2016年04月分(四篇)

目次に戻る


2016年4月24日(第4主日礼拝)
『少女よ。あなたに言う。起きなさい』
マルコによる福音書5章35~43節


 会堂管理者ヤイロの娘は死んだ。使いの者は言う。「このうえ先生を煩わせることがありましょう」
 イエスが着くよりもひと足先に、死は少女をとらえてしまった。ここで死の勝利が語られる。イエスが来られても、もうどうしようもないというのである。死ぬか生きるかの瀬戸際であるならば、イエスの力と奇跡的な働きを期待できただろう。しかし、もう遅いのだ。死の勝利が決定してしまった。この既成事実を認めないわけにはいかなくなった。ヤイロは驚き、絶望感の中に突き落とされた。人々は考えた。すでに死が既成事実になっている場所においては、たとえイエスであっても何もできないのではないかと。
 遅かった。手遅れだ。もう死んでしまった。イエスに助けを求めていたのは、病人を癒す方として助けを求めていたのであって、「死んでしまえばお終いだ。どんな力がある人でも、どんな病気をも癒すことが出来るとしても、死んでしまったらどうしようもない。」、そう思ったのだ。
 しかし、イエス・キリストというお方は、この天と地のすべてを造られた方、生きているすべての者にいのちを与えられる方、ただ一人の創造者である神の独り子なのである。永遠から永遠まで生き給うお方なのである。この方の前には、死もまた、絶対ではない。いのちも死も、このお方の御手の中にあるからである。
 イエスは言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』と。イエスは、死も恐れることはないと言われた。そして「ただ信じよ」と。いったい何をどう信じろと言うのだろうか。私たちにとって、死はすべてのものを奪い取っていく苛酷な現実である。しかし、イエスは死をも打ち破ることが出来るお方だから、この「死んだ」という知らせがすべての終わりではないと信じよという。少女が死んだという知らせを受けても、もう来る必要はないと言われても、その歩みを止めまないイエス。「死」もイエスの歩みを止めることは出来ないのである。
 すでに冷たい骸と化した少女の手を取り、「タリタ、クミ」と言われた。
 なんということばだろう。「娘よ。起きなさい」。絶望の中にある人々にイエスは言われる。「起きよ」と。衝撃的なこのことばは、そこに居合わせた弟子たちによって、教会に伝えられ、教会の中で、礼拝の中で用いられたことばであったのではないかと思う。「タリタ、クミ」このことばを聞くたびに、キリスト者たちは、自分の耳元でイエスが自分に告げられたように受け取り、それぞれの課題の中から立ち上がっていったのではないだろうか。
 イエス・キリストというお方は、すべての人々が迎えねばならない死というものを超え、これを打ち破り、永遠のいのちに生き給うお方である。そのお方と一つにされる私たちは、たとえこの肉体は滅びても、やがてイエスのみ声と共に復活するのだ。この希望は、この地上のいかなるものによっても破られることはない。主イエス・キリストと一つにされるということは、この決して破られることのない希望の中に生きる者とされるということなのである。
 このイエスによって、私たちの死というものが、また死を目前に迎えた生そのものが、様相を一変するということを、私たちは教えられる。ここには、死といのちの意味を決定する権をお持ちである神そのお方がおられるのである。このイエスのみ前に立って、私たちは、必ず迎える自分の死と、その死に備えつつある現在の生との意味を、考え、今の自分の生き方を振り返ってみようではないか。

