2016年01月分(五篇)

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2016年1月31日(第5主日礼拝)
『イエスさまの母とは、兄弟とは?』
マルコによる福音書3章31~35節


 家族であることと、家族になるということは違う。親子のつながりは血によるが、夫婦は違う。日本の文化では、家族の基本に親子がある。聖書に、「父母を離れ、二人は一体となる」とある。息子も娘も、父と母を離れて、血によらない夫婦という関係を持つことによって新しい家族を作る、と聖書は言っているのである。家族の基本には夫婦がある。この夫婦の関係を基礎として、親子の関係が生まれるのだ。
 聖書は「家族である」ことより、「家族になる」ことを重要なこととしている。私たちが、「家族である」という所にだけ目を向けていると甘えやエゴイズムが大きくなってしまうけれど、そこに「家族になる」ということが優先されていく時、甘えやエゴイズムを乗り越えた麗しい愛の交わりが形作られることになるのである。
 イエスの母と兄弟がイエスの所にやって来て、人をやって息子イエスを呼ばせた。イエスは一家の長男である。早くに亡くなった父ヨセフに代わって大工としての家族を支える努めをしていたのだろう。そのイエスが突然、神のことばを語り出し、癒やしの奇跡をし始めた。家族は驚き、戸惑ったに違いない。世間では「気が変になっている」と言う人までいたものだから、家族がイエスを家に連れ戻そうとしたのも、もっともなことだと思う。家族の者たちは「イエスは自分の家族である」という所に立っていた。
 しかも肉親である家族は「外に立っていた」という。「大ぜいの人がイエスを囲んですわっていた」というのと対照的である。肉親であるがゆえに、離れて外にいても、イエスを取り囲む人よりずっと近い間柄だと彼らが考えていたことは、「人をやり、イエスを呼ばせた」ことの中に十分感じ取ることができる。彼らは中に入り、聴衆に加わることをまるで考えていないのだ。
 イエスは逆に問いかけられた。「わたしの母とはだれのことか。また、兄弟たちとはだれのことか。」 イエスはなんと冷たいお方だろう。せっかく心配して来ている母マリアや兄弟姉妹に対して、何ということを言うのだろう。しかしイエスがここで言おうとされているのは、明らかに後半の、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」ということなのである。
 イエスのことばは、私たちが自分をどこに身を置いて聞くかによって、全く違って聞こえてくる。正反対に聞こえてくるということさえ起きる。だから、どこに身を置いて聞くのかということがとても大切なのだ。このイエスのことばは、自分が身を置く場所によって正反対に聞こえてしまう代表的なことばの一つである。
 イエスのことばを「冷たい」と受け止める人は、明らかに、イエスを自分の家に連れ戻そうとしたイエスの家族の所に身を置いて、聞いている。この時家族は「外に立っていた」のだ(31節)。イエスを中心として集まっている人々の外に立っていた。しかし、この時イエスは、このおことばを外に立っている人に向かって語っているのではないのである。自分の話を聞きに来ている人に向かって語っているのである。だからこのイエスのことばをちゃんと聞くためには、外にいてはダメなのである。このことばを自分に語られていることばとして、イエスの周りに集まった大勢の人々の中に身を置いて聞かなければ、このイエスのことばをちゃんと聞くことは出来ないのである。
 イエスはここで、血のつながりをもとに「家族である」という所に立っている家族に対して、血を超えた交わりとして、イエスへの信仰に基づく新しい「家族になる」というあり方をお示しになったのはないだろうか。イエスはここで、「家族である」という所から「家族になる」という道を備えられたことを示されたのだ。ここに、私たちが各々抱えている家族の様々な問題に対して、それを乗り越えていく一つの方向性が示されていると思うのである。そして新しい家族になる道、家族になっていく道は「神のみこころを行う」、イエスのもとにあってこそ、にあることを知ろう。

