2016年03月分(四篇)

目次に戻る


2016年3月27日(復活祭記念礼拝)
『 イエスの復活 』(ミニ知識)

              
 イエスは金曜日午後3時前後に息を引き取られ死んだ。そしてユダヤ最高議会サンヒドリンの議員であったアリマタヤのヨセフに引き取られ、彼が自分と家族のために用意していた墓に葬られた。その三日目の早朝、イエスを慕ってガリラヤからついてきていた女の弟子たちが墓に出かけてみるとイエスはすでにそこにいなかった。イエスは復活されたのである。
 1881年、イギリスの考古学者でもあったゴルドン将軍がエルサレムの北城壁の外側に、イエスが葬られた墓を発見した。聖書に「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」(マタイ27:60)とあるとおり、この墓穴は岩壁に人の手で掘られた横穴であり、その墓の入り口の前にはこの封印石が転がせるために、石で幅60センチの溝が造られている。その幅から、封印の石の厚みは60センチ弱たったことがわかる。
 そして、墓の入りロの両側には赤くさびた太い鉄の楔(くさび)が先っぽが折り取られて残っている。その赤さびた樹の太さはなんと3.8センチもある。その二つの鉄の挨の距離が4メートル1センチあるから、封印の岩は直径4メートル弱で、厚さは60センチ弱だったという巨大な円盤状の石であった。重量は推計13.8トンにもなるとのこと。この封印石は当時の墓としては異常な人きさ。ここからもアリマタヤのヨセフという人が、聖書に記録されているように相当の資産家だったことがわかる。
 アリマタヤのヨセフがイエスのからだを墓に収めたあと、この封印の円盤状の重い岩がをから右へとコロリと転がされて、墓の入り口にふたをした。あの巨大な石を動かしたのだから、もちろん手伝いのしもべたちも多数いたはずである。
 ユダヤ当局は総督ピラトの許可を得て、この岩が決して動かされないために、太さ3.8センチもある鉄の襖を岩の両側に打ち込み、封印をし、番兵をつけた。「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」(マタイ27:66)
 ところが、今日その墓をみると、イエスの墓の穴の左の襖は左に曲がってボキリと折り収られている。つまり、石が何者かによって左わきに転がされて、鉄の襖が折られたのである。ちなみに3.8センチもある鉄の喫というのは、もし折り取ろうとすれば60トンから80トンの力が必要なので、とても人間の力では不可能である。聖書は、それは人間の力によるのではなく、御使いの力によると記している。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。」(マタイ28:2)
 これらのことから、イエス・キリストの復活は主観的な絵空事や神話ではなく、客観的な歴史的事実であるからである。神が人となって来られた二とも奇跡による事実だが、イエス・キリストの復活もまたこの私たちが住んでいるこの時間と空間の中に起こされた神の奇跡による事実なのである。私たちの救いはイエス・キリストの十字架の死と復活という歴史上の事実に基づいているのである。
 イエスの復活、それは死と滅びの中にいる私たちへの希望である。キリスト教会は2000年にわたって、幾多の迫害をくぐり抜けてきた。信仰ゆえの殉教者も多くいた。キリスト教を滅ぼそうとするあらゆる力が起こった。神はいないとする世界と国がある。21世紀の今日でも、教会は迫害され、脅かされている。しかし、そのような閉ざされた国でも、「復活」を信じるクリスチャンが次から次へと起こされている。イエスは確かに復活された。これは歴史の事実であり、信じる者の希望、力である。