2016年4月17日(第3主日礼拝)
『十二年間長血に苦しむ女性を癒すイエス』
マルコによる福音書5章25~34節


 重篤なヤイロの娘のもとに急ぐイエスとその一行の足を止めさせる出来事が起こった。十二年間もの長きにわたって長血に苦しむ女性が、イエスの後ろからそっと服に触れたのだ。この女性は病のために、社会的にも多くの苦しみにあった。 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」との一心であった。すると瞬時に癒されたことを身体に感じた。そのままそっとその場をあとにしようとしたにちがいない。
 しかしそうはならなかった。イエスは足を止め、振り向いて「だれか?」と問われた。ひしめき合う群衆の中、弟子たちは無理だと言う。しかしイエスは見回しておられる。女は恐れおののき、イエスの前に出てひれ伏し、自分の身の上に起こったことをあまるところなく打ち明けた。
 するとイエスは言われた。「あなたの信仰があなたを直した」と。
 女の一途な思いを信仰と呼べるだろうか。それを迷信とは言わないだろうか。女の思いを信仰と言うのではない。ここでイエスが女を自らの意志でイエスのみ前に進み出させたこと。イエスの前に一対一で向き合い、女の信仰と断定できない思いを、くみ取って「信仰」とさせてくださったのだ。「きっと直る」と、「治る」ではなく、なぜ「直る」なのだろうか。女にとっての救いとは病が治ることではなかった。神との失われた関係、社会にあっては閉ざされていたあらゆる人間関係の修復、それをイエスは「直された」のである。
 イエスはこの女性に名乗り出させようとされたのだろうか。この女はもう癒されたのだし、それだけを求めていたのだから、そのままそっと帰らせてあげれば良かったのではないだろうか。女はそれで良かった。彼女はそうしたかったのだ。しかし、イエスはそれをお許しにならなかった。なぜか?それは、このままではこの女性が本当に癒されたことにはならないからである。本当に救われたことにはならなかったからだ。ここがとても大切な所。イエスが与えようとされる救いとは、身体も心も人との関係も、その人間全体の救いなのである。私たちは目の前の困難が取り除かれることだけを求める。困難さえ取り除かれれば充分。神はそれだけしてくれれば良い。後は自分で何とかする。そう思う。しかし、私たちの人生は、一つの困難を乗り越えてもまた次の困難がやって来る。私たちはその度に、これさえ取り除いてくれればと思う。しかし、イエスは、「そうではないのだ。あなたが新しくならなければダメなのだ。あなたが、神様との関係、わたしとの関係を、健やかなものにしなければ、何度でも同じようなことを繰り返すだけだ。あなたが新しくなれ。そのためにわたしは来た。」。そうイエスはこの女性に迫ったのである。イエスは、まことの神の力と権威とをもって、「ここに出よ」「わたしの前に立て」、そういう思いで見回されたのである。
 彼女の心はこの時、イエスのまなざしに射貫かれた。自分の身に起きたことが何だったのかを知った。病気が治って良かったということ以上のことが起きた。そのことを知ったのだ。それは、聖なる神に触れたということ。いや、聖なる神がわたしに触れてくださった。そのことを知った。聖なる神のご臨在に触れ、人は恐ろしさを覚える。主イエス・キリストによって、聖なる神と出会う、恐れをもって出会う。このことこそ、私たちが新しくされるただ一つの道なのである。聖なる神の御手に触れられ、清められ、新しくされ、神と共に生きる。それが、イエスが私たちに与えてくださる救いなのである。

2016年4月10日(第2主日礼拝)
『 イエスの足もとにひれ伏す 』
マルコによる福音書5章21~24節


 イエスの足もとにひれ伏すヤイロ、彼はカペナウムの「会堂管理者」、会堂と、そこで行なわれている集会の管理責任者。権勢を誇るような身分ではないが多くの尊敬を得ていた人物。この会堂で、ヤイロはイエスの説教を聞いていた。この会堂はもう、イエスを亡きものとする陰謀の中心になりはじめていたが、ヤイロはその策略にくみすることをしなかった。しかしイエスを「わが主」としてあがめてひれ伏すこともなかった。なぜなら、ヤイロは人の前にひれ伏す必要が考えられないような幸福の中に、生きていたのだ。社会では尊敬を得、家には子どもたちが健やかに育って、家庭は平和である。ところが、そのような幸福に突然破綻が訪れた。元気だった愛する娘が、たった12才になったばかりの娘が、まさに死のうとしている。宝物のように大事に育ててきた娘が、やっと一人前になった途端に、その宝を失おうとしているのだ。娘の死という、痛ましい出来事のところから、キリストのみわざが始まった。
 目に見える幸福が、どんなにはかないものであるかが、ここで露呈された。この危機を防ぎ止めるものはもはやなく、父親の愛情をもってしても、死に対しては何の抵抗にもならないことが明白になった。彼は、深き淵に立ったのである。そして、深き淵に立ったがゆえに、イエスに呼ばわり、イエスにひれ伏さざるを得なくされたのである。
 ヤイロをして、深き淵に立たしめたのは、「死」という問題であった。人をして、キリストの前にひれ伏すように立ち帰らせるのも、死である。死は万人に共通した問題。死は根本的な問題をいつも私たちに突きつけてくる。人が目をつぶって、この問題を見ないようにしても、目をひらかざるを得ない現実が襲いかかり、私たちの目の前に立ちふさがって、私たちを苦しめ、絶望に追いやるのである。
 ヤイロは会堂管理者として、宗教的には指導者側に属する人として、死の提供する問題に対する解答は、一応わかっていたつもりだった。死が最後的なものでなく、終末の日の復活がある、というくらいのことは十分知っていたのだ。しかし、そのような教理を知っていたとしても、娘が死に直面したとき、なんの役にも立たなかった。
 死とは、一切の望みが消えはてた限界状況にほかならない。しかし、この限界に立って、初めて見えてくるものがある。愛とか、永遠とか、死を越える現実である。しかし、人間の愛にも限界がある。ヤイロはどうにもならない死の現実に立って、主イエス・キリスト、真の生の源であるお方の前に、身を投げ出したのである。
 会堂管理者という立場にあるヤイロが、自分の体面も立場もかなぐり捨てて、イエスのもとに助けを求めにやって来た。そして、イエスのみ前にひれ伏したのだ。イエスは、ヤイロの思いを受け止めてくださった。そして、彼と一緒に、死にそうな病気にかかってる娘のいる彼の家へと向かったのである。ヤイロの、娘を思う「ひたむきさ」に心を打たれる。イエスさまの救いに与るためには、何よりもイエスに救いを求める「ひたむきさ」が必要なのではないか。その思いをもってイエスに救いを求めるなら、イエスは決してその人を退けたりなさらないことを覚えたい。そして、私たち自身もイエスとの個人的な関係をなによりも大切にして、心からイエスのみ前にひれ伏し、私たちのあらゆる必要のために、恥も外聞も、見栄も、自分が持っているあらゆるしがらもも捨てて、心から祈り求めるものとなろう。そんな私たちをイエスはご覧になられ、その祈りに必ず答えてくださるのである。

