2016年08月分(四篇)

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2016年8月28日(第4主日礼拝)
『 い の ち の 泉 』
新しい方への聖書のことば


 私たちの教会は1989年(平成元年)に長浦の地に誕生しました。当時は「フレンドシップアワー」という名で活動していましたが、その後「長浦キリスト教会」と改名、蔵波台で活動し、2007年に現在の地、袖ケ浦市福王台に新会堂を得て今日に至っています。そして、新会堂完成と同時に、教会名は「いのちの泉聖書教会」となりました。
 これは聖書の中のことばから名付けられたもので、すばらしい名称だと思っています。私たちの教会が文字通り「いのちの泉」わき上がるところとなるようにとの願いや祈りが込められています。
 現代はモノがあふれ、何一つ不自由のない生活ができる時代です。お金さえ出せば、何でも手に入るのです。けれども、その一方で人々は何かが足りないと感じています。モノはあふれても、心は渇いているのです。昔、聖書の預言者は神さまからのメッセージを語りました。それはパンの飢饉ではないというのです。
 「見よ。その日が来る。─神である主の御告げ─その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス8:11)
 「主」とは神さまのこと、神さまがこの世に救い主として遣わされたイエス・キリストのことです。そのイエス・キリストは次のように語ってます。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
 「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。』」(黙示録21:6)
 イエス・キリストはその生涯を十字架の上で終えられました。罪のない神さまの独り子がこの世のあらゆる罪、あなたの、そして私の罪を背負い裁きを受けられたのです。その十字架の苦しみの極みにおいて言われたことば、それが「事は成就した」でした。神さまの私たちへの愛、救いのわざはここに完結しました。けれども死はイエス・キリストを縛り付けておくことが出来ませんでした。そうです。イエス・キリストは三日目に、死と墓を打ち破り復活しました。ここに、死がもはや裁きでも恐れでもない世界が訪れたのです。
 イエス・キリストは今日も、明日も私たちに語り、招いておられます。
「来たれ。わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない」、その上、信じる者には、その人のうちから「永遠のいのちへの水(愛)」がわき出る、と。
 どうぞ、私たちの教会においでください。「渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」と約束してくださる神さまがあなたを招いておられます。
 私たちの教会にはホームページがあります。毎週日曜日の夜に新しく更新されています。日曜礼拝の牧師のお話も聞くことができます。ぜひ訪れてみてください。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

2016年8月21日(第3主日礼拝)
『なぜ、しるしを求めるのか』
マルコによる福音書8章11~13節
 

 「天からのしるし」を求めるパリサイ人たちにイエスは言われる。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられない」。それは、イエスを試そうとする人を満足させるためには、決してしるしは与えられないということなのである。「今の時代には」とあるが、これは二千年前の人たちにはという意味ではない。しるしを求めるような、いつの時代にも、という意味である。何か驚くべき奇跡を起こしてくれたなら信じても良い、そう思っている人にはイエスは決してしるしを与えないと言われたのである。いつの時代でも、イエスは生きて働いてくださる。驚くべきみわざをなしてくださる。しかし、それが起き、目で見たら信じようという人には、決してしるしが与えられることはないのだ。
 聖書の福音書の中には、イエスがなさったたくさんの奇跡が記されている。しかしどれもがパフォーマンスとして、これをしたのなら信じようという人に対してなされたものは、一つもない。イエスの奇跡は神のあわれみのわざなのであって、私たちはそれを感謝と賛美をもって受け取るだけなのである。間違っても、イエスをテストするようなあり方でイエスに関わるならば、決してイエスのあわれみに与ることは出来ないのである。
 それは私たち人間と神との根本的な関係を示している。イエスが主なのであって、私たちが主ではない。私たちは神のしもべなのであって、神が私たちのしもべでは断じてない。しかし、この「しるしを求める」というあり方は、私が主であって、イエスを私たちの召使いにしてしまう、根本的な間違いを犯しているということなのである。それは、しるしを求める、奇跡を求めるというあり方だけを言っているのではない。神が告げること、イエスが言われることを、自分の考えと同じなら良しとしよう、違っているのなら認めない、これもまた同じだ。私の考え方、生き方、常識、それが主になっているからである。このようなイエスとの関わり方は、信仰が与えられる前の私たちの姿そのものであった。しかし、信仰が与えられ、私たちは変えられた。まず神のことばが先にあった。
 サタンはいつも私たちにささやきかける。「もしお前の信じる神が本物ならば、お前の苦しんでいる現実を見て必ず何かことを起こして助けてくれるのではないか」と。しかし、イエスは言われる。『あなたの神である主を試みてはならない』。
 しかし、試みたうえで信じることはやはり必要なのではないか、と私たちは周囲の諸宗教をながめるときに思う。試みたうえで捨て去られねばならない神々が多すぎる。神と呼ばれているものの区別をつけなければならないだろう。だが、それでも、試みたうえで神を信じることは、正しくない。試みて、偽物を排除して、納得できる神を信じようとする、私たちの心の中には、やはり神を試みるという思いが潜んでいることがあるのだ。
 ならば私たちは何をもって神を信じるのか。私たちが信じる神はパフォーマンスの神ではない。十字架の極みまでも私たちを愛し、私たちの罪を背負って、私たちを愛し、私たちに仕えてくださる神なのである。私たちは奇跡を見て信じるのではない、語られたことばと私たちを探り、さばき、恐れさせ、そして愛し抜いてくださったお方を信じるのである。
 神の与えられた「天からのしるし」とは、イエスの十字架であった。旧約の時代から預言されていたメシア、救い主は「苦難のしもべ」として、その生涯を歩まれた。神の人類救済のご計画は、この十字架によって完成した。そのとき、天変地異、あらゆる地の現象が震え動いた。その救いの力は、信じる私たちのうちに、今も鮮やかに現されているのである。

