2016年07月分(五篇)

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2016年7月31日(第5主日礼拝)
『 喜んで説得される神さま 』
マルコによる福音書7章24~30節 


 「喜んで説得される神さま」というは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神が説得され、みこころを変えるなどということがあるのだろうか。
 神の救いに与った私たちは、神が永遠のご計画の中で私を救ってくださった、そう信じている。しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神だけが知っておられることである。この神の領域に、私たちは入り込んではならない。だから私たちは、この人があの人が救われることを願い、神に祈る。また、そのために出来るだけのことをする。そして、そのことを神は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださる。それが、「喜んで説得される神さま」ということである。
 ここに悪霊に取り憑かれた娘を抱え、苦しむひとりの女が登場する。彼女はイエスのことを聞き、「すぐに」(25節)駆けつけて来た。彼女にイエスのことを伝えた人は、非常に不完全な、断片的な知識しか与えなかったことだろう。だがしかし、真実飢えている人にとっては、わずかなことばでも大きな力であった。福音ともいえないほどの、イエスについての報告の断片が、彼女を立ち上がらせた。わずかに聞いただけでも、すぐに駆けつけて来ざるをえないのが、イエスの「み名」なのだ。
 一方、福音のことばを十分豊かに聞いておりながらも、それでも激しく心動かされるわけでもなく、それによって人生を変えるわけでもない場合がある。どうして、こうまで違うのだろうか。この女とどこが違うのか。違いの第1は、自己の窮乏についての意識だ。彼女は「悪霊につかれた小さい娘」を抱えて、失意のどん底にいた。それだけに救いを求める願いは切実だった。マタイによる福音書15章にある並行記事では、この母親が叫び続けた、と書かれてあるが、母親も冷静さを失うほどに事情は切迫していた。そのようなところに一片の福音が与えられるときに、彼女はすぐさま立ち上がったのである。
 この母親はイエスの足元に「ひれ伏し」、必死に願い続けた(26節)。
 ところが、イエスはひれ伏し、すがりつくこの母親を冷たく退けられる。
 イエスは言う。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
 一読しただけでは、ここでイエスが何をお語りなったのか分かりにくいかもしれない。ここで「子どもたち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「小犬」と言われているのは異邦人のことを指している。ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、イエスともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう受け取る人もいると思う。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのだ。イエスも他のユダヤ人と同じなのか。確かに、そのように読むことも出来るだろう。
 神の救いのご計画、救われる者の順序。それはまずユダヤ人だと言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのだ。しかし、私たちの見るべき所はそれではない。
 女は、これほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、イエスに迫った。28節「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」何と機知に富んだことばだろう。この女はあきらめることをしなかった。ゆえにイエスに受け入れら、驚くべきみわざにあずかったのである。
 ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けることのない神のお姿、愛があるのである。私たちが見るべきは、この神の愛なのだ。
 このことを知った私たちはどうするのか。私たちもあきらめることなく祈り続けようではないか。私たちの神は「喜んで説得される」神なのだ。望み得ない状況のときにも「主よ。そうです。でも…」と祈り求めていくものでありたい。

