2015年9月分(四篇)

目次に戻る


2015年9月27日(第4主日礼拝)

『 イエスは彼らの信仰を見た 』

マルコによる福音書2章1~5節


 カペナウムの町に戻られたイエスのもとに大勢の群衆が集まり「戸口のところまですきまもないほどになった」。そこに突然の侵入者、しかも非常識とも思える方法で。長年中風で苦しむ人を4人の男が担ぎ、なんと屋根をはぎ取り、開いた穴から寝ている床ごと、つり降ろしたのだ。その場に居合わせた人々はどんなに驚いたことだろう。驚くべきは「イエスは彼らの信仰を見て」(5節)とあることだ。イエスはこの中風に苦しむ人の信仰をではなく、彼を床に乗せて運んできた4人の友人たちの信仰をご覧になられた。
 この出来事における4人の友人たちの思いを想像してみよう。なんとかしてイエスのもとに、この友を連れて行こう。イエスにどうしても会わせてあげよう。今しかない、と決意したのではないか。大勢の群衆に阻まれてイエスと出会う恵み機会が失われようとしていたなかで、明日ではなく、今日、今、この時のうちに、恵みをイエスからいただこうと考えたのだ。それをイエスは「信仰」と言われた。そうだ。信仰は「またの機会」をあてにして生きることはできない。信仰の決断は今起こらなければならない。 「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
 ひとつの明らかな真実がここにはある。救い主イエスにより近く進み出ることに、私たちはもっと強引でなければならないのではないか。もっと執念深くならなければならないのではないか。今日多くのクリスチャンが上品すぎて、常識を重んじるあまり、イエスのみ前に進み出ることにあまりに無欲であっさりしてはいないだろうか。イエスに肉迫するほどの信仰を私たちは持っているだろうか。
 イエスに出会おうとして礼拝に来るが、出会いの起こるべきところで、何かがイエスと自分との間を隔てている、との感じを抱くことはないか。そして満たされぬ思いのまま、次の機会への期待をもって礼拝から帰っていく。しかし、次の機会を期待すること、つまり、この機会を失ったのはいたしかたないこととあきらめることをしてはいけないのだ。私たちの信仰生活は今という時に手を離してしまったならば、永遠にこの時は来ないことを知るべきである。今日、今という時に、イエスに会っておくために、イエスのみ前に、身動きのとれない病人のように、自分を差し出すことに精根を傾け尽くそうではないか。この時でなければいただくことのできないイエスの恵みにもっと貪欲になろうではないか。
 彼らのとった行動は果たして信仰と呼べるものだったのか。しかし確かなことは、私たちの目から見て、信仰と判定できないような稚拙で幼稚な信仰であったとしても、なお「信仰である」と認め、信仰として拾い上げてくださるお方がおられるということである。「信仰なき自分」として進みざるを得ないとき、イエスは私たちの欠けたる信仰を見ていてくださる。それが私たちの大いなる平安なのだ。喜びなのだ。いずれは噂となるしかないような非常識な行動を「信仰」と見てくださったそのことのなかに、最後には後始末を、ご自分の肉と血で果たさなければならないイエスの、私たち人間への愛があるのである。イエスの愛のル-ルが、人間の常識非常識のル-ルを越えてしまったこと、人々の持つ求道の熱意とイエスへの信頼にもまさって、私たちの「欠けたる思い」をあえて「信仰」として受けとめてくださるイエスの愛が、ここにあらわされているのである。
 罪の赦しは、私の信仰という「善きわざ」によって手に入れるものではない。イエスが私をあわれんでくださって、私の罪を赦そう、私を新しくしよう、そう思ってくださることによって一方的に与えられるものである。イエスの十字架の執りなしと、それによる神の赦し、そして執りなす者によって救われる。それが神が与えられる救いの筋道ではないだろうか。
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)

2015年9月20日(第3主日礼拝)