2016年8月14日(第2主日礼拝)
『主の養いの中で生かされている』
マルコによる福音書8章1~10節
 

 先に五つのパンと二匹の魚を持って5000人を養った、というイエスのわざを見た。そして今、4000人の給食の記事を見る。これはまったく同じ奇跡と片付けることはできない。内容も対象も、そして場所も異なるのだ。大きな違いは、このたびの奇跡は「異邦人」を対象に行われていることであろう。しかもこの奇跡は明らかに弟子教育として理解していくときに、その意味するところが一層明らかにされる。
 イエスは、この大勢の人々をわずかなパンで養うという出来事を繰り返されることによって、人は神の驚くべきみ力によって養われ、生かされているのだということを、弟子たちの心に深く刻ませようとされたのではないだろうか。これもまた来たるべき十字架を前にしての弟子訓練、教育のひとつであった。
 旧約において主の養いによって神の民が生かされた出来事として、マナの奇跡を思い起こす。かつてイスラエルの民は、モーセに率いられて、エジプトの奴隷の状態から救い出され約束の地にたどり着くまで40年の間荒野の旅を続けたが、彼らはその間ずっと天からのマナによって養われ続けた。これは毎日のことであり、40年の間それが続いたということは、イスラエルの人々、神の民にとって、決して忘れることの出来ない出来事であった。そして、自分たちは神の養いの中で生かされているのだということを知ることとなったはずである。これは決定的に大切なこと。神の民とは、主の養いの中で生かされていることを知る民なのである。イエスは、このことをご自分の弟子たちにもしっかり心に刻ませるために、この不思議な出来事を繰り返されたのであると、私は考える。逆に言えば、それほどまでに、主の養いに生かされているということは身につかない。自分の手で、自分の力で稼いで生きているのだという所から、私たちはなかなか離れられないということなのでもある。実に、信仰に生きる、神の民として生きるということは、この主の養いというものを本気で受け取るという所にかかっていると言っても良いほどなのだ。
 イエスは後に、弟子たちにひとつの祈りをお教えになられた。「主の祈り」である。「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と。なぜこのような祈りをせよと、お教えになられたのだろうか。それは、私たちがいつの間にか、神への信頼、神から養いを受けるということへの感謝を忘れ、自らの手で、また力で稼ぎ、家族を養い、生きているかのように思い込む愚かさがあるからなのではないだろうか。
 私たちには、神の養いが必要である。食べ物だけではない。健康も、仕事も、そして私たちを取り巻く人間関係のあらゆる場面において、神を信頼し、どんな小さなことでも祈り求めることを、教えられる。
 「パンはどれくらいあるか」とイエスは尋ねる。決して「パンはいくつ足りないか」とは問われない。私たちは、必要な力や愛について夢と理想を描き、その夢に達しない自分の不足分にくよくよするよりも、現に与えられて手の中にあるものを見直すべきである。ない物にではなく、ある物に目を向けるべきである。たとえパン7つでも、5つでも神の祝福によって大きな力を発揮するもとでとなるのである。
 このあとイエスは、人々を「解散」させられた。奇跡によっていやがうえにも高まった陶酔境に浸り続けようとする人々の願いを退け、現実の中に出て行かせたもうた。私たちも今日与えられた恵みを内にとどめながら、このところから出て行き、新しい道のりを歩み進んでいこうではないか。「日ごとの糧を今日も与えたまえ」とイエスに教えられた祈りを祈りつつ。

