2016年09月分(四篇)

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2016年9月25日(第4主日礼拝)
『 賜物としての眠り 』
ジョン・ベイリー


 眠りは、神の賜物のうち、もっとも貴重なもののひとつです。これは、不眠症の犠牲者には、いちばんよくわかっています。この地上におけるわたしたちの生活は、活動と休息、眠りと目ざめが交替するようになっており、休息しなければ働けませんし、眠らねば、目ざめていることができません。日中とちがって、夜になれば、自分たちを意識的にコントロールする必要がなく、すべてを神のみ手にゆだね、なにも心配しなくてよい、ということは、なんという恵みでしょうか。
 ところで、わたしたちは、本気でわたしたちをまかせなければなりません。神にもっとも深く信頼する者に、もっともふかい眠りがおとずれます。このことを、詩篇は、「主はその愛する者に、眠りを与えられる」(127:2欽定訳)といっています。主の愛する者とは、主によりたのむものです。信頼に満ちた心以上によい睡眠薬はありませんし、眠るまえに、祈って神にまかせる以上に、よく眠れる方法はないのです。・・・・
 エリザベス・バーレット・ブラウニングは、現在あまり読まれていないようですが、つぎの節ではじまる詩は、よく人に知られています。

 うたびとの、ふかきしらべにさそわれて、
 いにしえびとの心にあふれし
 くさぐさの神のおもい
 これにもまさる恵みありて、
 「主はその愛するもの眠りをたもう」。

※ジョン・ベイリー著/新見宏訳、日本基督教団出版局、B6版・152P
 ブルームハルトの「ゆうべの祈り」とともに、名著のひとつです。
 ベイリーの「朝の祈り 夜の祈り」。「ゆうべの祈り」がシンプルながら力強いのに対し、こちらは大変美しい。読んでいるだけでも心が洗われるような流麗さがあります。
 また、美しいだけではありません。「ゆうべの祈り」は1年366日分(2月29日含む)の祈りが収録されていましたが、こちらは1か月31日分、更には主日の朝と夜の祈り、計32×2の64種類の祈り。その祈りも、主の祈りで締めくくるものあり、主イエスの台詞の引用あり、聖句ありで非常にバラエティに富んでいます。
 特に主日朝の祈りの冒頭が気に入っています。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。いと高き神に栄光あれ」。言うまでもなく、イザヤ書6章3節と、ルカ福音書2章14節からの引用です。この本は、このように聖句から引用した祈りが多く収録されていますが、祈りの一番のお手本は、ほかならぬ聖書である事が、この本を読めば良く分かります。
 私たちは、日々忙しい毎日を送っており、ともすれば日々が大いなる神の恵みのもとにある事を忘れがちです。のみならず「私の信仰生活は平凡で、証しなどできませんよ」などと思ってしまいがちです。しかしこの本を読めば、いかに私たちの生活が恵み深きものであるかが、きっと実感できるはずです。そしてその恵み深き事を思う時、自然とこの本の祈りに対し「アーメン」と口にできるはずです。
 そのタイトル通り、朝起きた時、そして夜寝る前に読みたい良書で、私の愛読書のひとつです。