2016年3月20日(第3主日礼拝)
『 汚れた霊を追い出すイエスさま 』
マルコによる福音書5章1~8節


 汚れた霊、悪しき霊の支配と言うと、何ともおどろおどろしいイメージを抱き、私たちの日常とは全く関係ないように思うかもしれない。しかし、そうではない。天地を造られたただお独りの神の霊である聖霊を信じるなら、汚れた霊、悪しき霊の働きもまた、リアルなものなのである。私たちが悪しき霊の働きに鈍感であるとするならば、その理由は、あまりに多くその働きに囲まれていて気が付かないということではないだろうか。汚れた霊、悪しき霊は、個人にだけ働くのではない。社会全体に働いたり、その文化、考え方、価値観といった所にも働くのである。私たちは実におびただしい悪霊がいつも働いている世界の中に生きているのである。
 イエスが会った汚れた霊に取りつかれた人は墓場を住処としていた。まことの神は私たちに命を与え、生かそうとする。しかし、悪しき霊は、私たちが生きようとすることを邪魔するのである。また、他の人が生きようとすることを妬み、邪魔するのである。
 世界のどこにでも悪霊の働きと影響というものを見ることだろう。毎日のようにテロが起きて、多くの罪のない人々の命が奪われている。こうした悲しい出来事の中に、汚れた霊の働きを見ないわけにはいかないと思っている。東西冷戦が終わったとはいえ、世界は再び国と国との対立や争いというものが、何か地球全体を死の淵に追いやっているかのように思えてならないのである。
 悪霊は、私たちの内にある罪に働きかけ、自分の思い、欲、価値観を絶対化させ、それに反する者を許さず、命を奪うことさえ正義であると言わせる。それはまさに狂気。しかし有史上、この狂気と無縁であった国もなく、時代もない。
 この汚れた霊に取りつかれた人は、すべての人間関係を絶ち、ひとり墓場に住むようになった。人との関係が持てなくなったのである。これは悪霊の働きの特徴である。神の働き、聖霊の働きの実は愛。人と人との愛の交わりを形作ること。一方、悪霊は、それを破壊するのだ。学校や職場でのいじめの問題。ここに汚れた霊が働いていないと言えるだろうか。
 人々は彼を鎖で縛っておとなしくさせようとしても、それは出来なかった。いろいろな問題を法律で縛ろうとしても、様々な知恵を出して押さえつけようとしても、それは引きちぎられ、破られ、誰も止めることが出来ない。問題が次々に起こって、誰も止められず、いたちごっこ。これが私たちが生きている現実なのだ。ここにも悪霊が働いているのを知る。
 この世界も、この世界に住む人も、悪しき霊と無縁ではない。悪しき霊とは無縁である、そう言える人も社会もない。しかし、いたずらに悪霊を恐れる必要はないのである。何故なら、その世界にイエスは来られたからだ。悪霊の支配から、私たちを、私たちの家族を、家庭を、私たちの社会を救うためにイエスは来られ、私たちは救われたのである。
 私たちが、悪しき霊の力から身を守るただ一つの道は、正気に返った男がイエスの足もとに座っていたように、イエスのもとに居続ること、みことばを聞き続けること。それしかない。私たちの中にある罪は、悪しき霊の誘惑にまことに弱いのである。「ダメだ」「嫌だ」と思っていても、イエスの足もとから離れて行くと、私たちはすぐに悪しき霊の誘惑に陥りかねないのである。何が大切で、何を愛し、何を求め、何に従うべきかが分からなくなってしまうのでる。イエスの足もとでみことばを聞き続ける。それが、正気になった者の姿なのであり、私たちの姿なのである。

2016年3月13日(第2主日礼拝)
『 嵐 を 静 め る イ エ ス さ ま 』
マルコによる福音書4章35~41節


 何という弟子たちの狼狽、醜態。彼らはこのガリラヤの漁師、この湖の恐ろしさをよく知っている。だからこそ、彼らはいのちの危険を強く感じ取ったのだろう。イエスに「向こう岸へ渡ろう」と促されなかったら、こんな目には遭わなかっただろう。しかも自分たちが必死に水をかき出しているというのに、イエスは眠っている。
 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
 弟子たちはイエスにすがる。しかしイエスは言われる。「信仰がないのは、どうしたことです」。弟子たちは信頼でなく、哀願と非難を交えてわめきちらす。つい先程まで、神の国の説教を聞き、奥義までも解き明かされた者が、嵐の海ではこのていたらく。神の国の喜ばしい使信などは、彼らの頭からすっかり消え失せ、不安におののく生まれながらの罪ある人間の姿に帰っている。突然の危機に直面したときに、人は自分の本性をさらけだす。弟子たちは動揺して悲鳴をあげ、非難さえしている。つまり、彼らは自分のことしか考えられなくなって、うまくいかないのはすべて他人のせいにするのである。
 この時、イエスは眠っておられた。疲れていたのではない。イエスは天地を造られたただ一人の神の御子であり、この嵐が自分に何もすることは出来ないし、父なる神がそのことをお許しにならないことをご存知だった。イエスはこの嵐の中でも大安心の中にあった。だから眠っておられたのだ。この舟が沈むことはないということを知っておられたからである。
 しかし、弟子たちはそれが分からない。だから恐れた。この時、弟子たちは命の危険を覚え、恐れに支配されてしまっていたのである。イエスは確かに一緒に舟に乗ってはいるけれど、何もせずに眠っているだけ。ちっとも頼りにならない。これが、この時の弟子たちの思いだったであろう。彼らはすでに、イエスの癒やしの奇跡を何度も見ていたのにもかかわらずだ。イエスは眠っていらっしゃる。何もしてくれない。ただそこにいるだけ。そう弟子たちには思えた。しかし、果たしてそうなのだろうか。イエスが共におられるということは、一見、イエスは何もしておられないように見えても、決定的に守られている。そういうことなのではないだろうか。
 「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
 弟子たちは怖がった。もうダメだと思った。それは信じていないからだ、とイエスは言われる。イエスが共におられるなら大丈夫。そのことを信じることが出来ないから怖がるのだ。
 39節「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」
 これは、イエスが天地を造られた神の子であることを示している。これを見た弟子たちは、41節「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」。嵐を静める奇跡を見ても、まだ良く分かっていないのだ。
 イエスは、私たちが滅んでも構わない、そのように思っておられるお方ではない。そのことは十字架において明らかにされた。私のために、私に代わって十字架にお架かりになった。ご自分の命と引き替えに、私を救ってくださったお方である。そのお方が、私が滅んでも良いなどと思われるはずがないのだ。
 イエスは三日目に復活された。死さえもイエスを滅ぼすことが出来なかった。天地を造られたただ一人の神の独り子だからである。この全能の力を持ち、私を愛しておられるイエス・キリストが、共にいてくださる。だったら、一体何が私を滅ぼすことが出来るというのだろう。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ人への手紙8章31節)と言っているとおりである。
 私たちは、イエスが私と共にいてくださるという恵みの事実を新しく心に刻もうではないか。天地の造り主の独り子、十字架に架かり三日目に復活されたイエスが、あなたと共におられる。だから大丈夫。安心して行きなさい。