2016年8月7日(第1主日礼拝)
『 エ パ タ、開 け 』
マルコによる福音書7章31~37節 

 
耳が聞こえず、口のきけない二重苦を抱えていたひとりのあわれな人が友に手を引かれてやってきた。彼の上に手を置いて欲しいと懇願する友。イエスはただそのひとりを連れ出さる。大勢の群衆の前ではなく。今イエスはひとりの魂と向き合おうとされるのだ。イエスが一対一のこのときの出会いを、この後までどんなに大事にしておられたかを、私たちは知らなければならない。実に、イエスが癒しのわざをなされる時のやり方は、一人一人違う。病気や障害で苦しんでいる人の一人一人が、全く違った状況の中で苦しんでいるように、イエスの癒しのわざも、一人一人違う。ただはっきりしているのは、イエスはその一人一人にふさわしい癒しをされるということである。イエスの私たちとの関わり方とは、いつもそうなのだ。一人一人違ったあり方で出会い、救いへ導いてくださるのである。一人一人違った課題があり、悩みがある。それをイエスは受け止めてくださって、一人一人に一番良いあり方で解決してくださり、乗り越えさせてくださり、出会ってくださるのだ。
 しかし、イエスの取られた行動は異様とも思える。両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。
 それはあたかも頑なに閉ざされた耳をこじ開けるかのように。今の時代は自己主張を、自分の意見や考えを声高だかにする時代である。人々の中からいつしか「聞く」という心が失われてしまったようである。イエスこの人の「両耳に指を差し入れ」た。みことばを受けつけない耳を、固い岩盤を突き通すように。人は語ること以上に、耳を開かれていなければならない。「深く嘆息された」。それは神のことばを拒否し、頑なに心閉ざす世界をうめき、しぼりだすような思いであった。やがてそのうめきは十字架の上で、再びこの世のあらゆる罪を背負い、深く嘆息して、命尽きられた。
 イエスは言われ。「エパタ」すなわち「開け」。はじめに神が「光あれ」と言われたとき、この世界は生まれた。このことばはまさに新しい創造のはじまりを宣言することばでもあった。今もイエスはこの世に向かって、心閉ざされた人間に命じておられる。「エパタ」すなわち「開け」と。
 耳開かれ、舌がほどけた人はどうしただろう。彼のことばをもって神をほめたたえた。新しい人間のあるべき本来の姿を取り戻したのである。
 「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。」(イザヤ書35章)。 ひとりの人間が新しい人生の出発をしただけでなく、荒野に水がわくような、新しい世界が開けた。そうだ。今、私たちが、耳の聞こえない者でありながら福音を聞き、口のきけない者であったにもかかわらず告白と賛美を唱えることができているこのとき、世界は新しいものになっていることを知るのだ。新しい天と地が開けているである。
 この人は、他の人と話が出来るようになった。単に耳が聞こえるようになった、口が利けるようになったという、肉体の癒しということ以上の出来事が起きた。天地創造において神が作ってくださった、神に似た者として造っていただいた本来の人間の姿が回復されるという出来事が起きた。
 人の話を聞くことが出来る。人に向かって話をすることが出来る。それは、単に情報を遣り取りするということではない。人は、ことばに自分の心を乗せて、心を伝える。受け取る方も、そのことばに乗って伝えられる心を受け取る。それが愛の交わり、取り戻すべき本来の私たちの姿である。
 イエスとともに新しい世界が訪れた。イエスは今も言われる「エパタ」。