2016年9月18日(第3主日礼拝)
『 あなたは、キリストです 』
マルコによる福音書8章27~30節

 ピリポ・カイザリヤへの途上、イエスは弟子たちに問いかけた。「人々はわたしをだれだと言うか。」弟子たちは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
 するとイエスは彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言う。」誰か他の人ではない、あなた自身はどう言うのか?
 信仰とは、他の誰かのためでもなく、自分自身のものであり、人のことばを借りて告白するのではなく、自らの意志で、自らのことばをもって言い表すべきものである。
 これは大変厳しい問いである。「人々は何と言っているか」という問いならば、自分のことではないので、気楽に答えることが出来ただろう。しかし、「あなたは」と問われると、話は別である。この問いに対して、弟子たちは一瞬、沈黙したのではないかと思う。そして、その沈黙を破るようにして、一番弟子のペテロが「あなたは、キリストです。」と答えたのである。バプテスマのヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だというのは、平たく言えば、「神に遣わされた凄い人だ」ということ。しかし、ペテロが口にした「キリスト」というのは、凄い人だということではない。そうではなくて、旧約において預言されてきた救い主、この方によって歴史が変わり新しい時代に入っていく、この方によって神の救いのみわざが完成する、この方によって神のみこころが完全に現される、もっとはっきり言えば、天地を造られた神そのもの、私たちが拝むべきお方ということなのである。すべての人間は、自らの手で作った偽りの神々でなく、天地の造り主である神を拝まなければならない。
 このメシアということばは、直訳すれば、油注がれた者という意味のヘブル語。この油注がれた者という意味のギリシャ語が「キリスト」である。つまりメシアもキリストも全く同じ意味。旧約において、油を注がれて神のご用に立てられる大切な職責が三つあった。「預言者、祭司、王」。メシア、キリストは、まことの預言者、まことの祭司、まことの王として来られる、そういう存在として旧約以来イスラエルの民が待望していた方だったのである。このお方によって神のみこころは完全に明らかにされ、この方によって完全な救いが実現され、この方によって神のご支配が完全に行われる。それがメシア、キリストなのである。この方によって天地創造以来の神の救いのご計画が完成されたのである。
 私たちは何気なく「イエス・キリスト」と言うが、これは「イエスはキリスト、メシアである」という意味である。このイエス・キリストという言い方は、最も短いが最高の信仰告白と言って良いのだ。
 イエスをキリスト、救い主と告白するとは単なることばの問題ではない。その人がその告白によってどう生きるかということが大切である。私たちの信仰はどこまでも不完全であり、私たちはどこまでも不信仰であろうか。しかし、不完全なりに、不信仰なりに、何とか「イエスはキリスト。」「イエスは私の主」この信仰に生きたいと思う。そしてそのために、天の父なる神の支えと導きを願い祈る。それが私たちの歩みなのではないだろうか。
 私たちの信仰は、「イエスよ。あなたはキリスト。そして、私の人生の主人は私ではなく、イエスよあなただ。」そう告白し、その信仰に生きことなのである。
 今や「イエスがキリストである」ことを声を大にして、いや、声だけでなく全身全霊をもって叫ぶべき時が来ている。私たちは私たちの全存在をかけた告白によって教会を建てるべき時が来ているのである。


2016年9月11日(第2主日礼拝)
『 主の手を見つめつづけよう 』
マルコによる福音書8章22~26節


 ひとりの盲人がイエスのもとに連れてこられた。イエスは人々の目の前ではなく、村の外に連れて出、彼を癒した。人々の好奇心の中にその身を置くことを拒否されたのだ。イエスが彼の両の目につばきをつけ、手を当てると盲人の目は開かれた。
 愛のわざの行なわれる場所は、「村の外」であることにもう一度注意を向けよう。イエスは盲人の「手を取って」、導いて行かれたとある。非常に感動的な場面ではないだろうか。イエスは「村の外に出て行け。そこでなおしてあげよう」とは言われなかった。盲人はもちろん杖をついて村のはずれまで自分で歩いて行けるだろう。しかし、恩寵の場所まで手を引いて行くのは恩寵(イエス)なのだ。目の開けるところまで自力で出て行くのでなく、そこまで行くのも恵みの力なのである。私たちは目が開いてからイエスに従うのではない。目の開かれていない時、すでに主イエス・キリストに手を引かれている。このような汚い手を引いていただくのは恐れ多い、として辞退するのも、謙遜なようでいて実は頑迷である。大切なことは、自分の手をとって導かれるお方に、素直に身をまかせよう。
 イエスのとった行動に思いを向けよう。イエスがこの盲人の前に立って両手を目に当てられたというよりも、この人の背後に立たれて、後ろからその見えない目に手を当てられたことがわかる。はっきりしていることは、イエスは彼の正面にはおられないのだ。後ろに立って、いわば介添役をしておられるのである。またイエスは、少し見えるようになっただけでこれで良しとはされなかった。完全に治りきるまではその御手を手放したまわないのである。なぜだろうかと想像する。私たちが思うのは、イエスご自身がこのあわれな盲人の正面に立たれて、その目を癒して差し上げる、それが普通に想像する光景であるが、、ここでのイエスと盲人の立ち位置は、少し違っている。イエスは、この盲人の目を開いて、まず自分の目を癒してくれたイエスを見よ、とは考えておられなかったのではないだろうか。
 イエスはまず彼を取り巻く現世界をお見せになられた。そして最後に、イエスご自身を見ることをお許しになられたのである。町には戻らないようにと命じられたのも、それが単なるパフォーマンスとしか人々に思われること、そのことでイエスを偉大な王、メシアとして担ぎ上げられ、祭り上げられることを避けられたのである。
 盲目であったこの人は癒された。そして自分の目の前にある光景を自らの目で見て、新しい世界が今自分の前に開かれるのを見た。そして次に彼はその見えなかった目のすぐ前にあるイエスの手を見ることを許されたのだ。自分の両目を覆っていたイエスの手をである。そして彼は振り返って、はじめて自分を癒し、苦しみから解放してくださったお方のみ顔を直接見ることが許されたのである。
 私たちは私たちの前に拡がる恵みの世界を見ることを許された。しかし私たちが見るべきは、目の前の拡がる世界ではなく、自らの見えない目を両手で覆い、癒したもうたお方、イエスの手を見つめるべきではないだろうか。
 すぐ目の前にある主イエス・キリストの恵みの手を見つめていなければならない。それが開眼の順序なのだ。やがて私たちは目をもう少し上げて、いつくしみのまなざしを向けておられるお方の御顔をはっきりと見るであろう。そのとき私たちは神の恵みに満ちた世界をこの目で見ることができ、神をほめたたえて生きるものとなるのである。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)