2016年7月24日(第4主日礼拝)
新しい方のために聖書のことば
『知者になるためには愚かに』


 聖書の中にパウロのことばがある。
 「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。」(Ⅰコリント3章18~19節)
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3章10~12節)
 聖書は私たちが皆「罪人」であると言う。「あなたは罪人」と言われて気持ちの良い人間などいるだろうか。確かに厳しく自分を見つめるならば、どんなに真面目に生きている人でも、自分を「罪無し」と言い切ることができないのを知る。反対に自分には責められること何一つ無い、という人があれば、周りの人は眉をしかめるだろう。
 この世の中には性善説があり、性悪説がある。どちらが正しいのかはともかく、私自身は、人は生まれつき善なる存在であるとするよりも、欠けだらけの人間であるとする方が、自分にはいかに優しいかを思う。人間は皆、本来は誰もが正しい、良い人間であるなどと保証されたら、私自身は自分が規格外れだと思い込んで、立ち上がることができなくなるだろう。
 しかし、はじめから正しい人も、完全に善を行う人も、ひとりもいないのだと言われるときに、むしろ私は心置きなく、自分の弱さや、他人の弱さを見つめ、受け止めることができるようになる。そして、自分はもう赦されないだろうとか、あの人は許しがたいひとだとかも言わなくてすむようになる。なぜなら、悪い点のない、曇り無き聖人などひとりもいない、と聖書はそもそものはじめから明確に断言しているからである。
 そもそも人間がまったく正しい存在などと言い切らないほうが、ものごとをすべてをありのままに見ることができ、受け入れることができるのではないだろうか。
 かつてのパウロは、自らを正しいと自他共に公言してはばからなかった人間であった。しかしイエス・キリストとの劇的な出会いによって、その人生を一変させられたのである。今まで見えなかったものが、見えるようになったのだ。パウロは当時の最高の学問を究め、あらゆる知識にも富んでいた。それが彼の財産であり、誇りであった。しかしイエス・キリストに出会ってから、それらのものを「糞土」のように思えるようになったと述懐している。
 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。・・・ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリ1章20~23節)
 私たち人間が本来盲目で、愚かで、弱いものであるという認識に立たなければ、そこから抜け出すことは出来ない。これはすばらしい逆説である。なぜなら人間がもし原則として賢く、正しく、よく物の道理がわかり、かつ強いものだということになると、私たちの現世のさまざまな現実とことごとくぶつかり、一切のことが説明できなくなる。
 知恵や知識、あらゆるすぐれた学問をもってしても説明できない世界が「信仰」である。信仰を非科学的と断ずる現代人は多くいる。しかし、すぐれた科学者でもすばらしい信仰に生きている人と、私はたくさん出会ってきた。信仰と科学は相容れない世界ではない。そもそも同列に置くことができないのである。「愛」、これこそが最大の矛盾にして最高の力である。

2016年7月17日(第3主日礼拝)
『 何 が 人 を 汚 す の か 』
マルコによる福音書7章14~23節


 イエスは言われた。「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もない。人から出て来るものが、人を汚す」
 当時のイスラエルにはさまざまな食物に関する言い伝えやしきたりがあり、それらに規制されていた。それは「潔め」の律法の一つであった。「何を食べて良いか、何を食べてはいけないか、人々は一つ一つに神経をすり減らすように生活していた。そこにイエスは来られた。
 イエスの語られることは、今までの伝統を壊すような教えであった。潔めについてのこれまでの多くの戒めと、さらに多くの言い伝えとはイエスによって廃止された。イエスは外からのものは潔めのさしさわりにならない、と宣言された。何を食べても、何に触れても汚れることはなく、それらの外的なものに対しては、私たち人間は自由なのだ、と。
 手を洗わないで食事をしていた弟子たちを、非難攻撃する人々へのイエスのことばは、マタイによる福音書によれば、「洗わない手で食べることは人を汚しません」と締めくくられている。洗わない心で食事をし、清くない心で生きていることが、その人を汚しているのだ。そうだ。手ではなく心を洗うべきなのだ。「私たちの手をも心をも、天におられる神に向けて上げよう」(エレミヤ哀歌3章41節)
 しかし、私たちがもっと深く学ばなければならないことは、他の誰でもない、わたし自身の内側である。「人から出るもの、これが、人を汚すのです」ということばに目を注がなければならない。
 私たち人間は外の世界に対しては実に自由である。しかし、それだけすぐれて豊かな人格を持った人間も、自分自身の中から出てくるものによって自ら汚されているのだ。明らかなことは、外からのものよりも、内からのもののほうが汚らわしいのだ。つまり、外からのものには侵されぬ人間の尊厳は、自らの罪のゆえに全く惨めにも踏みにじられている。これが現実の私たち人間なのである。パリサイ人の場合がよい例である。彼らは外から口に入るもののことをしきりに気にし、しかし、自分の中から出る悪しき思いが自己を汚すのを防ぐことができていないのだ。
 私たち人間は「罪」によって損われている。善を欲しても、結局悪に負けて「悪い考え」を抱いてしまうのである。それが人間の現実である。
 私たちは自分の内に根強く巣くう「罪と汚れ」については、はるかに鋭い意識を持たなければならない。イエスは、そのような深い罪意識をここで迫っておいでになるのである。
 私たちの心の一番深い所、根っこのような所にある「罪」は、私たちを神さまに敵対するように、神の方に顔を向けさせないように、神なんて関係ないと言って生きるようにと、引きずって行こうとする。それは、別の言い方をすると、「私は正しい」ということを主張させようとする力として働くものだ。罪は、決して自らの罪を認めない、そのように働くのだ。それは神に対しても、社会に対しても、人と人との関わりにおいてもそうである。どんな時でも、誰に対しても、私は悪くない、私は間違っていない、私は正しい、そう主張しようとするのだ。これは本当に根深い。それは誰の心の中にもある。
 私たちは本当に自分の罪を認めようとしない。ところが、ただ神のみ前に立つ時だけ、私たちは自らの罪を認めることが出来る。まことの愛、曇り無き真実なお方の前に出る時、私たちは自らの中に愛が無いことを知らされ、自分のことしか考えていない自らの罪を露わにされ、自らの罪を認めざるを得ないのである。そこにこそ真の解放と救いの道がある。

