2015年8月分(五篇)

目次に戻る



2015年8月30日(第5主日礼拝)

『イエス・キリストの権威と新しさ』

マルコによる福音書1章21~28節

 イエスとその一行は安息日にカペナウムの会堂(シナゴーグ)に入られた。イエスが具体的に神の子、救い主として人々の前に公に姿を現され、人々を教えられた最初の時である。
 会堂はユダヤの人々にとっては、生活のあらゆる面での中心。そこでは、律法と預言書が説き明かされ、祈りと讃美がなされ、教育と生活指導がなされていた。そこにイエスは立たれた。
 会堂の目的は神を礼拝すること。その礼拝の主催者はパリサイ人でも律法学者でもない。安息の主であられるイエスこそが、会堂とそこで繰り広げられる礼拝の主なのだ。ユダヤ人たちは安息日ごとに町々村々ごとに集会をした。それは、神の創造のみわざを新たに覚え、メシヤのみわざとして来たらんとする「永遠の安息」を待ち望むためであった。そして今、真の安息をもたらすイエスがここにおられる。
 安息日の礼拝において聖書の朗読と説教という形でなされる神のことばの告知は、本来、イエスご自身がなさなければならないことであった。なぜなら、イエスは神の御子であり、神のことばそのものであり、神のみ心をはっきりとご存知であるただ独りのお方だからだ。
 イエスは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられた。人々はその教えに非常に驚いた。神のみ心を完全に知ることが出来、これを伝えることができるお方は他にはいなかったからだ。
 そしてそのことが明らかになる出来事が、この時起きた。ひとりの汚れた霊に取りつかれた人が突然大声で叫びだした。そしてイエスは命じられた。「黙れ。この人から出て行け」。汚れた霊は叫びこの男から出て行った。
 人々は律法学者の説教を何度も聞いていた。学者たちは聖書の権威と、言い伝えの権威とに訴えつつ説教した。しかし、今は違う。イエスのそれはまさに異質としか言い得ないような、権威ある教えを彼らは聞き、驚いた。学者たちの説教は来るべきメシヤを指し示さずにはおかないものだった。旧約聖書を来るべきメシヤ=キリストと結びつけながら読み、説き明かしされていた。しかし、イエスがみことばを説き明かしたもうたとき、権威はもはやかなたのものではなく、今ここにあると人々は感じ、受け止めたのである。それは『権威についての教え』ではなく、『権威ある者の教え』。この教えの前に、人々は砕かれ、また立たされたのである。
 人々はもはや傍観者として通り過ぎて行くことが出来なくされている。このときから、律法学者も、群衆も、それぞれの仕方でイエスに対応し続けなければならなくなった。その中でも、最も直接に、一刻のゆとりもなく、すぐに反応させられたのが「汚れた霊につかれた人」だった。
 この気の毒な男の背後にあるものは何だったのだろうか。それは、古きこの世を支配していた、もろもろの霊力。古き世界がすでに没落したことを人々が知らないのに乗じて、そこに居座っているのだ。汚れた霊は古き支配力の表れ。イエスのおられるところ、そこに悪魔的なあらゆる力は崩壊していく。一切の悪しき霊の支配を打ち破り、神の支配、神の国を来たらせるために、イエスはおいでになられた。
 イエスはご自身についての理解を、讃美と喜びなしに、口にすることを許したまわない。「私たちを滅ぼしに」という、絶望的な悲鳴は許されない。そうだ!。私たちを救うために来られた主に讃美あれ、と叫ぶ声こそがイエスを礼拝するものにふさわしいし、神に受け入れられるのである。
 「新しい教え」に人々は驚嘆した。私たちも礼拝を通して、イエスの持つ「権威」と「新しさ」に驚き、喜びの叫びをあげたいものである。

2015年8月23日(第4主日礼拝)