2016年9月4日(第1主日礼拝)
『 まだ悟らないのですか 』
マルコによる福音書8章13~21節

 パンの奇跡を目の当たりにしてもなお弟子たちはパン一つのために議論する。そこにわずかのパンでも大群衆を養うことができるお方がおられるのにもかかわらずである。なんというていたらくだろう。イエスは言われる。「まだわからないのか、悟らないのか」
 イエスはまた言われる。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけよ」と。
 パン種とは、目に見えないほどに小さく、しかし粉を練った塊の中に入ると、塊の全体をふくれさせ、大きく見せかけるが、そのままほうっておくと、ついには酸っぱく変質させてしまう。パリサイ人たちヘロデのパン種とは何だろう。それは偽善のことだとイエスは言われる。
 私たちが真に警戒しなければならないこと。それはいかにも敬虔深げであり、熱心そうでありながらも、内実は不信仰に陥ってしまうということ。昔のパリサイ人たちはイエスに対しては歯をむき出し、彼らの悪念はそこであらわになったのだが、今のパリサイ人はもっと巧妙に偽善を行う。すなわち、イエスに対しても極めて温順そうな顔をし、自他ともに敬虔な信者として通るが、イエスに対する燃えあがるような愛はない。
 また彼らの教える律法主義、教条主義は人を見下し、自分を正しいとする。このパン種は、いつでもキリストの教会の中に入り込んでくる。自分のことは棚に上げて、あの人はどうだ、この人はどうだと非難するのだ。このパリサイ人たちのパン種と無縁な教会などない。
 また、ヘロデのパン種とは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデを指しているのだろう。自分の面目を守るために神に遣わされた預言者を殺す、そのような人々の思いの中で、イエスも十字架につけられることになっていくのである。イエスの時代、ヘロデ党は世俗主義、享楽主義に陥っていた。
 キリスト教会がパリサイ的生き方に警戒しなければならないのは当然だが、パリサイ的傾向を警戒し、排撃するあまり、その逆の世俗主義に対して寛大でありすぎるほどの危険に注意しなければならないのではないか。ヘロデの宮廷は姦淫と悪徳に満ちていた。そのパン種もひそかに教会の中に侵入するのである。
 今日のキリスト教会は、三つのことに常に気をつけていなければならない。「偽善と教条主義、そして世俗主義」。これが教会を衰退させ、腐敗させていくのである。
 キリストの教会は、その時代、その国の考え方や常識というものと無縁ではない。いつでもその影響を受けている。しかし、どんな時代であっても、イエスを主とし、神が与えたもう養いの中に既に生かされているのだから、安心してイエスと共に歩んでいけば良い。大切なのは、自分の面目を守ることでも、自分の正しさを守ることでも、自分の才覚を信じて生きることでもない。既に主の養いの中に生かされている事実を感謝をもって受け止め、主をほめたたえて、主の与えられる平安の中を生きることなのである。
 最後にこの一つのパンを裂いた光景は、今日の教会における聖餐式を彷彿させる。それは、このときにイエスがパン種のことに言及しておられ、そしてパン種のことは聖餐式との関連において、しばしば触れられているからだ。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(Ⅰコリント5:7)
 キリストの教会における聖餐式も、過越の祝いと、除酵祭との意義を継承し、常に純潔が追求されている。私たちも追い求めよう。霊的純潔を。