2016年4月3日(第1主日礼拝)
『主が自分にどんなに大きなことを・・』
マルコによる福音書5章18~20節
              
 イエスはゲラサの地に何をしに行かれたのだろうか。そこではたった一人の、しかも汚れた霊に取り憑かれていた人に出会い、彼を救うことだけだった。この町の人々から退去を求められこの地をあとにしたのではなかった。そもそもイエスはこの一人の人を救い解放するために、わざわざ湖を嵐の中渡って行かれたのである。99匹の羊を後に残して、たった一匹の羊を追い求める羊飼いの姿をここに見るのである。
 汚れた霊を追い出されて、正気に戻った人は、イエスと一緒に行きたいと願いでた。けれども、イエスはそれをお許しにならなかった。そして、言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
 ペテロやヨハネたちには「わたしに従いなさい。」と言われたイエスであったが、いつも誰にも「わたしに従いなさい。」と言われたわけではなかった。イエスは、この人にはこの人にしか出来ないことをするように命じられた。それが、「自分の家に帰れ」であった。人にはそれぞれの召命が与えられている。その召しに従うことが大切なのだ。そして、彼はイエスのことばに従った。長く関係を失っていたであろう家族の元に帰り、イエスが自分に何をしてくださったかを語ったのあろう。家族も、この人がどんな状態であったのか一番良く知っていたわけだから、その変化に驚き、そして、心から喜んだに違いない。汚れた霊によって破られた、愛の交わりが回復されたのである。
 私たちも、このイエスのことばをしっかり受け止めようではないか。私たちは、イエスの恵みのみわざ、自分にしてくださったことを伝えるのである。伝道とかあかしというと、なにか大きなことのように思う。しかし伝道とは、リスト教の教理を伝えることでもなく説教することでもない。自分に起きたことを喜びと感謝と感動をもって伝えること。そうでなければ、福音は、神の愛は伝わらない。
 この男は、家から捨てられて天涯孤独の身となっていた。しかし、今は違う。帰るべき家、帰るべき家族があるのだ。なぜなら、イエスは彼を回復したもうたからである。すなわち、イエスによる回復は、たましいの救いと永遠のいのちへの約束であるとともに、私たちの社会とそこにおけるさまざまな人間関係の回復という意味をも含むのである。悪霊につかれた狂人は、孤独にされ、孤独にされたがゆえに、キリストと出会えたのだが、キリストと真に出会ったときには、彼の孤独はすでに解決され、孤独に固執することもなくなったのである。真に解き放たれたのである。
 イエスと私たちの出会いは、イエスとの新しい出会いであり、その人を変えるものである。そしてかつてはさまざまな人間関係から疎外され、はじき出されていた私たちが古い人間関係を断ち切られ、新しい人間関係が生まれるだけでなく、かつての私たちの古い人間関係に対しても、責任を負わなければならない、ということを、ここで重ねて学びとりたいと思う。イエスと出会うということは、一面においては、家を捨てることであることを、弟子たちの召しの場合について学んできたが、もう一面、家や親しい者や、さらに社会全体に対する新しい責任が生じていることが、かつてレギオンと名乗ったこの人の場合から学びとろうではないか。彼は実に家に帰ることを指定され、帰ってからの使命を与えられたのである。
 それはささやかなつとめであったとも言えるだろう。地の果てまでも福音を叫んで回る壮大な任務ではない。けれども、異邦人の中から召され、異邦人の中に遣わされた最初の「あかし人」がこの人だったのではないだろうか。このデカポリス地方には、主な町々にユダヤ人の会堂があったが、イエスはそれらをさしおいて、この地方の最初のあかし人、伝道者とされたのである。
 イエスによって救われたものが、世界に出て行って福音を宣べ伝える、伝道者になれというのではない。私たちのごく身近な家族や親類縁者に今の救われた自分を見せることをしなければならない。私たちは遣わされて行くのである。