気づいているからだ。自己を捨てることによって悩みから解放され、人間関係がうまくいくようになるという例はたくさんある。ただ、それで永遠の平安は得られないし、神との和解もうまくいかない。自己を否定するだけでは何にもならないのだ。もともと無であった人間が無に徹したところで、何も出てきはしない。自分を否むだけでなく、十字架を負い、イエスの後に続くことが結びつかなければならない。自分の栄光、地上の自分の願いを捨てて、イエスが求めた愛や赦しに生きるということが、私たちが自分の十字架を背負うということなのである。
 私の思いや願いをいったん横に置いて、今自分に神が求めておられることをなすことを考えようではないか。これこそが神の国への道のりである。

2016年10月2日(第1主日礼拝)
『イエスさまに叱られたペテロ』
マルコによる福音書8章31~33節


 イエスは自分が十字架に架けられて死に、三日目に復活するということを、この時まであからさまに、はっきりと語ることはなかったが、ここで初めて弟子たちに明らかにされた。しかし今までイエスの教えを受け、驚くべき奇跡を目撃しながら、弟子たちは誰ひとり理解することはできなかった。それは、彼らもまたイエスを群衆と同じように、偉大な王、圧政からの解放者としてしか見ていなかったからである。ペテロの告白も、彼が真実そのように信じていたかどうかは疑わしい。というのも、そのあとのペテロのイエスをいさめることばにそれが感じられる。
 そんなペテロにイエスは「下がれ。サタン。」と叱りつけた。十字架と復活、それは人類のために与えられた神のご計画である。それこそがメシア、キリストの歩むべき道なのだと告げられたのであるが、ペテロはそんなことがあってはならないといさめた。ペテロは結局のところイエスを十字架に架けないようにする、神の救いのご計画を頓挫させるというサタンの思惑に利用されてしまったのだ。サタンの一番の目的。それは、イエスを十字架に架けないことである。神の救いのみわざを邪魔することである。
 イエスは言われる。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」実にサタンは、私たちに神のみこころなど考えさせず、私の思い、私の計画、私の目論見、私の見通しこそ正しいと思わせるのだ。そして、その自分の思いこそが神のみこころだと思い込むし、人にも思わせる。だから、たとえ善意から出たものであったとしても、それはサタンの誘惑に乗ってしまうことなのである。
 イエスの言われた「下がれ」というのは、直訳すれば「わたしの後ろに行け」となる。イエスは十字架に架けられるためにエルサレムに向かって行かれる。その行く手を阻むな。わたしの前に立ちはだかるな。わたしの後ろに行け。わたしの後からついて来いということなのである。この後すぐにイエスは言われた「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 それにしても、私たちはどうすればこのサタンの誘惑から逃れることが出来るのだろうか。自分が言っていること、していることが神に向いているのかどうか、正しく判断出来るのだろうか。どうすれば神のみこころに、イエスに従って歩んでいくことが出来るのだろう。
 その一つのカギは、自分の願い、自分の思いを絶対視しないということではないかと思う。私たちは、自分の状態や状況が、こうなれば良いのにと思う。家族のことを含めて、そのような思い、願いを持たない人はいないだろう。私たちはそう神に祈る。自分の思いがみこころに適うかどうか、それは私たちには分からない。その上で、神に何とかしてくださいと願い求め、祈っている。それはそれで良いのだ。イエスも私たちに祈ることを勧めておられる。祈る時にいちいち、これは神のみこころにかなうかどうかと吟味する必要はない。しかし、その自分の願いが、見通しが、神のみこころと一つになっていると思い違いをしてはいけないということなのではないか。神は私たちの思いや願い通りに事を運んでくださるわけではない。神は私たちを愛してくださり、私たちにとって一番良いようにしてくださる。しかしその一番良いと思われることが、私たちの思いや願いと一致するとは限らないのである。ではどう祈ろう。イエスが教えてくださったではないか。「みこころの天になるごとく、この地上で、この私を通してなさせたまえ」と。この祈りこそ、サタンに打ち勝つ秘訣である。