2016年1月24日(第4主日礼拝)
『どんな罪も赦していただけます。しかし…』
マルコによる福音書3章22~30節


 イエスは言われる。「どんな罪も赦される」。しかし「聖霊をけがす者はだれでも永遠に赦されない」と。これは難解なことばのように思われるだろう。すべてが赦されると言ってすぐに、永遠に赦されないと言われる。赦される罪と赦されない罪があるのか。赦されない罪とは一体何なのか。イエスがここで言われるのは、そんなに複雑なことではないのである。
 「神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)
 聖霊を汚す、つまりこれは、聖霊なる神のわざを受け入れない、イエスへの信仰を受け入れないということなのである。イエスは、赦される罪と赦されない罪の二つがあると言われているのではない。すべては赦されるのだ。聖霊の神は私たちの罪をことごとく赦すと宣言している。これは神の約束、赦しの宣言であることをまずしっかり心に留めておこう。
 イエスの十字架の贖いを信じる力は、私たちの内にはない。ただ神から与えられるのである。だから単純に信じて従おうではないか。私たちが求めさえするならば、聖霊なる神は私たちを救うことがおできになる。
 私たちは聖霊なる神によって信仰を与えられ、罪を赦され、救われた。しかしそれは、愛を注がれて、いよいよ神のみわざに仕え、隣り人に仕えるためなのだ。自分は罪を赦された、良かった良かった、では済まない。先立ち給うイエスの愛のわざにお仕えする者として歩み出していこう。そのような者として、私たちは召し出されているのだから
 私たちはイエスの十字架を信じる。イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれたことを受け入れる。そのことができるのは、聖霊なる神のお力によるのであること。心から「アーメン」と信じることができるのは、聖霊なる神の導きと助けによるのである。私たちが赦しの確かさをア-メンと叫んで確認するのは、イエスにある赦しを私のものとしてくださる聖霊の力によるのだ。聖霊は私たちの魂に宿り、心を新たにし、罪を悔い改めさせ、福音を信じさせる働きをなさる。「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのです」(テトス3章6節)。
 サタンに押さえつけられている私たちの心を新たにし、悔い改めの思いを私たちの心に植え付ける聖霊を故意に拒否しているならば、結局、いつまでたっても悔い改めないことになり、従って、永久に赦しを得ることもないのである。それゆえ、聖霊への冒涜は赦しとの絶縁にほかならない。
 律法学者たちはイエスの御霊を「汚れた霊」とののしった。だが、私たちクリスチャンはここに、さらに厳粛な警告を聞かなければならないだろう。「イエスは主である」との告白をなさしめる御霊が私たちに与えられており、一方においては、ヘブル10章29節にいうように、恵みの御霊を受けてのちもこれを侮るものには、実にきびしい刑罰が臨むことを覚えなければならない。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:29)
 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(テトス3:5~6)
 私たちは心から感謝しよう。イエスの十字架による罪の赦しの宣言を「アーメン」といって受け止めよう。これは聖霊なる神のわざなのだ。

