2016年02月分(四篇)

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2016年2月28日(第4主日礼拝)
『神の国は、人が地に種を蒔くようなもの』
マルコによる福音書4章26~29節


 「神の国は、人が地に種を蒔くようなもの」。種蒔く人とは誰のことだろう。「人は知りません」(27)と。蒔く人は、種がどのように成長し、実を結ぶかを知らない。あずかり知らないのである。育てたもうのは神だというのである。
 ここでは、種を蒔くことよりも、その後のことに重点が置かれている。イエスはこのたとえの中で、すでに種が蒔かれていたこと、人は知らないが、その種は芽生え、成長し、穂をつけ、実を結んだこと、今、刈り入れの季節になったこと、刈り入れの主がここにもう来ておられることを暗示しておられる。
 神はすでに、種蒔く人を送り出して、種蒔きをさせておられた。すなわち、旧約の多くの預言者たちとバプテスマのヨハネがそれである。彼らは神の審判と救いのみことばを託されて語り続けたのだが、それは確かに神の国の種を蒔きつけることであった。蒔かれた種は種のままではとどまらなかった。多くの人々の目には隠されていたが、成長が、神だけが知りたもう方法によって進んでいた。人々の気づいたとき、刈り入れの季節は来て、刈り入れの主は鎌を手にして立っておられたのである。
 この種蒔きがキリストの来臨とともに始まり、刈り入れが今始まったと聖書から読み解こう。
 農夫たちが種が地に蒔かれ、その後の成長が知り得ないのは、知識の乏しさによるものではない。人間の知識でとらえる法則以外の、全く新しい法則がそこはあるのだ。人はさまざまな努力を傾ける。しかし神の国の発展は、私たちのいかなる人間的なわざをも必要としてはいない。ただ神のわざとしてのみ、み国は発展していくのである。
 私たちは知ろう。確かに蒔かれた種は発芽し、花を咲かせ、実を結ぶのだ、それがこの私のうちに今も起こっていることに、新鮮な感動を持とうではないか。生身の自分を見るならば、その兆候も気配も見えないだろう。けれども、私たちの内に蒔かれた神の種は、確実に成長し続けているのだと信じることはできる。いや、信じなければならない。なぜなら、育てたもうのは私たち自身ではなく、神なのだから。
 すでに私たちの中に種が蒔かれ、私たちに説明のつかない、この世の因果法則と無関係な現実が、私たちの中に始まっている。その現実のたくましさに目を留めるように、今、私たちに呼びかけがなされているのである。
 「地は人手によらず実をならせるものです」(28)。神の国は人間のいかなる介入を排除して、神のみ手によってのみ到来するのである。
 神のみわざにはすべて順序がある。だからといって私たちは「刈り入れまではまだ四ヶ月ある」と悠長に構えていてはいけない。刻々に終わりの時が近づくことをも思わなければならない。
 バプテスマのヨハネも、預言者ヨエルのことばも、刈り入れを恐るべきものとして印象づけた。確かに、刈り入れを恐れる必要があろう。しかし種蒔く人は、もみがらを焼くために種を蒔くのだろうか。否、良き実を収穫しようとして種を蒔くのである。「蒔く者と刈る者が共に喜ぶために」とイエスは言われた。収穫はある人々にとっては恐れであるが、信じる私たちには喜びなのである。
 私たちが蒔いた神の国の種は、神の導きの中で成長していく、だからそれを信じ、安心して待てば良いのだと考えよう。だから私たちはこれからも、勇気を持ってみことばの種を蒔き続けよう。そして育てたもう神の恵みあるお働きに期待しよう。確かな成長を与えてくださる神を信じ、待ち続け、この日も信仰の小さな歩みを進めていこうではないか。

