2015年12月分(四篇)

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2015年12月27日(越年感謝礼拝)
『ア-メン。主イエスよ、来てください』
ヨハネ默示録 22章 16~21節


 「アーメン」、それは「真実、そのとおり」という意味である。聖書はこの「アーメン」で終わっている。
 「アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
 ここでキリストが「輝く明けの明星」と呼ばれていることに注目しよう。このことは、私たちが今生きている、この世界と時代が、夜の状態であるということを、語っている。言い換えられるならば、閉じ込められている状態である。
 戦後70年をむかえて、日本は平和を享受しているが、目を世界に向ければ、そこには混乱と無秩序の世界、今も戦火の中を逃げ惑い、希望を見失った人々がいる。世界の現状を見るに、世界は未だ平和にはほど遠いことを実感させられるのではないだろうか。
 たしかに、世界史の全体は、そこにおいて様々の開化や発明発見が行なわれ、啓蒙が行なわれてきたが、依然として世界は「闇」なのだ。出口の見えない闇がどこまでも続くように思える。しかし聖書はこう言う。「しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる」と。
 キリストは、ここで、単に普通の星とか色あせてゆく星とか呼ばれているのではなくて、「輝く明けの明星」と呼ばれている。星がひときわ明るいのは、夜の闇が深い時である。しかしこの星は、単に闇のしるしではない。それは「朝」が来るということを指示しているのである。主イエス・キリストは「明け(暁)の明星」なのだ。
 現在の私たちの世界の夜に対して、目標を示し結末を与える朝が、そうだ、神の朝が、展望されている。それだけではない。この朝はすでに始まったと、聖書は語る。
 キリスト降誕の時、この神の朝は、夜のただ中に始まった。私たちは、キリストともに始まったこの日の最初の光を、すでに見た。夜は深くなり、そして陽の光はすべての窓から差し入ろうとしている。しかし、この2つの事実を知るのは、信仰だけである。すなわち、今この世界が夜だということは、信仰だけが確かめ得ること。またキリストが「明けの明星」で、私たちのために夜の中に輝き、優しく慰め深く夜を照し、朝を待つ喜びを私たちの心に注ぎたもうということ、そのことも、私たちの生まれながらの目には、決して捕え得ぬことがらなのである。
 私たちはこう祈ろう。「主イエス・キリストよ、あなたの御顔を私たちの上に輝かせ、恵みを与えてください。御顔を私たちの上に昇らせ、あなたの平安を与えてください」
 主イエスは約束する。「わたしは、すぐに来る」と。教会は、自分の主である救い主であるお方が、来たりたもうことを知っている。かれが今途上にあることを知っている。来たりたもう主を知っているということは、何の役にも立たない夢ではない。現在の生活の様々の妨げや義務からの逃避でもない。むしろ、それは、キリスト者が今の時とこの世の深淵の上に、誠実にまた信頼をもってしがみついていることを可能にするのである。
 将来に対する神の約束は、現在における私たちの力である。私たちは支えを失って、時の深淵の中に落ち込み、砕けてしまう必要はない。私たちには、ひとつの支えが与えられている。深淵に落ち込んでいるこの世全体に代って、救い主が来たりたもうというこの事実にしがみついているようにという委託が、教会には与えられている。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう」(詩篇73:23~24)
 一年を閉じるにあたって、私たちはこのイエスの力強いことばに、心から信頼していこう。ここに希望の光が差し込む、朝が今来ようとしていることを信じていこう。