2016年1月17日(第3主日礼拝)
『 イエスさまを知ること 』
マルコによる福音書 3章20~21節


 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。食事を摂る時間も無く、忙しく立ち働くイエスと弟子たち、そこに身内の者たちがやってきた。イエスが癒やしをなさったり、神の国の到来を告げたりする様子を見て、「あの男は気が変になっている。」と言う人がおり、身内の者として放っておくことが出来ずに取り押さえに来たというのだ。身内の者の気持ちも分からないではない。しかし身内の者の間違いは、身内であるがゆえに、イエスを自分たちと同じ所で、視線で理解してしまったことにあるのではないだろうか。
 この間違いは、私たちが信仰を与えられる前に犯していたものでもある。イエスが語られたことを、「ここはなかなか良いことを言っている」などと評価するのだ。「なかなか良いこと」の基準は、私の常識であり、私の考えでしかない。そのようなあり方で、イエスを知ることなど、決して出来ないのである。
 「身内の者たち」、彼らは他の人々以上にイエスに近い関係にあった人々。他の誰よりもイエスを知るものたちであった。しかし、それは「肉において」イエスを知る条件に恵まれていたというだけで、「霊において」イエスを知ることにすぐれていたわけではなかった。たしかに、イエスは人間としてこの世にお生まれになられた。しかし、肉においてのみ、イエスを知ることがいかに空虚であるかを示している。
 身内の者は、愛情をもってイエスの常軌を逸した行動をやめさせようとしたのだろう。食事の暇もないほどの自己放棄をやめさせ、もうすこしまともな生活を送らせるために、イエスをナザレに連れ帰ろうとしたのだ。
彼らは彼らなりの真剣に考えて来たのだろう。しかし、所詮この人たちは、イエスに対する人間的な愛情しか持ちえなかった。信仰のない者にとっては、イエスの言動は正しく理解できなかったとしても決しておかしくはないだろう。家族でさえも、イエスにつまづいたのだから…
 パウロは言う。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」Ⅰコリント2章14節
 常軌を逸していると思われたイエス。しかし彼は狂暴でもなく、無礼でも、不潔でもなく、さらに狂信的でさえもない。ただ一点、イエスは人々を愛し、徹底的に仕えられたお方であった。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:7~8)
 イエスの愛は余りにも徹底し、余りにも純粋であった。病人をしばらくの間待たせて食事をするということさえ、イエスはなさらなかったのだ。
 しかし、今私たちは、イエス・キリストを知るものは、愛の奉仕においても、新しい自分を発見するであろう。それは自分を与えすぎても破れない人間を、私たちは十字架において見いだしたのである。
 私たちは、自分とイエスの、一対一の出会いだけを眼中においていてはならない。私たちの救いを深く考えて満足するのではなく、神の国について思いを巡らせければならない。そのとき、私たちの内的な生命が変わってくるだけでなく、外的な生活まで変わってくるのである。
 パウロは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と言った。キリストに出会うという、回心の経験の中で知った「キリストの愛」がいっさいのものに対して「大きな変化」を与えたのである。

2016年1月10日(第2主日礼拝)
『イエスさまに選ばれた十二使徒』
マルコによる福音書3章13~19節


 イエスは山に登り12名の弟子を選び、使徒とされた。ここで「十二人を任命し」とあることばは、直訳すると「十二人を創造した」ということばである。イエスは12人の使徒を、ここで新しいイスラエル、新しい神の民として創造されたということなのである。この12人はまことに欠けの多い、雑多な人たちだ。しかし、イエスによって神の民として新しく造られた者たちなのである。私たちもそうだ。どういう性格であるとか、どういう能力があるとか、どんな経歴であったとか、そんなことは全くどうでも良いことなのだ。それより何より大切なことは、イエスの選びの中で新しく造り変えられた者であるということである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5章17節)
 イエスが選ばれた12人の弟子たちの現実は何と雑然としていることだろう。実に多様な特徴を持った人々の名が記されている。それにしてもここにイスカリオテのユダの名前が記されている。わざわざ「このユダがイエスを裏切ったのである。」と記されている。どうしてイエスを裏切るようなものが選ばれたのか。私たちを深刻にさせるのは、この中にイスカリオテのユダがいたことである。マルコはなぜあえて「ご自身のお望みになる者」というようなことばで書き記したのであろうか。
 聖書を読み、迷った末、私たちはもう一度、聖書のことばそのものにぶち当たる、いつでも「もう一度最初から読んでみよう」と心が決まったところで目が開けてくる。「みこころ」の中に裏切りが包まれていることが、どうしていけないのだろうかと。そうでなければ、土台、わたし自身がイエスの「みこころ」の中に支えられるはずがないではないか。イエスの「みこころ」は善悪の中の善にだけでなく、信不信の中の信だけでなく、悪と不信すら包み込むものではないだろうか。たしかにユダは裏切った。しかし、弟子たちの筆頭者ペテロは裏切らなかったといえるだろうか。
 そうだ。イエスは、ユダが裏切ることを承知の上で選ばれたのである。ユダだけではない。筆頭に挙げられているシモン・ペテロにしても、イエスが捕らえられた時、イエスのことを知らないと三度も否認したではないか。イエスを裏切ったのだ。
 ますますどうしてこの12人が選ばれたのかが分からなくなる。高い教育を受けた者でもない。すぐにカッとなるような短気な者もいる。人々から嫌われ軽蔑されるような者もいる。武力闘争するような危ない人もいる。そして、イエスを裏切る者までいる。何か、単なる寄せ集め集団のようにさえ見えてくる。しかし、これが神の選びなのである。私たちもそうなのだ。何で選ばれたのか、その理由はさっぱり分からない。もっと優しくて、賢くて、行動力がある人はいくらでもいるのに、私が選ばれた。理由がさっぱり分からない。分からなくて良いのだ。私の側に理由なんて無いからだ。ただ神があわれんでくださり、愛してくださり、選んでくださった。それしかないのである。しかし、選ばれたのは神だから、この選びに間違いはない。これが、私たちの「救いの確かさ」の唯一の根拠である。
 彼らをひとりづつあげて、その人となりを考えてよいかもしれない。そして、ひとりびとりをイエスがどのように愛しておられたかも学ぶことができるだろう。しかし、この雑然とした、人間的なあらゆる弱さを含んだ12人の集団は、私たちの教会の縮図なのである。これまでにかつてなかったような、常識を越えた性格をもつ新しい集団が、イエスによって創造された。これが私たちの教会である。「雷の子」ヨハネが「愛の使徒」と呼ばれるように変えられていく。これこそ神の創造のわざである。

