2016年05月分(五篇)

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2016年5月29日(第5主日礼拝)
『飼い主のいない羊を憐れむイエスさま』
マルコによる福音書 6章30~34節

              
 マルコによる福音書では、ここで初めて弟子たちは「使徒」と呼ばれる。「使徒」、それはイエスから特別なミッションを委ねられて出て行く者たちである。そういう意味で私たちも「使徒」なのである。そして遣わされて出て行った者は、再び遣わしたもうたお方の元に戻ってくる。弟子たちが口々に、自分たちが目撃した神の力あるわざと恵みを、興奮して報告したことだろう。
 そんな弟子たちにイエスは言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
 イエスご自身がこまめに時間を造っては寂しい所に出て行かれたことを、私たちは見ている。それは、弟子たちには十分理解できないことであり、彼らは自ら進んでそのような所にはおもむきはしなかった。人間というものは、失意の時や不安の時には、割合よく退いて祈るものなのだが、得意の時には退きも祈りもしない。だが、イエスはその逆のことを実行させたもうだ。これはいつくしみあふれた勧めであり、魂の医者の卓越した勧告であある。けれども、それとともに、これは強い命令でもある。主イエスは権威のもとに彼らを服させ、退き、瞑想し、祈ることを命じたもたのである。
 イエスが与えられる休息は肉体のためだけだけではなかった。魂の休息のためにも、私たちもまた退いて祈る必要はないだろうか。
 確かに、表だっては、イエスの活動の中心地はカペナウムであり、シモンの家であったのだが、実質的な活動の中心はこの寂しい地、この祈りの場であったとは言えないだろうか。私たちキリスト者の人生にも、その不動の中心となるべき、隠れたひそかな地が必要であろう。その中心点がないならば、いかに活動的な生活も浅薄そのものである。あなたにとっての、隠れたひそかな祈りの地はどこだろうか。
 さて、イエスの行くところにはすでに先回りした多くの群衆が集まっていた。そんな人々をご覧になられたイエスは、それが「羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれ」まれたのである。
 「羊飼いのいない羊」というのは、群れから迷い出てしまった羊のことである。羊というのは、飼い主のもとで群れを成していなければ生きられない動物だと言われている。目も悪いし、自分で草のある所や水のある所を探すことも出来ない。うろうろしていれば獣に食べられてしまうだけ。それが飼い主のいない羊である。イエスは、自分のもとに救いを求めて来た群衆を見て、そのまま放っておけば獣に食べられてしまうだけの存在と思われた。自分がどうやって、どこに向かって歩めば良いのか分からなくなっている状況、力強く、安心してしっかり生きていくことが出来ない状況を見たのである。そして、イエスは彼らを「深くあわれんだ」のである。この「深くあわれむ」ということばは、「はらわたがよじれて痛む」という意味のことばだ。イエスは、ご自分の所に来た大勢の群衆の、心の荒野を見たのである。イエスの所に来た人々は、一人一人皆違った課題を持っていたことであろう。イエスは、その一人一人の重荷を自らのものとしてお受けになり、はらわたがよじれて痛まれたのである。これが私たちの主イエス・キリストというお方なのだ。イエスは、ご自分のもとに救いを求めてやって来る一人一人の思いを、重荷を、しっかり受け止めてくださるお方である。自分のこととして受け止めてくださるのである。ここに真の愛がある。このイエスのまなざしにとらえられて、私たちも歩んで行こう。イエスのもとには真の安息が約束されているのだから。

2016年5月22日(第4主日礼拝)
『 生 き る と い う こ と 』
(新しい方に、短い聖書からの話し)