2015年12月20日(クリスマス礼拝)
クリスマスを共に祝おう 』
ルカによる福音書2章17~20節
 

 今日多くの人々が本当のクリスマスの祝い方を知らずにこの季節を過ごしている。この日を、クリスマス・ツリ-で飾ったり、おいしい食事を楽しんだり、プレゼントを交換したりして過ごすだろう。
 クリスマスを祝う最高の方法、そのためにはクリスマスの真の意味について知らなければならない。クリスマスとは「クリス+マス」、つまり「キリストを拝む」日である。なぜキリストを礼拝するのか?
 キリストの誕生は、罪と死の支配の中にいる私たちに永遠の救いを与えるために、身代わりとして十字架上で死ぬためにこの世にこられた。
 だれでも、たった3つの命題によってクリスマスを理解することができる。①私は罪人であるということ。②罪人である私は救い主を必要としているということ。③イエスがその救い主であるということである。この三つをしっかり心にとめておけば、私たちはクリスマスを正しく祝うことができると言えよう。
 クリスマスの日、私たちは最初のクリスマスを目撃した人たちがどのように祝ったかを学ぶことができる。羊飼いたちの経験である。
 クリスマスの祝い方は、①クリスマスについて他の人々に伝えること。②その出来事そのものに驚くこと。③その意味についてじっくり考えること。④クリスマスになされたことを覚えて神をあがめ、賛美することだ。
 羊飼いたちはベツレヘムに来て幼子イエスを見た。その後、彼らはその幼子について告げられたことを人々に「知らせた」。ほかの言い方をすれば、羊飼いたちはこの出来事の証人となったということ。彼らが証人となったのは、すばらしい出来事が起こり、しかもほかの人たちにぜひともそのことを伝える必要があったからである。羊飼いたちは、人に語る価値のあるものを持っていた。
 荒野で寝ずの番をして羊たちを守る羊飼いたちはベツレヘムに行く決意を固めた。こうして彼らは羊の群れをあとにして出かけて行き、イエスを見つけ出したのである。なにもかも御使いたちが語ったとおり。彼らの耳にしたことと彼ら自身の経験がピッタリ合ったのである。このようなすばらしい出来事を人々に伝えずにはおれなくなったのである。御使いたちの妙なる賛美を聞いた彼らは、どうして口をつぐんだままでおれるだろうか。どうして彼らは、自分たちの見たことを語らずにおれるだろうか。
 羊飼いたちが伝えたのは、彼らのメッセ-ジをこのうえなく必要としている世界のあることを知っていたからでもある。当時の世界は袋小路に入り、混乱、瀕死の状態にある、まことに悲しい状態にあった。なぜ袋小路に入っていたかというと、霊的な方向を見失っていたからである。混乱していたのは、真実の啓示がなく、そのために真理の知識に欠けていたからである。瀕死の状態にあったのは、生きるための十分な目的と動機がなかったからである。この羊飼いたちのころの世界は、私たちの時代の世界と似通っている。今の世界は、知識と文化のともしびが、大きくゆらめいて徐々に消えようとしているからだ。
 ところが、その死に臨んでいる世界のために、イエスこられたのだ。イエスは言われました。「わたしが道である」と。袋小路に入った世界にとっての真の道がここにある。彼は「真理」であるとも言われた。恐ろしいほどに混乱した世界にとっての、ただひとつの真理がここにある。さらにイエスは「いのち」であると言われた。死に臨んだ世界にとっての真のいのちがここにある。 羊飼いたちがしたように、私たちも出て行こう。この喜びの訪れを告げるために。

2015年12月13日(待降節第3主日礼拝)
『 クリスマスの脇役たち 』
ルカによる福音書2章36~38節


 クリスマス聖誕劇を演ずる多くのキャストのなかでも比較的目立たない、脇役のような存在、ちょっとの間だけ登場してすぐに舞台裏に引っ込んでしまうような脇役がいる。
 この世の中では、この世の人々が考える重要な人物に大きな注意が払われるような時代。今年も多くの芸能人、政治家、学者さんなどが亡くなった。そうした人々は、いろいろな面で脚光を浴び、あるいは偉大な足跡を残した。ひとつの時代を作り上げた人物と言えるだろう。しかし、この世的に言うならば、決して偉大な足跡を残したわけでもなく、静かにこの地上の生涯を去って行った友人たちを思う。かれらは歴史に名を残すわけでもなく、一部の親しい人々に、その心に良き想い出と教訓を残してくれた。小さな麦のひとつぶのような死が大きな祝福をもたらしてくださることを、私たちは知っている。
 クリスマスは、この世の中で存在価値の大きな人のためのものではない。ロ-マ皇帝はイエスの誕生について全くの無知だった。ロ-マ元老院の貴族、ギリシャの哲学者、偉大な将軍についても言える。ユダヤの大祭司や最高議会の議員ですら、最初のクリスマスを知らずにいたのである。クリスマスは重要でない人々のためにある。
 今朝取り上げる人物は、長い記録文書においてわずか3節しか取り上げられていない人物。しかもそれは男性ではなく女性。彼女は年寄りであり、やもめであった。しかし、彼女は主イエス・キリストの来臨の十分な意味について、クリスマスの記事に登場してくるほかの誰よりも深い理解を示している。彼女はアンナ、女性の預言者である。
 アンナは、幼子イエスが、神がイスラエルに約束しておられた贖い主になられるということを知っていた。『贖い』とは何か? それは「再び買い戻す」ということ。聖書時代にこのことばはおもに奴隷を自由にする行為を表わすのに用いられていた。奴隷が自由になるためには、だれかが彼を購うために十分な価を払われなければならなっかった。
 聖書は言う。すべての人は罪の奴隷として売られた。一度、二度と売られ、ある罪の買い手から別の買い手へと回された。ところが主イエスは、彼らを買い戻すために市場に介入されて、私たちを永久に買い出されたのでだ。そして私たちは真に自由なものとされたのだ。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18,19)。私たちの贖いの代価は、ほかならない主イエス・キリストの血潮だったのである。
 このことを神がエルサレムの人たちになさるのを、女預言者アンナは待ち望んでいたのである。そのために彼女は幼子イエスを見た時に、この御子を私たちを罪とその力から購う代価をやがて支払うお方であると認めたのである。
 現代は、このクリスマスの真の意味についてあまりにも無関心な時代である。イエスの時代の世界にも、ちょうど今のように、キリストの来臨に気付かない人たち、無関心な人たちで満ちていた。しかし多くの信仰者がこの真の贖い主を待ち望んでいたのだ。預言者イザヤは私たちの罪と咎を負われ、私たちの痛みをになってくださり、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちのために砕かれた贖い主を示している。
 クリスマスの物語の中心にいつも位置しているのは、このイエスの「贖い」である。御使いは「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)