『 わたしについて来なさい 』

マルコによる福音書1章16~20節


 イエスはガリラヤの漁師ペテロはじめ四名を弟子として選ばれ、招かれた。いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われた。そして、この二人は「すぐに網を捨てて従った。」
 イエスの「わたしについて来なさい。」という招き、召し出しによって、キリスト教会最初のキリスト者は誕生した。
 「わたしについて来なさい」とは、座っている状態から、立って歩み出し、後に従うこと。語られる教えに、耳を傾けて聞き、それを守ることが求められているのではない。立って、ついて行くことが求められている。イエスと私たちとの関係も、彼らと同じように「立って」という行動が求められていることを知る。今私たちは礼拝をささげている。座って聖書のみことばに静かに耳を傾けていることから、みことばへの応答、すなわち神の招きに対して、私たちはここから立ち上がらなければならない。
 「網を捨て置いて従った」。「網」、それは彼らのいのちをつなぎ止めるもの。彼らの生活を支え、家族を養うための大切なもの。彼らの生活に「断絶」が起こったのだ。断絶とは、この世から、私たちの人生からの逃避ではない。実に、「前に踏み切ること、前方へ飛躍すること」だ。
 ①四人が選ばれたのは、彼らの資質、能力、性格といったものによるのではない。このことは、私たちがイエスの弟子であるキリスト者とされたのも同じ。私たちの中にキリスト者になるに適している、ふさわしい性格やら、能力などがあったからではない。
 ②どうしてイエスは福音を宣べ伝えるに際して、弟子を求められたのか。イエスの告げる福音を信じ、救われるということは、イエスに従うということと切り離せないことと理解しましよう。イエスを信じるということは、イコール、イエスに従うということだからだ。イエスの語られた教えはすばらしいし、本当だと思うけれど、私はイエスに従うのではなく、私の考え方、生き方において参考にさせていただきます、という人がいるかもしれない。しかしこれでは、イエスの救いにあずかることにはならないのだ。これでは、私が主、イエスは従ということになってしまう。
 ③最も大きな疑問。どうして彼らはイエスのことばによってすぐに網を捨て、父や雇い人や舟を残してイエスに従ったのか。私たちにはできないだろう。私たちも何もかも捨てて従わなければならないのか。
 神の召命というものは、人それぞれ違う。私は牧師になるよう召命を受けた。誰もがみんな牧師になるわけではない。召命を受けた者しか牧師になってはいけないのだ。大切なことは、自分に与えられた召命は何かということを、しっかり受け取ることである。私にはこれが出来る、この能力がある、だからこれをする、というのとは全く違う。召命は、誰一人として同じものはない。ゆえに自分に与えられた召命をしっかり受け止めること。そして、それに応えることが大切だ。また召命とは募集とは違う。イエスの側に自由な選択権があるのだ。
 すべてのキリスト者は、召命を受けてキリスト者とされたのである。神の、イエスの、語りかけ、招き、召し出しを受けて、信仰を与えられたのだ。この召命の出来事が、私たちの信仰の原点である。その人に一番良いあり方で、神は私たちに語りかけ、迫るということが起きる。その招きに従って私たちは歩み出した。このことをしっかり心にとめよう。そしてイエスの招きに応えて立ち上がろう。そしてみ足の跡に従って歩もう。そこに神の国の支配はもう始まっている。

2015年8月16日(第3主日礼拝)