『 手を伸ばして~さわって言われた 』

マルコによる福音書1章40~45節


 「ツァラアト」、それは忌まわしい不治の病とされていた。この病によって人は身体だけでなく、その心も蝕まれていく。あらゆる人との関わりを断たれ、社会からはじき出され、隔離された生活を強いられるのである。道行くときも、「わたしは汚れています。汚れています。どうぞ近寄らないでください」と叫びながら歩かなければならなかった(レビ記13章45~46節)。「わたしは汚れた者です。」と自分の口で呼ばわらなければならないということがどんなにつらいことだっただろう。
 今私たちが見るのは、このひとりのあわれな人を人間として迎え入れてくださったお方がここにおられる、ということである。
 彼はイエスのことを聞き、ひたすら待った。一週間、二週間、一ヶ月と待ったかもしれない。遂にイエスがおいでになられた。彼はイエスのみもとにひざまずき、願った。「お心一つで、私をきよくしていただけます」
 何とも回りくどい言い方ではないか。「わたしをきよくしてください。」そう言えば良さそうなものだ。しかし、彼は「お心一つで」と言ったのである。この言い方の中に、この人のイエスに対する信仰が表れている。「イエスさま、あなたがそうしようと思われるなら、わたしをきよくすることがおできになる。」ということだ。確かにこの男の人は、「癒やしてください」「きよくしてください」との思いを強く持ちつつも、「そうなるかどうかは、そうしてくださるかどうかは、イエスさま、あなたの意思、あなたの思い一つです。」と言ったのである。彼は自分の願いをイエスにぶつけるということ以上に、イエスのご意思、みこころによって事が起きるのだと信じた。
 それに対して、イエスは「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。これも直訳すれば、「わたしは望む。きよくなれ。」「わたしは意思する。きよくなれ。」ということ。実に、この癒しはイエスのご意思によって行われたのだ。
 私たちが熱心に願い続けたら、その熱心さによって事が起きるということではない。もちろん、熱心に祈り求めることは大切だし、山上の説教でもイエス自らがそのように教えておられる。しかし、それが事を起こすのではないのである。イエスのみこころ、それが事を起こすのである。
 聖書は「深くあわれみ」と。その意味は、「はらわたが痛む」。ツァラアトに苦しむ人と出会い、その思いを受け取り、「はらわたが痛む」ようにあわれたのだ。この人が置かれている状況、今までの歩み、そのような苦しみをイエスはすべて見通しておられたのである。そして、はらわたが痛んだのである。これがイエスのみこころであり、イエスのあわれみであり、イエスの愛なのだ。イエスはこの思いを今も私たちひとり一人に向けてお持ちなのだ。
 離れたところからイエスに呼びかけたことによって、彼はすばらしい恵みをイエスからいただくことができた。それでもなお、もっとすばらしい真実なことがある。それは、イエスが彼を受け入れ、引き入れ、遠く隔てを置くことを許したまわなかったことなのである。いや、イエスご自身が私たちをとらえて、強く引き入れたもうたことを、しっかりと心に刻みつけておかなければならない。
 深くあわれみたもうイエスは手を伸ばして、私たちに触れてくださる。罪深き者であるがゆえに恵みの効力の圏外に立つ私たちに、イエスの方から踏み出して近づき、ご自身を与えてくださったのである。
 このツァラアトのように、自分が癒やされること、きよめられることをイエスに求めないのなら、私たちには何も起きない。イエスが私たちのことをはらわたを痛めるようにしてあわれんでくださっておられる。それが十字架だ。イエスは十字架にお架かりになってまで、私たちの一切の罪を赦そうとしてくださった。このイエスの愛を信じて、自らの汚れ、自らの具体的な罪をすべてさらけ出そう。そして、癒やしてくださることを願い求め、すべてをお委ねしよう。必ずイエスは応えてくださる。

2015年9月13日(第2主日礼拝)

『 祈り、そして出て行くイエスさま 』

マルコによる福音書1章35~39節


 「朝早くまだ暗いうちに」イエスは寂しい所に出て行って祈られた。私たちも祈るべき静かな所、寂しく荒れ果てた所を、信仰生活において確保しなければならないことを教えている。「大祭司」としての働きをイエスはなされる。ただおひとり、父なる神のみ前に進み出て、私たち罪人のために執り成しておられるのである。
 どんなに忙しくとも、忙しければ忙しいほど、私たちは祈らなければならない。祈りにおける父なる神との交わりこそ、イエスにとってなくてはならないものだったからで、私たちにはそれ程必要ではないとは言えない。私たちが神を知らなかった時、信仰を与えられていなかった時、私たちは祈りを必要なものとは考えていなかった。しかし、信仰が与えられて、神との交わりの中に生きるようになって、祈らなければならないということを考えるようになったのだ。祈ることとが私たちと神との交わりのバロメーターとも言えるだろうし、祈ることでいよいよ私たちの中に神との交わり、神への愛、神への信頼が醸成されてくると言えよう。
 確かに、私たちは祈ることが大切だということは知っている。しかし、知っているということと、祈っているということは違う。祈る人になるために本気で考え、やってみなければならない。祈りにおいて最も大切なこと。それは、祈ること。実際に祈っていかなければ、祈りについてのどんな立派な考察も意味を持たない。
 どうしたら私たちは祈りの人になれるのか。①食前の祈りをする。こんな簡単な祈りはないだろう。しかし食前の祈りが身につくと一日三回は祈ることになるし、食べるという私たちの生活の根本が、神のあわれみの中にあるということが明らかにされ、心に刻まれることになる。小さな習慣だが、これはとても大切。②聖書を学び祈る会に出席する。私たちが祈らない最大の理由は、この祈りのための時間を確保するという戦いに負けてしまうからだ。この戦いをあきらめずに行い、週の半ばの日に聖書を読み、共に祈る。このことを習慣付けていく中で、私たちの信仰生活は確実に変わっていく。③祈りのカードやノートを作り、執り成しの祈りをささげる。そこで、私が本当に祈らなければならないことは何かということを考えることにもなる。まずこの三つをやってみよう。そうすれば、私たちの祈りの生活は確実に変わっていくだろう。祈ろうとしない私と戦わなければならないのである。
 イエスは福音を宣べ伝えることを第一にしておられた。この第一のことが第一のこととされずに、病人の治療のようなご利益が第一にされるところからは、イエスは自ら身を引かれ去って行かれた。イエスは奇跡を行う道においてではなく、福音宣教の道において、神の栄光を輝かせるのをよしとし、求めておられる。ここにおいて、教会の守るべき基本的な姿勢が定まった。
 「さあ、別の村里へ行こう」このように言って、イエスは弟子たちを連れて行かれた。それは弟子たちをそばに置き、宣教のわざにあずからせ、イエスが天に帰られた後も地上における福音のつとめが弟子たちだけで遂行されるように、準備をなさった。私たちもまた、この働きのために招かれているのだ。
 「わたしは、そのために出て来たのだから」とは父なる神のもとを出て来たとも理解しよう。その使命に私たちを参与させてくださるのである。
 「さあ、近くの別の村里へ行こう」。英語訳聖書では「Let us go somewhere else」。私たちもイエスとともに福音をあまねく地に満たすために「レッツ・ゴー」。
 今日も明日もイエスは先立って行かれる。イエスが「さあ、行こう」と私たちを宣教へと招いてくださっている。イエスは私の所に来てくださった。だったら、私の家族、友人、知人の所にも来てくださるはずだ。私たちは、神のあわれみの中で、その人たちよりほんの少し早くイエスと出会わせていただいただけなのだから。
 さあ立ち上がろうではないか! 見よ。畑は早色づいている。刈り入れを待っているのだ。必要なのは収穫のための働き人であり、とりなし、祈る人なのだ。