2016年2月21日(第3主日礼拝)
『聞く耳のある者は聞きなさい』
マルコによる福音書4章21~25節


 イエスが語られた「あかり」と「量り」のたとえだ。この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話で、話そのものは単純なもので、良く分かる。しかし、それが何を意味しているのかということになると、話は別である。イエスのたとえの、一つの大きな特徴である。
 イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われた。聞くには聞くが理解出来ない。それは聞く耳がないからなのだ。
 イエスのたとえも、聖書がのことばも、牧師の説教も、いつもただ一つのことを語っている。それはイエスの福音である。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げている。それは、信仰を与えられなければ分かることはない。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのである。語る者が伝えようとしていることと、聞く側が聞こうとしていることがズレているなら、決して話は通じない。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言っても良いだろう。
 聖書も説教も本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からない。自分の耳が変わらなければ、分からないのだ。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることが出来ない。それが、主イエスの福音というものなのである。
 「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならない。私たちはそれぞれ自分の量りを持っている。自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものだろう。この自分の量りが変わらなければ、イエスが語っていることは分からないということなのである。しかし、この量りがイエスの求めているものに変わると、どんどん分かってくる、与えられてくるのである。
 自分の量りが変わる時の重要点は何か。それは「私は罪人である」ということを知ることだと思う。神に背を向けて歩んでいる自分を認めることだ。このことが分かった時、イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのである。大切なのは「私のために」。聖書のみことばが、牧師が語る説教が、私のことを言っているということが分かるようになる。この時、自分の量りが変わるのある。
 もう一つのたとえ、「あかり」。それはキリストご自身を指している。イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えている。どのように生きれば良いのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのだ。
 次に思わされることは、この光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰、愛というものである。キリスト教会は、社会における少数者であった。自分はクリスチャンと公に言うことが出来ないような雰囲気がある。しかし「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないという。イエスここで「わたしが与えたあかりは、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないだろうか。
 私たちに与えられている信仰は、天と地を造られたただおひとりの神が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのである。到底私たちの心の中に収まりきることが出来るような小さなものではないのである。私たちに注がれたイエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、隣り人に向かってあふれ出していく。私たちの教会は「いのちの泉聖書教会」。永遠のいのちに至る水が、このところからあふれ出る教会なのである。

2016年2月14日(第2主日礼拝)
『 良 い 地 に 落 ち た 種 』
マルコによる福音書4章10~20節


 「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(14節) これがたとえを解く鍵であるとイエスは言われた。この比喩にはふたつのことが含まれている。すなわち、無力と力、弱さと強さである。麦の種はいともたやすく、風に吹き飛ばされ、わきに掃きよせられ、踏みにじられ、なくなってしまう。人はこれに何の注意も払うことなく、無関心でいられるのだ。
 しかしそれでいて、種は、内に新しい生命にいたる芽をもっており、そこから豊かな実が育つのである。種蒔きが蒔く「みことば」もそのとおり。人はこれを無視し、抹殺し、踏みにじることもできる。抵抗することも、全く無視して平気でいることもできるだろう。
 しかし、一方においては、この全く同じ種が、思いもよらぬ力を発揮することができるのである。私たち人間を解放し、自由にすることができ、私たちに赦しのことばを与え、こうして、この力が生きて働き、人生を革新し、この世界に新しい希望と新しい未来を開くことができるのだ。
 聖書のことばには力がある。この種が豊かな実を結ぶには、種を迎える土地が必要である。四つの土地についてイエスは説明する。
 畑に落ちるはずの種が、はずみで道ばたにこぼれ、鳥についばまれることを農民はつねづね経験していた。それはサタンが来てすぐにみことばを奪っていくことをたとえたものである。では、道ばたに落ちなかった種はもうサタンに奪われる恐れはないのかということも考えなければならないだろうか。みことばを失わせるのが、本人自身の不信仰でなく、みことば自体の弱さのためでもなく、サタンであるという認識は、私たちにとって非常に大切だと思う。伝道の戦いは地上的な諸条件との戦いではない。地上的なものの背後に隠れた、超越的なサタンの権力との格闘が意識されなければならないのである。
 岩地というのは、岩石層の上に薄い土が2,3センチあるだけの土地。ここには、みことばがすぐに芽を出し、はえるけれども、根がないので、しばらく続いただけで枯れてしまう。早く感激し、感動もするのだが、迫害や困難が起こると、すぐつまづいてしまう。根というのは、私たちに見えない部分。隠れた部分を持たないときに、信仰はただの空騒ぎにならないだろうか。人はその隠れた部分がどれほどあるかによって決まるのだ。祈りの隠れた深みなしに、真の信仰は育たない。
 茨の中に蒔かれた種、この世に出て行くならば、信仰の成長をふさいでしまう材料は、いくらでもある。富、仕事、趣味、家庭、人間関係、どんなものでも思い煩いの種にならないものはない。茨は有害無益で、しかも枝を広げて他の小植物を庇護するようなポ-ズを作る。それにあざむかれて、この木の陰に頼ろうとするものが出てくる。信仰は止めない。けれども、この世的な庇護に身を委ねることを止めない。そのような二股かけた生き方がここにある。そういう態度でいる限り、実は結ぶことはない。
 では良い地とは何か。不思議なことに、良い地とは、何も余計なものを持たない、ただふつうの土ばかりの土地なのだ。石もない、固められてもいない、茨もない、何もない姿、それがみことばの種を成長させる良い土地なのだ。信仰とは、何かある特殊能力を持つことではなく、神の前に無地になることなのである。そのとき何もないように見えるところから、100倍の実を結ぶのであある。
 私たちという土地はすでに耕されている。ひとりのお方が、私たちのために労苦し、今なお、そうしておられるのである。種蒔きは、ただ種を蒔くだけではない。彼の土地を耕すこともするのだ。石の塊を掘り出し、茨を取り除く。もっと固い土地でさえ、すきをいれて、その固いかさぶたのような表土をすき起こし、良い土地にしようとするのだ。それほど役に立つ「鋤(すき)」が存在するのである。それは神の愛、私たちのために十字架に架かったあの愛が、その「鋤(すき)」なのである。この愛はどんなに固くなったかさぶたにも打ち勝つことができるのである。