『 福 音 を 信 じ な さ い 』

マルコによる福音書1章14~15節


 イエスはガリラヤに立った。そこはヨハネを捕え殺したヘロデのひざ元。この後ヘロデ対決はこれからずっと続くのだが、そのためにガリラヤに行かれたのではなかった。ご自分の故郷だからでもなかった。それは預言の成就だった。旧約の預言は「異邦人のガリラヤ」、「異邦人世界、暗黒の、死の地」と呼ぶガリラヤ、そこに大いなる光が照り輝く時をももたらした。イエス・キリストによって、死せる人の上に光は輝いた。
 最初のことば。それは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」。イエスは告げた。「時は満ちた。」そう、時は満ちたのだ。天地創造以来、気が遠くなるような歳月が流れた。ついに神のひとり子であるキリストが人間イエスとして来られた。私たち罪人を救うためにご自分のひとり子を与えるという、神の永遠の救いのご計画が発動されたのだ。神のひとり子、救い主、イエス・キリストが来られて、十字架、復活、昇天へと続く歩みが始まったのである。罪にあえぐすべての被造物を救わんとする、神さまの救いのみわざが始まったのである。
 しかしこの神の時が満ちたことを、世は知らなかった。ただ、神のひとり子であるイエスだけがご存知だった。それは今も同じ。世はこの時を知らない。神の救いの時が来たことを知っているのは、イエスによってそのことを知らされ、この神の救いにあずかった者たちだけだ。私たちこそは、この神の救いにあずかり、この時を知らされたのだ。
 「神の国は近くなった。」。神の国、それは神のご支配ということである。近くなったとは、ほとんど「来た」と言い換えてよいほどの含みをもったことば。少なくとも、戸口の前に、私たちの心の扉の前に到着しているのだ(黙示録3:20)。私たちのするべきことは、ただ扉を開けさえすればいいのである。時は満ちたからだ。「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)と聞いている時だ。
 このよきおとずれをまともに受けとる人は、すでにはじまった「新しい時」に自分のすべてを賭ける。もはやこれ以上、古き時がまだ依然として続いているかのようには行動できない。あたりがまだ暗くとも、朝の来たことを知る人は、少しも疑わずに昼のわざを始めるのだ。
 イエスと出会い、このお方が与えてくださる救いにあずかり、神の子とされた私たちは、天と地とその中のすべてを造られたただ一人の神に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことを許され、神との親しい交わりの中で祈りをささげ、このように主の日のたびごとに礼拝をささげている。もう、ここに神の国・神さまのご支配は来ているのである。すでに神の国の住人とされているのだ。
 イエスを信じたときから、私たちは新しい時を知ったものとしての生活が始った。憎しみに対しては憎しみを報い、力には力をというような古い秩序は終わった。赦しの力が憎しみを飲み干し、悲しみの暗黒を喜びの光が吹き飛ばす。神の国の原理である「愛」は、あえぎあえぎ追求する理想ではなく、今や私たちのなまの現実となっていると聖書は示す。「…神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)
 終戦70年を迎えた。戦争を知っている人も少なくなった。しかし、私たちは忘れることは出来ないし、忘れるわけにはいかない。何と愚かなことをしたのか、何という痛ましいことをしたのか、何という悲惨がこの世界を覆ったことか。私たちは決して忘れてはならない。この戦争に代表される悲惨・嘆き・困窮は、今も世界に渦巻いている。
 私たちはイエスが与えてくださった祈りを、祈ろう。「御国を来たらせ給え。」。この祈りは、ただイエスが再び来られることを待ち望むだけではなく、一人でも多くの人がイエスの救いにあずかり、すでに神の国が到来していることを知るようになるために、自分自身が用いられることを願い、そのために労苦することをいとわぬ者へと一歩を踏み出していくように私たちを押し出していく祈りでもあるのだ。
 主の祈りを祈る私たちは、「自分の好み、願う国ではなく、あなた(イエス)のみ国が来ますように」と祈りつつ、日々を生きようではないか。

2015年8月9日(第2主日礼拝)

『 荒野に追いやられるイエス 』

マルコによる福音書1章12~13節


 ここでも「すぐ」ということばに出会う。イエス・キリストにとって、水と聖霊によるバプテスマを受け、神の子と宣言されたもうたことは、それで終わりではなく、「すぐに」次の戦いが始まったということなのだ。私たちについても同じことが言える。イエス・キリストにつくバプテスマを受けた私たちも、ただちに霊的な戦いが始まる。バプテスマで戦いは止んだのではなく、むしろ、そこから私たちの戦いは始まるのである。
 神のひとり子であられるお方が、どうしてサタンから誘惑をお受けになったのか。それは、洗礼を受けられたということがイエスが罪人である私たちと同じところに降って来られた。そして誘惑を受ける罪人である私たちと同じように、サタンから誘惑を受けるものとなられたということを示しているのである。
 ここでマルコによる福音書は初めて「サタン」ということばを使う。イエスのご生涯のはじめに、すでにサタンは登場し、彼の生涯を通してさまざまな妨害と戦いを挑んでいる。あの十字架の極みにおいてさえも、サタンはまるで悪あがきをするかのように、執拗な攻撃を加えているのである。
 サタン、悪魔というのは、私たちを神のみこころに逆らわせよう、神から離れさせようとする存在。それは、誰の目から見ても明らかなあり方で私たちに近づいてくるわけではない。「ここに居る」「ほらそこに居る」というようには分からない。しかし、このリアリティーは、神というお方に対してのリアリティーと共に、シンクロして私たちに迫ってくる。こう言っても良いだろう。神を知らない時、私たちはサタンのことも意識することはなかった。それは、決してサタンと無関係に生きていたからではなく、完全にサタンの手の中に生きていたからで、サタンの誘惑を誘惑とも感じない、意識しなかった。しかし、主イエスを知り、神を知ることで、神の救いにあずかり、神のみこころに従って歩んでいこうとするようになると、そうはさせじとするさまざまな力、勢力に、自分が囲まれていることを知るのである。神に従おうとすればするほど、そうはさせないという力もまた強く働くようになる。その意味で、サタンの誘惑と無縁な信仰者の歩みというものはあり得ない。そのことをよく分かっておられたイエスは、私たちに「主の祈り」を与えてくださったのだ。
 誘惑というものは、私たちの中にある元々の罪の性格、これを原罪と言うが、これと呼応してなされるものである。私たちが神に従って生きているなら、神と共に生きることを喜びとするところに完全に生き切っているなら、サタンも誘惑しようがない。しかし、私たちの中には、ぬぐってもぬぐってもしみ出してくるような罪の思いがあるから、サタンも私たちを誘惑し続けてくるのである。
 早くも福音書のはじめにサタンが登場した。それは驚くにあたらぬこと。というのは、福音とは、いわばサタンの大軍との天下分け目の戦いが済んだことを知らせる良き報告だからである。今私たちが聞くのは私たち人間の究極の敵に対する決定的な勝利の報告なのである。それが福音だ。
 今や私たちには、キリストとともに勝利者になる道が開かれた。それが今日聞く私たちへのメッセ-ジである。イエスはここで私たちのために、私たちに代わって誘惑にあわれた。そして、その誘惑を退けられたということを心に刻もう。私たちがイエスの御名によって祈り続けている限り、私たちは守られる。私たちは弱い。しかし、イエスは強く、あらゆるサタンの誘惑を退けられたし、今も、これからも退けてくださるのだ。