2016年1月3日(新年初頭礼拝)
『平安と希望を与える主の計画』
エレミヤ書29章1~14節


 エレミヤの活動した時代、紀元前597年に、イスラエルは滅び、多くのユダヤ人が捕囚民としてバビロンへ移され、失意の中にあった民に、偽預言者は祖国への復帰は近いといたずらに民を惑わしていた。それに対してエレミヤのことばは、意外なものであった。
 ①バビロンへの捕囚民は通常の市民として社会生活をし(4‐5)②家庭生活を送り(6 ③その町の繁栄を祈るべきである(7)と。
 ついでエレミヤは語る。バビロン捕囚生活は永遠に続くものではなく、わずか70年間である(10)。神は希望を与える計画を立てておられるので(11)、民が求めさえすれば,神を見出すことが出来るのだ(12‐13)。そして神は、捕囚地から人々を必ず連れ戻される(14)と。
 バビロン捕囚は長く続く。家を建てて住みつき、畑を作ってその実を食べよと。民にとって、エレミャのことばは、慰めでもいたわりでもなかった。一日も早くこのバビロンから抜け出して、自分たちの住んでいたあのエルサレムに帰りたい、エルサレムに帰れば、そこには自由もあり、好きなときに神を礼拝できる、楽しい生活がある……。人々は毎日毎日、祈り待ち続けていたのであった。
 一番いやな所、一日も早く去りたいと願っている所で、腰を落ち着け、自分の生活をしなさい、というのは、ひたすら脱出を願っていたイスラエルの民にとっては、腹の立つことばではなかっただろうか。
 この捕囚も神のご計画、御手の中にある。私たちが直面し、目を背けたくなるような現実の苦しみのうしろには神のご計画があると信じることはどんなに難しいことだろう。しかし私たちはそう信じてよいのだ。
 私たちが生活していくとき、地上的に物事を見る。けれども、それは信仰の目ではない。信仰のまなざしとは、それらの中に、神が何をなさっておられるのか、という、神のまなざしで解釈し、受け取っていくことである。そこに働いている神の力強いご支配を信じて、神のみこころをくみ取っていくところに、私たちの新しい歩みが生まれてくるのではないか。そのときには、もはやどのような艱難も、行き詰まったとしても、絶体絶命というようなことは決してないのだ。どんなときにも希望が与えられる。
 バビロンを呪い、滅びることを願っていた人々に、その町の平安を祈れ。それがあなたがたも平安を得る道であると、主は言われた。私たちを取り巻く環境や生活、そこには多くの問題があり、私たちの心を日ごとに締め付ける。そのような私たちであっても、その現実をしっかりと見据えて、しかもその平安を祈ることができい、そのようにせよと神は言われる。
 この一年、私たちの前にどのような事が待ち構えているかわからない。しかしどのような中にあっても、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16)とあかしできる一年でありたいと思う。そのためには、「主を待ち望む」信仰をしっかり持とう。私たちの日々の生活、人生には、いつも神さまが共にいてくださるということは、なんとすばらしいことでだろう。過ぎ行く希望、死せる希望ではなく、神からの希望があなたのものとなるのだ。神の祝福に囲まれた生涯、そこでは希望は失望に終わることがない。新年を迎えた私たちに、この真の希望が約束されていることは何という幸せなこと、祝福であろうか。
 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル10:23)