2016年2月7日(第1主日礼拝)
『 種まく人が、来ています 』
マルコによる福音書4章1~9節

 イエスはいろいろなたとえを引用し、神の国の教えを説かれた。なぜ、そのようにしばしばたとえを用い、34節によれば、「たとえによらないで話されることはなかった」のだろうか。
 たとえというものは、ことがらをわかりやすくするものである。しかしイエスのたとえの多くは、一見して簡素で実際的であるが、その内容においては必ずしもそうではなかった。この後群衆はイエスのもとから離れていったし、弟子たちでさえもその意味するところを悟り得ていない。「耳のあるものは聞きなさい」とは、聞く者の心の有り様次第で決まることがわかる。
 イエスはまず、「聞け」と言われる。この一語が、すでにたとえの性格を言い尽くしている。「聞け」という呼びかけにはじまり、「聞く耳のある者は聞きなさい」で結ばれるこの教えは、メッセ-ジの説明ではなくして、メッセ-ジそのものと言えるのである。「聞け」といううながしの前で、私たちは語られる教えの厳粛さとともに、ただちに襟を正し、姿勢を正さなければならない。
 「種まき」、すなわち種まく人が主人公として登場している。まかれる地が主人公なのではない。たしかにこのたとえにはさまざまな要素が込められている。「まかれた土地」について、まかれた「種」についても教えられるだろう。「まく人」こそがこのたとえの中心である。それは誰のことか。そう、イエスご自身である。そして、そこからただちに、イエスがご自身を「収穫の主」であることも明らかにされる。
 イエスはあえて「まく人」が誰であるかを説明せずにおかれた。「聞く耳のあるものは聞け」である。30倍,60倍,100倍の実を結ぶ種をまく、種まき人が来ているぞ、とイエスは呼ばわっておられる。まいたあと、まもなく刈り入れがあると29節で実にはっきりと説かれる。このたとえは実に終末的な宣言なのである。
 私たちが種にとっての「良い地」であるかないか、よりも大切な真理は、今、種はまかれたということである。その種は30倍、60倍、100倍の実を結ぶべき種なのである。私たちは、何倍の実を結んだかを自己検討すべきだろうか。ここで教えられるのは、成果をあげねばならぬというような教えではなくて、「神の国の奥義」である。キリストのみことばが私たちの心にまかれたとき、神の国は私たちのうちで決定的にはじまったのである。
 まく人はまた刈り取る人でもある。刈り取りに先んじて種はまかれるのだ。ここに終末的なメッセージ、宣言ともいうべきものがある。イエスこそ神の国の訪れを告げるとともに、裁きの主であられる。このお方が、今ここにおられるとの宣言が、このたとえ話に込められているのである。
 このたとえを読んで、自分は石ころだらけの所だ、あの人は茨の地だ、そんな風に思うだけでは、このたとえ話を話されたイエスの意図を充分に受け止めているとは言えない。この道端、石地、茨の地、良い地というのは、自分はこれだ、あの人はそれだという風に決まっているものではない。大切なことは、私たちではなく、みことばの種をまかれるイエスである。イエスはどうせこの地は道端だから、鳥が来て食べてしまうからまくのはやめよう、そうはなさらない。種まくお方は、種だけをまくのではない。土を耕し、水をやり、肥料をやり、手を加え、まいた種が芽を出し、成長し、実を付けるようになるまで育ててくださるお方なのだ。
 道端のような私たちの心にみことばを与え、神の国が来ていることを、神のご支配の中に私たちがすでに生かされていることを知らせようとしてくださった。種をまくだけではなくて、様々な人との出会い、出来事を通して、導き続けてくださっているのだ。何とかして、私たちの中にみことばが芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私たちが、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのである。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならない。まく人は育ててくださるのだ。豊かに実を結ぶ人生へと私たちを導いてくださる。なんとすばらしいことだろう。