2015年8月2日(第1主日礼拝)

『イエスの洗礼』
                  
マルコによる福音書1章9~11節

 罪なきお方がなぜ「罪を赦されるための悔い改めのバプテスマ」を受けられたたのだろうか。イエスは罪なきお方であったにもかかわらず、罪人の列に加わられた。なぜ?
 イエスは何か赦しを受けなければならないような罪を犯していたのだろうか。どうしても理屈に合わない不思議ことだ。しかし、この理屈に合わないところが大切なのだ。それは、この矛盾が、もっと大きな矛盾、もっと重大な矛盾と一つになっているから。
 聖書が告げる最も大きな矛盾。最も理屈に合わないこと。それは、天地を造られた神が、神に敵対し、罪の中にある私たちを愛されたということであり、そのような私たちを救うために、愛する独り子を天から降し、私たちの身代わりとして十字架に架けられたということである。この最も理屈に合わない神の愛、神の救いのみわざと、同じ矛盾がここにはあるのだ。罪無き神の子が、悔い改める必要の無い神の独り子が、罪の赦しを必要とする私たちと同じところにまで降ってきてくださった。それが、イエスがここで洗礼をお受けになった意味である。
 罪人と同じ所に立って、その一切の罪を担い、それにより一切の罪から救う者として天より降って来られた方、それが主イエスである。この方による罪の赦しこそが福音なのだ。マルコはそう告げようとしたのである。この罪人と同じところに立ってというイエスの姿勢は、その生涯にわたって貫かれている。罪人と共に食事し、罪人を癒やし、そして最後は罪人として、二人の罪人が架けられた十字架のその真ん中の十字架の上で死なれた。イエスの十字架への道は、罪人と共に洗礼をお受けになったこのところにおいて定まったと言っても良いのだ。
 イエスが洗礼を受けられると、「天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られ、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」。最初のアダムが罪を犯したことによって、炎の剣によって永遠に隔たれた天。後にイスラエルとなったヤコブは、天と地を結ぶ梯(創世記28:12)を垣間見た。その永遠に続くであろう閉鎖が根本的に解かれる日がここに来た。神と罪ある私たちの間にあった隔ての幕が破られる時が来た。イエスこの洗礼から歩み出す営みは、まさにこの幕を裂き、神の国を来たらしめるわざであることを示すものだった。そして私たちはやがてイエスが十字架にお架かりになった時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(15章38節)ことを聖書に読む。これこそが、神と人間との間にある罪による隔たりが取り除かれたことを示している。
 そして、父なる神が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とお声をかけられた。この父なる神のみ声は、どれほどイエスを励ましたことであろう。イエスが罪人と同じところに立つこと、それはやがて十字架の上の死に至るわけだが、その歩みを神が良しとされた。それがわたしの喜びだと言ってくださった。この父なる神の保証こそが、イエスの歩みを揺るぎないものとして支えることになったのではないだろうか。
 そして更に言えば、洗礼を受けてイエスと一つにされた私たちに向かって、この父なる神は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と告げられている。神が「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださったから、私たちは自らの罪と汚れと愚かさを顧みず、神に向かって「父よ」と呼ぶことが許され、出来るのである。
 私たちは依然として多くのつまづきに囲まれて生きている。しかしイエスのみ名によるバプテスマを受けたものは、このみ声をイエスと共に、自分自身に向けられたみことばとして、固くとらえていくことができる。ああなんとうれしいこと、幸いなことだろう。
 『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』