              
 現代は目的を失った時代であると言われています。最近の現象には、多くの若者たちが「生きる」ということ、「生きがい」について深く考えさせられているように思えるのです。少し昔のことです。前任のS教会に、M君という青年がおりました。彼は大きな事故に遭遇して、病院のベッドの中で、生きるための戦いを、昏睡状態の中に40日も続けました。名前を呼んでも答えてくれません。手を強く握っても、握り返してくれない戦いでした。そんな彼も奇跡的に回復しました。今は、元気になって再起しておられます。
 そんな彼と事故にあう1週間前の食事の席でのことです。私は「生きがい」について、彼に尋ねました。彼はこう答えました。「先生、ぼくは今でも自分の人生について、生きがいについて考えているのです」
 現代は確かに目的が失われた時代であります。「何のために」という目的意識が薄らいだ時代であり、また目的意識をもつことの困難な時代なのかもしれません。それでも多くの若者たちは懸命に生きようとし、生きる目的を探しているのです。
 今や、科学や医学の発達で人間の寿命を飛躍的に増大させることが可能になりました。しかし、生命の意味や、人は何のために生きるのか、ということについては誰も答えてくれません。
 かつての私もそうでした。親も学校の先生も私の心の空しさを満たしてはくれませんでした。しかし、聖書に出会って、イエスさまの十字架の救いをいただき、私の人生は変りました。
 パウロという伝道者はこう語っています。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める」(ピリピ1章20節)
 このみことばによって、私の人生の、生きる目的がはっきりしました。
 パウロはよく「喜び」について語りました。彼は獄中にあったのですが、彼を支えていたのは喜びでした。彼の望みは「生きるにしても、死ぬにしても自分の身によってキリストが崇められる」ことであるというのです。
 パウロの中に息づき、彼の全存在を支えていた喜びは、イエスさまから与えられたものでした。わたしたちの喜び、生きがい、あるいは生きる確かさもまたイエスさまから与えられるのです。
 人は何のために生きるのか、ひとりひとりそれぞれに違うのですが、結局最後に行き着く所は、何のために自分の生命を投げ出すのか、ということであり、そこにわたしたちの人生のいわば喜びと、力の鍵があるのです。自分の生命の捨て場所はどこかということを考えるとき、生きる意味を見いだすことができるのではないでしょうか。
 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。…ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3章16節)
 イエスさまはわたしたちの罪のために、十字架の上で死んでくださいました。あなたもイエスさまを信じ、受け入れてみませんか。そこからあなたの人生は見事に変えられるのです。実り多き、豊かな人生が約束されているのです。

2016年5月15日(第3主日礼拝)
『権力の座からおりられなかったヘロデ』
マルコによる福音書6章14~29節


 国王ヘロデはイエスの噂を耳にして動揺し、恐れた。それは民衆が「ヨハネの生まれ変わりだ」と言っていたからである。ヘロデはバプテスマのヨハネを捕らえ、首を切って殺した。なぜか? それはヨハネがヘロデの犯した大罪を公然と非難、追求したからである。こともあろうに異母兄弟の妻ヘロデヤを奪ったのだ。しかしヘロデは恐れつつも、ヨハネの語る神のことばに耳を傾けていた。ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたのである。ところが妻ヘロデヤはそうではなかった。彼女はヨハネを恨み、彼を殺したいと思って機会をうかがっていた。そして機会は訪れた。
 ヘロデは誕生日の祝いの席を盛大に設けた。そこには重臣や政財界のおもだった人たちが招かれていた。祝宴の席でヘロデヤの娘(前夫との子)が踊りを舞い、大いに席を盛り上げ、ヘロデをはじめ列席者を楽しませた。愚かな王は上機嫌でとんでもないことを約束する。「何でもほしい物を言いなさい。与えよう」と。その上、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう」と。
 娘はすぐに母ヘロデヤに相談した。母ぬ言われるまま娘は平然とヘロデに言う。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」。少女の心の闇の深さを感じる。こうしてヨハネは死んだ。
 問題は、この時のヘロデの対応である。「何をバカなことを言っているのか。」で済ますことも出来たと思う。しかし、そうはしなかった。「自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって」とある。何と愚かなことだろう。ヘロデは客の手前、この願いを退けなかったというのである。客の手前である。招いた客に何と思われるか。そのことを思うと、この願いを退けたくなかったのだ。彼は「ヘロデの口約束は当てにならない。」と言われることを恐れたのだろうか。そうではないと思う。「ヘロデはヨハネを恐れている。」そう思われたくなかったということなのではないだろうか。自分は領主だ。何も恐れるものはないのだ。自分がこのガリラヤで一番偉いし、力もある。そのことを示したかったということなのであろう。
 まことに愚かなヘロデ、彼はヨハネの語ることばに、心を痛めながらも耳を傾けていた。しかし、悔い改めることはしなかった。悔い改めるためには、一歩を踏み出し、その王座から下りてひざまづかなければならないのである。その一歩を、ヘロデは踏み出せなかったのだ。そうしている内に、へロデヤの策略によって、逆の一歩、神のみこころを退けるという一歩を踏み出してしまった。注目すべきは、「列席の人々の手前」ということば。ヘロデは人の目、人の評価というもので自分の一歩を決めてしまったということである。一方、ヨハネは神のみ前に立ち続けた。人の目を気にして人の前で生きるのか、神の目を考えて神のみ前に生きるのか。悔い改めるとは、この「誰の前に生きるのか」という所において、決定的な転換を求めるものなのである。私たちは誰の前に生きるのか。人の前か、神の前か。それが問われているのである。
 悔い改めるとは反省することではない。向きを変えて神のみ前に生きる者となるということなのである。
 ヘロデに必要なことは、自らの王座にしがみつくことではなかった。その座から下りて、へりくだって神のみ前にひざまづくこと。しかし、ヘロデはそれだけ良心に責められていながら、主イエス・キリストを拒否したのである。権力の座からおりることができずに、罪に罪を上塗りし、恐怖し、破滅する人…。私たちもまた、心の王座にイエスをお迎えするために、私たち自身が我を捨て、その座からおりて、明け渡そうではないか。