2015年12月06日 音楽歓迎礼拝
『いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝』
テサロニケ人への手紙第1 5章16~18節

 まず、聖書は「いつも喜んでいなさい」と私たちに勧める。どうしたら私たちは、いつも喜んでいることができるだろうか。いつも喜ぶこと、それは笑顔を絶やさないで日々生活をするということとは違う。私たちの顔から笑顔が失われていく時というのは、その人の色々な状況に左右されるものだ。自分が理想としていたものと、現実にずれを感じる時に、笑顔が失われていく。
 聖書のことばでこんなことばがある。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22~23)
 「御霊の実」というのは、ひとことで言えば「祝福の実」ということ。神から与えられる祝福。つまり喜びというのは神から与えられるという点で、私たちが考えている喜びとは違うものだということがわかる。万事うまく言っているから、喜ぶというのではない。苦しみや悲しみがあっても喜ぶ。そんなことが可能だろうか。そう可能なのだ。
 聖書の教える「喜び」とは、そうした私たちの周りの環境や状況によって変わるものではない。この「喜び」は聖書のことばでは「カイロ」と言い、もともとの意味は「カリス」。これは「恵み」という意味である。神の恵みはいろいろとあるが、なんといっても一番の、そして最高の恵みは、私たちが神にかけがいのないものとして愛されているということである。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
 神の愛はイエス・キリストの十字架によって現された。罪深い私たちのために、そのひとり子イエスをこの世に送り、私たちの罪の身代わりとして、私たちが受けるべきすべての裁きをその身に負って十字架で死なれたのだ。十字架こそが、私たちに与えられた恵み。そして神の恵みは私たちの罪を赦しきよめてくださるだけでなく、すばらしい贈物を与えてくださった。それが「御霊の賜物=愛、喜び」なのである。
 二つ目は「絶えず、祈りなさい」。一日中祈りなさい、ということではない。いつも神に向かって生きるということなのだ。私たちは日々忙しく、周りの煩雑な出来事に左右され、ときには自らを見失うようなこともある。それは私たちの人生や日々の生活にしっかりとした、揺るがない軸を持っていないからだ。「祈り」それは、私たちの神のみ前に生きることを表している。「祈り」とは呼吸のようなもの。これがなければ人は生きることができないように、人は神と向き合い、神と交わるように造られた。「人間」という聖書のことばは「アンスローポス」というギリシャ語、その意味は「見上げるもの」。人は足元ばかりを見て歩いているが、上を見上げ、神を仰ぎ、信頼しながら生きるように造られている。①常に神に信頼する生活。②常に神の助けを求める習慣を育てる。
 最後に「すべてのことについて、感謝しなさい」。すべての事の中にイエスが働いておられる。それを見つけ出すことができる。このすべてであられるお方に感謝することを勧めているのである。
 私たちは知るべきである。私たちのひとつひとつ、生活の具体的なことの中にも、そして、私たちの存在そのものが支えられていることの中にも、神が私たちに関わっていてくださっていおられることを。この神の備えてくださる恵みを喜び、私たちを自由にする祈りに生き、そのすべてに感謝をささげるとき、神は私たちの人生をどんなにすばらしいものと変えてくださることだろう。
「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10:口語訳)