2016年3月6日(第1主日礼拝)
『 神の国の成長:一粒のからし種 』
マルコによる福音書4章30~34節

「神の国は…からし種のようなものです」
 からし種は、多くの種の中でも、一番小さいものである。からし種は、2本の指でつまむことができないほど小さいのだが、パレスチナ地方では、3,4メ-トルほどの大きさに成長する。ここで述べられている「大きくなる(メイゾン)」は、旧約聖書のダニエル書やエゼキエル書の預言によれば、大木は万国民を含む大帝国を意味している(ダニエル4章12節、エゼキエル17章21節、31章6節)。またこれらの預言によって、「空の鳥」とは、異邦人を含む万国民を表わしていることがわかる。従って、このたとえによれば、神の国の始まりは小さくとも、やがて全世界をおおうようになってくる。
 からし種のような小さいものによって始められた神の国のわざ、伝道の働き、教会の創立も、それはやがて大きくなり、それを求めて宿るものに平安を与えることができるようになるというのである。このことは私たちいのちの泉聖書教会にも大きな希望を与えてくれるものである。
 どんな大きな釣り鐘でも、紙つぶてを何回も何回も投げつけていると、やがて動き出し、大きく揺れ動いてくる。どんなに小さくとも、その小さい始まりがとても大切なのである。
 個人の信仰生活も、教会の歩みも、最初はからし種のように、どんなに小さくてもよいのだ。生きた信仰であればよいのだ。もし、それが神の支配の中にあって始められたものであるならば、必ず成長して、多くの人々を宿すようになりる。始め、その人は何の力も持ち物もない人かもしれない。また聖書のただ一句に励まされ、またその一言の聖書のことばを信じて動き出した小さな歩みかもしれない。その小さいことのゆえに、また力もないゆえに、人々は見向きもしなければ、頼りもしないであろう。しかし、その人への神のご支配は大きく働き、「成長し」、人々が「宿るほど(巣を作る)」になるのだという。何という大きな励ましだろうか。
 イエスが意図しておられる「からし種」は、明らかにもう一つの意味があることに気づかされる。それは世界歴史の中でただ一回なされた、からし種の種蒔きである。すでに蒔かれた一粒がある。
 イエスがキリストとして、世に来たりたもうたことにおいて、神の国はもう来たのである。目の開いた人が見さえすれば、どんな野菜よりも大きい木が見えるのだ。しかし、ナザレのイエスはいと小さきものとしての歩みをなしたもうがゆえに、かれが世に来ておられることは、地上の最も小さいできごととしか人々からは見られていなかった。しかし、信仰の目は、小さい一粒を、ただ小さいからし種として見るのでなく、大いなる木を、すなわちキリストの主権の確立を見させてくれるのである。
 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます』(ヨハネ12章24節)
 今でも、人々の目の前で、神の国は小さい一粒でしかない。だから、人々はこれを黙殺するだろう。神の国のいっさいのあかしも、最も小さい形において、すなわち、あかし人である私たちひとりびとりが最も小さいものになることによって、行なわれる。それでよいのである。
 神の国を、すなわちキリストの主権を、最も大いなるものとして、信仰において固く把握し、この主権を、私たちの全存在を賭けてあかししていこうではないか。そのようなあかしの生活の中で、からし種の成長ような成長が、私たちの内に起こるのは当然のことなのである。