2016年5月8日(第2主日礼拝)
『イエスさまに遣わされた者として』
マルコによる福音書6章7~13節


 私たちの教会が属する日本同盟基督教団は今年2016年に日本における宣教125周年を迎える、古い宣教団のひとつでもあるが、その創始者はひとりの信徒であった。フレデリック・フランソンという人物で、彼のことばのひとつはたいへん感銘の深いことばである。それは「すべての信者は献身者である」というものである。そしてそれは「信仰の告白は献身にほかならない」ともいう。私たちの教会はそうした精神によって成り立っているともいうことができる。
 今イエスは弟子たちを遣わそうとしている。二人ひと組にして。一人ではなかったのだ。これは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることが出来るということだろう。一人というのは大変弱い。誘惑にも負けやすい、独りよがりにもなりやすい。一人じゃないということが大切なのだ。私たちもその信仰生活において、互いに祈り合い、励まし合って進む「パートナー」が必要である。
 弟子を遣わすにあたって、イエスは具体的な指示を与えておられる。ここには常識では考えられないことが記されている。パンも袋も金も持っていくなと言うのだ。通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅など出来ないと思うようなものを「持っていくな」と言われたのだ。その理由ははっきりしている。弟子たちは神の国と神の愛を伝えに行くのである。神は今ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのだ。その宣べ伝える事柄を、身をもって証ししなくてどうするかということなのだ。「神を信頼しなさい」と言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違うだろう。神がすべてを守り備えてくださるのだから、そのことを信じ、神にすべてを委ねて行け。「神の国は来ている。神のご支配を信じよ。それを身をもって示せ。」
 この生ける神への信頼、これこそ私たちキリスト者になくてはならないものである。世の人々がキリスト者に、キリストの教会に目を見張るのは、この生ける神への信頼と、その信頼に応えてくださる神のみわざなのである。これが無ければ、キリストの教会は語るべきことばがない。キリストの教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではないのである。ただ神のあわれみ、生ける神のみわざ、神の奇跡を証しする者として立っているのである。
 ここに書かれていることを整理するとこうなる。 第Ⅰ 神への固い信頼 ①福音宣教の緊急性 ②人間的な配慮を超えた神の支え ③モノに縛られない自由な生き方 第Ⅱ 人を信頼する ①人間関係における誠実さと忍耐 ②待つことの大切さ、「目の前」のことから「長い目」を持って見渡す 第Ⅲ 結果は神にまかせよう ①伝道とは終末的な意味をもっている。それは真剣勝負である。 ②主イエスは私たちの失敗を追求しない。
 教会ということばはギリシャ語で「エクレイシア」、それは呼ぶということばと、外にということばからなっている。まさしく、私たちはこの世の外に呼び出され、呼び集められた者たちである。そして呼び出された私たちは同時に、この世の中に向かって遣わされる者たちでもある。
 世には汚れた霊どもが大手を振って歩いている。汚れた霊の囚われ人になっている人が、どんなに多くいることだろうか。この人々を解放し、神のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っている。そして私たちは遣わされて行くのである。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのである。聖霊なる神のみわざの道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせていこうではないか。