2016年7月10日(第2主日礼拝)
『 何 が 大 切 か 』
マルコによる福音書7章7~14節


 ユダヤ人は聖書の律法に忠実に生きてきた民族である。彼らの日々の生活は律法に従って営まれていた。しかし長い歴史の中で律法が彼らの生活に適するものとなるために、さまざまな「言い伝え」や「しきたり」が多く生まれた。いつしか、人々は律法の本来の目的や意味よりも、こうした言い伝えに規制され、あるいは支配されるようになっていた。そこにイエスが来られた。イエスは律法に縛られることのない自由に生きている、律法の専門家たちには思えた。だから彼らはことあるごとにイエスを攻撃した。しかし、イエス自ら宣言しておられる。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためではない。廃棄するためにではなく、成就するために来たのだ」と。
 律法はただ二つのことから成るとイエスは言われる。すなわち「神を愛せよ。」そして「隣人を自分のように愛せよ」と。律法はこの二つの教えに尽きると言われた。しかし、律法の専門家はこれを理解することはなかった。依然として古い言い伝えやしきたりに縛られていたのである。
 人間が日々神のみこころに生きようとするとき、律法は祝福となるが、同時に大きな災いを生み出す。生み出すのは律法を与えられた神ではなく、それを解釈する人間である。しかも悪いことに、人は神の律法をもちいて、他人をさばくのである。自らを正しいとするものは、他人を正しいとすることが難しい。ゆえに断じて自らを正しいものとすべきではない。
 「コルバン」、これは「神へのささげもの」と言う意味である。父母がその子に求めるとき、それを惜しんで子はこう言うのである。「お父さん、お母さん、残念ですがこれはコルバン、神への供え物です。」
 何が残念なものか、彼はこれを惜しんで父母への孝養を拒絶するのである。そもそも父母にあげる気などさらさらないのだ。なんという欺瞞、神への冒涜だろう。律法が本来教えていることをいつしかねじ曲げ、勝手に解釈し、しかもそれをもって、いかにも自らが神に真実に生きているかのように装う。彼らには愛がないのである。そもそも神を愛する愛など微塵もないのである。こうした人間をイエスは厳しく弾劾し、糾弾する。
 聖書の教えはすばらしい。しかし聖書に生きようとする人間は、自らを正しいと決してしてはならない。ましてや聖書を教えられていながら、隣人を愛すること、赦すことができない私たちは何ものなのだろう。
 しかし、こんな私たちを神は愛してくださった。そして赦して受け入れてくださり、いのちを授けてくださった。聖書の教えは私たちが神に対しても、隣人に対しても真実に生きるガイドなのである。
 生きた神のことばは、必ず真実な応答を呼び起こさずにはおれないのである。決して聖書のことばが一人歩きすることはないのだ。ましてや、これに付け足したり削ったりするようなことは決して許されない。私たちはただ謙虚に耳を傾け、心開いて神のことばに聞き従おうではないか。
 聖書は神のみこころが示されている神のことばである。それはみことばを聞く者に対し、鋭く服従することを迫って来る力を持っている。しかし、それをみことばを聞く者ではなく、他の人にあてはめるために使おうとすれば、必ず誤りが犯されてしまう。
 生けるまことの神は実に聖書において知られるのだから、聖書をどう見るかということは、実にその人の生活を決定することになるのだ。私たちは聖書を誠実に読み、誠実に解釈し、それを誠実に実行できるものとなろうではないか。そのためにこそ、私たちは聖書を深く読み、聖書の語ること、教えるところを注意深く、謙虚に受け止めていくことが肝要である。間違っても「聖書読みの聖書知らず」になることがないようにしよう。