2015年9月6日(第1主日礼拝)

『近寄り、その手を取られるイエスさま』

マルコによる福音書1章29~34節

 神の人類救済計画はイエスの十字架と復活によって実現する。これを阻止し妨害することがサタンの働きである。福音書には、イエスがおいでになる所ではしょっちゅう汚れた霊や悪霊が出て来る。これは少しも偶然ではない。汚れた霊や悪霊は、その存在を賭けてイエスに抵抗し、対抗し、そのみわざを妨害するのである。
 イエスの時代には、病気は悪い霊の仕業だと思われていた。今の時代も根本的なところでは同じなのかもしれない。人は病気になるとその原因を考え、不安になる。
 ペテロの姑が熱病で床についていた。イエスは彼女の手をとって癒された。病気の癒しを、悪霊を追い払うことと同列に考えてはいけない。「人々は病人や悪霊につかれた人」(32)と。病気で苦しむ人と悪霊につかれるとは全く同じではないのだ。
 病気というものを悪しき霊のわざであるかのように思わせることこそ、この世の暗闇の支配者、サタンの常套手段であり、悲しいことに多くの人はサタンの思うつぼにはまってしまう。それゆえ人はその病い以上に精神的に追い詰められ、苦しむのである。
 病気というものを先祖のたたりだとか、何かの悪い霊が取り次いでいるのだとか、何かその人が大きな罪を犯したからだとかいう人がいる。そのようなことを言って勧誘するエセ宗教もたくさんある。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためだ」と。そして人を癒された。
 イエスがこの地上に、私たちのところに来られたのは、病を癒すためではない。預言者イザヤは言う。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」と。「彼は、悲しみの人で病を知っていた」「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」
 イエスご生涯はしもべとして、仕えるものとしての歩みだった。イエスのお心にあるものはあわれみだった。神の深いあわれみと愛とに満ちていた。そしてイエスはその全存在をあげて病に苦しむ人のもとに近寄りたもうたのである。それだけでではない。イエスは手を差し伸べ、その手を取って起こされた。
 手を差し伸べるとは、それは「和解」を意味する。単に支配者としてでなく、和解をもたらすものとして近づいて行かれるた。病気だけではない。罪に支配されている私たちと神さまとの「和解」をもたらすために、イエスはおいでになられたのである。イエスが近づいてきて手を差しのばされたとき、その人を縛り付けていた力が崩れていく。ああ、感謝すべきかな!、イエスは病めるものの外に立つことなく、病めるものの内面にかかわってくださるのだ。
 イエスは今も私たちに近づいておられる。今も手を差し伸べて、手を取って起こされる。私たちは差しのばされたイエスの御手をしっかり握ろう。そのとき私たちは罪を赦された実感があふれずにはおれない
 イエスの十字架を思い、イエスに触れていただいたこと、その御手の中で生かされていることを感謝し、さらにここから始まる新しい一週も、イエスに手を取って起こしていただいた者として、イエスにお仕えし、悪しき霊の誘惑にしっかり抵抗して、御国に向かって歩んでいこうではないか。