2016年5月1日(第1主日礼拝)
『預言者は故郷では受け入れられない』
マルコによる福音書6章1~6節


 イエスは郷里ナザレに行き、安息日に会堂で教えられた。その教えは今まで人々が聞かされていたものとは、全く違っていた。人々は驚いた。そして互いに言う。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」。彼らは「この人は誰か?」と問わなかった。なぜなら、ナザレの人々はイエスの素性を知っていたのだ。こうして彼らはイエスにつまずいた。
 イエスは言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」。そしてそこでは何一つ力あるわざを行うことができなかった。イエスは奇跡をできなかったのか? 否、イエスはご自身の意志でなされなかったのだ。人々は「力あるわざ」を期待した。しかし、信仰のないところではイエスはパフォーマンスとしての奇跡は行うことはしなかったのだ。信仰のあるごく少数の病人を癒されただけだった。
 人々がイエスにつまづいたのは、そばで見てあらゆる欠点を知ったからではなかった。私たちがもし人をつまづかせるとしたら、それは私たち自身の欠点によるが、イエスはそのような欠点をお持ちにならない。にもかかわらず人々はつまづいた。なぜなら、ご自分を低くしたもうたお方において、最も輝かしい救いがあらわにさせられているからである。救いの崇高な真理が身近なところに突きつけられていたばかりに、ナザレの人々はそれだけにいっそうこれを拒んだのである。
 日本の、特に農耕民族的な風土をもった田舎においては、地縁と血縁が大切なものとなる。因習に固められた保守的伝統を生み出す原因のひとつともいわれている。人々が、「こういうことをどこから得たのでしょう」と、教えの内容を問題にするのではなく、教える資格を問うている。地縁・血縁の中で、人の内容よりも資格だけを問題にしている姿は、私たちにも身近な問題ではないだろうか。「大工が」、あの母、あの兄弟姉妹のいるこの男が、何の資格があって、教えているのか。
 そこでは何を教えるかは問題ではなくなり、地縁・血縁が一切の先入観を支配して、何を見るのにもその色眼鏡を通してでなければ受け入れなくしてしまっている。自分の郷里と、その中の家族と、さらに、その中の我が家という、人間にとって最も運命的な結びつきをもったものが、昨日や今日知り合ったというのではなく、親子代々知り合った、親しい中であるゆえに、人間を一番誤解し、曲解するという事実に、私たちはもっと注意しなければならない。プラスであると思っていることが逆に大きなマイナスであることを、私たちもまたその人生において何度も悟らされてきたのではないだろうか。
 イエスは郷里に来ていながら、郷里であることを無視したかのように思える。彼にとっては故郷は、私たちが抱くような郷愁に満ちたものでもなく、安息を得られる場所でもなかったのである。そればかりか、イエスは真の意味で自由人だった。故郷にあった人にまつわりつくあらゆるしがらみや、責任からも全く自由であられたイエスの自由さは、人々をいら立たせ、拒否反応を起こさせたのだ。
 さらに、いつのまにか、説教を聞いているうちに、自分たちが今までに教えられてきた伝統的な教えや、自分たちの先入観と全く違った内容が宣べ伝えられ、そこから故郷の持つ権威などをはるかに越えたような権威ある新しい教えを聞かされるに至っては、人々の心に起きて来た疑問と不安は、イエスがあの家の息子であるという、自分たちの世界を確認することによってしか受け止められなかったにちがいない。「そんなはずはない」という判断が、いかに狭いものであるかを、彼らは知ってはいないのである。
 イエスにはご自分の郷里で拒否されることが、初めからわかっておられたのではないか。そこへあえて乗り込まれたイエスのお心には、もう「郷里」などという意識は乗り越えられていたのである。そうであればあるほど、郷里の人々との間は離れていく。
 福音は私たちを本当の意味で自由にし、今まで私たちを縛り付けていたあらゆる悪しきしがらみから解放してくれるのである。