2016年06月分(四篇)

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2016年6月26日(第4主日礼拝)
新しい方のために聖書のことば
『 肉 体 の と げ 』


 人は誰しも一つや二つは肉体上の欠陥、弱さを抱えて生きている。かく言う私も、若い頃は健康だけが取り柄だったが、今は器械によって命長らえ、二日に一日、クリニックで5時間ベッドの上で縛られるようにして生活する身となった。
 聖書にこんなことばがある。「神様は、私が高ぶってはいけないと心を配られました。 それで、肉体に一つのとげを与えられたのです。 それは、高慢にならないように、苦痛を与え、悩ますための、サタンの使いです。私は、もとどおりに回復させてくださいと、三度も神様にお願いしました。そのつど返ってくる答えは、こうでした。『いや、治すまい。 しかし、わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。 わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから。』今では、私は、自分の弱さを喜んで誇ります。 力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。」(Ⅱコリント12:7~9)
 当時のユダヤ人は、病気はサタンによってもたらされると考えていた。それでパウロは自分の苦しみをサタンからの「使い」という言い方をしている。これは「アンゲロス」。天使=エンジェルということばはここからきたのだろうか。ここには、良い霊も悪い例も同時に含まれている。
 パウロの苦しみが何だったか諸説様々だが、極度の視力障害があったようだ(ガラテヤ6:11)。視力障害によって襲ってくる頭痛にしばしば悩まされていたのだろう。そのパウロは熱烈な迫害者でありながら、復活のキリストに出会い、生涯を一変するような経験をした。その時の様子を彼は語る。突然、天からの光が輝き、視力を失った、と。肉体の視力は失ったとき、内面の視力が与えられた、とも。今までのパウロに見えなかったものが、見えるようになったのだ。彼は失明は免れたが、その後も視力障害は彼を苦しめ続けた。しかし、パウロはその苦しみを「エンジェル」と表現した。なんという驚くべきことばだろう。
 世の中には、肉体の苦しみと闘い、耐えている人がたくさんいる。私もそうだ。パウロの生涯も、その不自由と苦しみとの連続だっただろう。情け容赦もないと思われるキリストのことばは、今病気で苦しむ人々にどんな力と勇気を与えてくれるのだろう。病を知って神の愛を知る。それは事実だ。『いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。 わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから。』
 「長い入院生活中、生まれてこなければよかった、生きる希望なんてない、死にたいと何度も思いました。眠っている間に心臓が止まってくれないかな、死ねないかな、と。でも無理でした。食事を抜くと腹が減って、次の食事を腹一杯食べてしまう。いくら生きるのをやめようと絶望しても、体の器官は、自分の役割を一生懸命果たしている。自分を生かしてくれる『いのち』の力に気づきました。自分がいのちをコントロールしていると思うのは錯覚で、もっと大きな力が私を生かしてくれる。」(星野富弘)
 「わたしは傷を持っている。でもその傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる。」(同)
 『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(聖書)
 そう心から言える人間になりたい。
 『私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。』(Ⅱコリント4:7)