2016年7月3日(第1主日礼拝)
『人間の言い伝え、神の戒め』
マルコによる福音書7章1~8節

 都から来た律法学者、パリサイ人たちは弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見て、イエスをとがめた。
食事の前に手を洗う、これは至極当たり前のことだと、私たちは思う。当時だって同じじゃないか、と思う。しかし、しかしだ。この「手を洗う」という行為は衛生上の問題だけではなかった。当時、人々を規制し縛り付けるさまざまな戒めがあった。数えることも困難なほどたくさんの「伝えられた、しきたり」があったのだ。パリサイ人たちはイエスに尋ねた。「なぜ、」昔の人たちの言い伝えに従ってあゆまないのか」と。
 イエスは彼らに言われる。「あなたがた偽善者」と。そして「口先では敬うが、その心は遠く離れている」と。心がない、と。
 「言い伝え」というものは律法に反してはいない。しかしこれが一人歩きしはじめるとたいへん窮屈なものとなる。いつの間にか神の教えよりも、「言い伝え」や「しきたり」が優先され、重んじられて、その本質を見失って、人の良心さえも拘束し、聖書の本質を軽んじることになってしまう。
 言い伝えもしきたりも、聖書を実践するために解釈されたもので、絶対的なものにはなり得ないのである。
 パリサイ人たちはその意味するところ「分かたれたもの」と自他共に認め、厳格にこれを守ることで、神に聖なるものとなると信じていた。そして人々にも、しきたりを守ることを強要していたのである。
 彼らパリサイ人たちに対する批判は、私たちの間では常識化しているが、彼らの優越感を私たちの優越感が見下したところで、何の益もない。なぜなら、私たちもまた、しばしばパリサイ人のように、自分の考え方ややり方を無意識のうちに、絶対化して他人におしつける間違いを犯しているのである。
 主イエスは手を洗うことに反対したのではない。手を洗うという、人間の取り決めたもので、人間そのものを否定しようとすることに反対したのである。「手を洗う」ことで、清くなったと思い込み、そのことで自分を守り、他人に目を光らせ、非難攻撃しようとする偽善を見破り、弾劾するのである。主はひとことのもとに「偽善者」と決めつける。
 イエスは偽善を最もお嫌いになられた。信仰と最も不釣り合いだからである。(偽善者を意味するギリシャ語は、芝居をする人)。
 人間の言い伝えは、この虚偽をあばき出すに十分な力をもってはいない。それがたとい「宗教的」な言い伝えであっても、実は人間の教えなのである。この虚偽をあばき出すのは神のことばだけである。
 イエスは単に偽善や形式主義をたしなめておられるのではない。かれは神のみことばへの立ち返りを呼びかけておられるのだ。神のみことばは、私たちのあらゆる偽善を砕き去らずにおかないのである。
 それにしても、なぜ弟子たちは手を洗わなかったのであろうか。普通のユダヤ人である限りは小さいときから厳しくしつけられてきたのに違いないのに…。パリサイ人に見とがめられるほど大っぴらに、一人や二人でなく何人もが手を洗わなかったのはなぜだろう。弟子たちは当時の言い伝えや習慣に縛られずに、きわめて自由な生活をしていた。主イエスにすでに教えられていて、そうした儀式にもはや意味のないことを知っていたからだろうか。けれどもわたしはふと考えた。きっと、手を洗うことを忘れ、洗ったか洗わなかったかも忘れ、ケチをつけられて、キョトンとしていたのではないか、と。主イエス・キリストの前に立つと、律法について、人間の言い伝えについて、忘れっぽくなるのかもしれない。そう考えると聖書の描写がもうひとつもふたつも興味深いものとなる。