2016年6月19日(第3主日礼拝)
『 イ エ ス さ ま に 触 れ る 』
マルコによる福音書6章53~56節
 

 人々は自分の家族、友人で病気で苦しむ人を、わざわざ近隣の町や村から連れてきて、イエスに癒されることを願った。しかも、イエスのお着物の端でもさわればいやしてもらえるかも知れないと殺到してくる。イエスはといえば、そうした人々に、ひとり一人向き合って、信仰のあるや無しを確かめて、親しくお声をかけ、癒したのかといえば、そうではなかった。聖書はただ「さわった人々はみな、いやされた。」と書くだけである。そしてこの6章は終わる。
 どうも腑に落ちない、マルコはこんな書き方をして6章を閉じているのはなぜだろうかと不思議に思う。確かに、あの長血で12年間もの長きにわたって苦しんでいた女性が、せめてイエスのみ衣の端にでも触ることができればと、切実な思いでイエスに近づいていき、イエスはこの女性と面と向かって、癒されたという5章の記事とは、大きく異なる。
 すでにイエスと弟子たちは一睡もせずに夜を明かし、食事も満足に摂ることができなかった。そこにきて、この出来事は、イエスからどんなに体力を奪い、疲れさせたかを容易に想像できる。ここに6章に描かれた、あの偉大な奇跡、5000人の給食を描いたマルコの意図があったのである。
 福音書記者ヨハネは、5000人の給食のあと、弟子とイエスさまのやりとりを記している。イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
 イエスは、助けを求めてご自身のもとに来る者を決して拒むことはない。求める者には、パンもそして自らも与え尽くすお方であることを、弟子たちは悟らなければならなかったのだ。
 あの猛り狂う湖の上で、嵐に翻弄される弟子たちの舟をイエスはご覧になった。けれども「彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」とある。なぜだろうか。弟子たちをイエスは見殺しにしようとされたのだろうか。いいやイエスは確かに弟子たちの舟に乗り込まれたのだ。しかし、弟子たちの目には、イエスが舟の傍らを通り過ぎるように見えたのだ。自分たちをイエスはお見捨てになられたと感じたのである。でもそうではなかった。このみことばを通して、前に進んで行こうとされるイエスのお姿を見るのだ。だから、イエス触れればと、人々は群がる人の傍らを通り過ぎようとしておられる。では、イエスはどこに向かって進もうとしておられるのだろうか。そうだ、イエスは自らをいのちのパンとして、十字架の上でご自身を裂くためにだ。ひたすらイエスの目には十字架が見えていたのである。
 「イエスのお洋服にでも触れれば癒されるのではないか。」という、救いを求める人々の思いをイエスは確かに、しっかりとお受け取りになった。そして、癒やされたということなのである。
 ここで私たちがお覚えなければならないこと、それは私たちがイエスに触らなければと言う思い前に、逆にイエスから触れられるということが起きたという事実である。救われるとは、そういうことなのである。イエスを見ようとしたら、イエスに見つめられていたということに気付く。イエスを愛そうとしたら、イエスに愛されていたことを知らされる。イエスを知ろうとしたら、イエスに知られていることが分かる。そのようにして私たちはイエスに出会うのだ。このようにして、イエスは私たちに出会ってくださるのである。なんと感謝、うれしいことよ。
 私たちは今、イエスに直接触れることはできない。しかし、イエスはそんな私たちの思いをくみ取って、ご自身の方から私たちに歩み寄ってくださり、イエス自らが私たちに触れてくださるのだす。ここに神の愛がある。

2016年6月12日(第2主日礼拝)
『 しっかりしなさい。わたしだ 』
マルコによる福音書6章45~52節
 

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸へと送り出し、ご自分は残って群衆を解散させておられる。そして山に退いて、祈られた。主は退いて休むことを何よりも大切にされた。この夜のイエスの祈るお姿を思うときに、私たちの思いはゲッセマネの祈りに、また天上において今なお私たちのために執り成したもう主イエスへとはせていかざるをえない。(ヘブル7:25,ロ-マ8:34)
 イエスは、私たちと遠く離れて天におられ、そこで私たちのために執り成したもうのであるが、この地上において、嵐に悩み窮地に陥っている私たちを助けるために、波を踏んで来ることをいといたまわないのである。
 なぜイエスは弟子たちの舟の「そばを通り過ぎようと」されたのだろう。
弟子たちの舟に乗り込んで彼らを安心させ、慰めることがイエスのつとめではなかった。嵐の中にある私たち、また教会が生ける主イエス・キリストをお迎えすることは、決してくつろぎのためではなく、前進に次ぐ前進がここでうながされているのである。
 イエスは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではない。イエスは、嵐の湖に翻弄される弟子たちを助けるために、湖上を歩いて近づきたもうのである。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方だった。イエスは、いつも私たちの思いを超えたあり方で、そのみ姿を現し、救いのみわざを行われる。私たちが、こうなったら良いのにと思うようには、なかなかならない。しかし、イエスは、私たちが期待している以上の、私たちが考えてもいなかった方法で、私たちを助けてくださるのである。
 イエスが最も厳粛にご自身を現わされる時、「わたしがそれである」と言われる。「しっかりしなさい。わたしだ」。嵐に翻弄され、悩む私たちにイエスは言われる。「しっかりしなさい。わたしだ」
 私たちの思いもかけないところで、「わたしだ」と言ってくださる主イエスを見いだす、見いださなければならない、ということを教えられる。
この「わたしだ」というごく短いことばが、イエスの神たることを宣言する。イエスご自身の口をもって、宣言するのである。「エゴ-・エイミ」、「わたしは」ヤハウエ「である」。モ-セにご自身を現わした神はご自身を「わたしは、有って有る者」と紹介され(出エジプト3:14)。ヤハウエとは「エゴ-・エイミ」「わたしは有る者」という意味であるが、今主イエスは「エゴ-・エイミ」、「わたしはヤハウエ」とご自分の口で断言されたのである。
 私たちは単に美しい信仰的な美辞麗句としてではなく、わたしの生活のありとあらゆる領域で、最も世俗的で、一番教会から遠くて、最もイエスがいらっしゃりそうにないところで、「エゴ-・エイミ」と言ってくださる主イエスを見ることが大切ではないだろうか。
 私たちの生活の中で、イエスにあって解決しない問題はないということ、どういう悩み、どのような問題が起こっても、イエスを持つかぎり、我足れりという告白を持つ者である。まさしく「舟に乗り込まれると、風がやんだ」。
 イエスは嵐を収めるみことばをお語りにはならなかった。ただ私たちの人生という舟に自ら乗り込まれるのである。そのとき、即座に嵐は収まるのである。今も世界は暗く、夜中の3時のようであるかもしれない。最も暗い、嵐が吹きまくっているかもしれない。それでも主イエスは嵐をついて、闇を破って、ここにおいでくださるのである。今日、私たちはそのみこえを聞かなければならない。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

2016年6月5日(第1主日礼拝)
『 5 つ の パ ン と 2 匹 の 魚 』
マルコによる福音書 6章35~44節

              
 5つのパンと2匹の魚をもって、男だけで5000人のお腹を満たしたという奇跡は、4つの福音書に共通して記録されている唯一の奇跡である。それだけ弟子たちには強い印象と教訓が与えられたのである。
 いつの間にか時は過ぎ、夕方になった。弟子たちはこの群衆を解散するよう、提案する。するとなんとイエスは「あなた方で食べる物をあげよ」よ命じた。すると弟子たちは、200デナリものパンを買い求めてくるのか、と。イエスは、「パンはどれくらいあるか」と言われる。イエスはすべてをご存じであられる。弟子たちがパンの数を問題にし、少ないパンでは何もできないと思っていることを。たとえ少ないパンであっても、イエスの手にあるとき、どれだけの大きい働きができるかを、実感することが大切であった。あくまでも「5つのパンと2匹の魚」は「5つのパンと2匹の魚」にすぎない。しかし、それがイエスの手に握られ、祝福の中に包まれ、そしてイエスのみ手から返されるときに、群衆にありあまるほどの糧になるのだということを、忘れてはならなかった。私たちも同じである。イエスのみが私たちのわずかなささげものを祝福して増やす力をお持ちなのだ。私たちは、すべての人のすべての糧が、ただ主イエス・キリストだけから与えられることを信じ、期待して、持てる少ないものを献げよう。
 この5000人の給食は、かつてモーセに率いられて荒野をさまよったイスラエルが、天からのマナを与えられて、飢えることはなかったという旧約聖書の出来事に通じるものがある。確かにイエスはそのことを意志しておられた。群衆はメシヤを切望していた。イエスこそモーセの再来、メシアと期待した。しかしイエスご自身のメシヤ理解とは大幅に違っていた。翌日も、イエスを追いかけて来た人々に向かって、イエスがあなたがたがついて来るのは、単に「パンを食べて満腹したから」にすぎないと叱り、真のマナを与えるメシヤについて教えられたことが記されている。マタイによる福音書は、そのことを記す代わりに、ヘロデ王の宮殿において開かれた宴会と、今荒野でくりひろげられているメシヤの宴会とを対照させることによって、言わず語らずのうちに、同じ真理を教えようとしているのである。イエスは、宮廷で柔らかい着物をまとい、舞踏に興ずる王ではない。かれは、荒野を主の園に変え(イザヤ51:3)、貧しいパンと魚をもってしても、群衆を養うことのできるモ-セに匹敵するお方、いやそれ以上のお方なのである。
 イエスは、「5のパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。」 このことばは、このマルコによる福音書においては14章22節のことば「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。」ということばとほとんど同じである。14章は、イエスが最後の晩餐において、聖餐を制定された時のおことばである。つまり、五千人もの人々が5つのパンと2匹の魚で養われたというこの驚くべき出来事は、私たちの守っている聖餐へとつながっている出来事なのだ。イエスは、飼い主のいない羊のように歩んでいた私たちを見て、はらわたがよじれる痛みを覚えられてご自分の羊としてくださり、養ってくださり、生かしてくださり、まことの平安へと導いてくださる。そのイエスのあわれみの食事が、この5000人の食事であり、最後の晩餐であり、私たちが与る聖餐なのだ。だから私たちは、聖餐に与るたびに、イエスのあわれみの御手の中にあって生かされていることを覚え、主の養いの中に生かされていることを覚えて、日々感謝して歩もうではないか。