2015年7月分(四篇)

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2015年7月26日(第4主日礼拝)

『荒れ地に水がわき出し、川が流れる 』

マルコによる福音書1章2~8節


 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。』」(イザヤ40:3)。ここでイメージされている道とは、田んぼのあぜ道のような、狭い、小さな道ではない。道幅が何十メートルもある大きな道。戦勝の王が全軍を従えて凱旋する、その凱旋パレードがなされるような壮大な道。確かに、主イエス・キリストによる勝利のみわざはまだなされていない。しかし、主イエスが来られたということは、そういうことなのである。すべての人間を罪の縄目から解放し、悪魔の手から神のものへと取り戻し、死を打ち破るという決定的な救いをもたらす方として、まことの王として、主イエスはおいでになられた。そのお方の前に神の使者が遣わされると。そしてバプテスマのヨハネが現れた。
 ヨハネの使命は「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」を説いた。
 バプテスマが罪赦されるため、と記されている。バプテスマがただちに罪の赦しになるというのではない。バプテスマを受けていながら、罪の淵に沈んでいる人がいる。いや、ひとごとではない。私たち自身が今もなお罪にからみつかれているのだ。ならば、バプテスマは無意味な儀式にすぎなかったのだろうか。バプテスマの効力を疑わせる実例を嫌というほど見せつけられるであろう。しかし、私たちはそれでもなお自分の受けたバプテスマに固執しなければならない。つまづきの日に、自分がバプテスマを受けたことを思い返して、慰めを取り戻す経験は珍しいものでないし、そこに立ち戻るとき、人は真の意味で回復、再生されるのである。
 つまり、バプテスマは救いそのものではないが、これを保証し、確かにするお方がおられる。「キリストの御名(聖霊)によって」、この名によって神は真の再創造を与え下さるのである。
 「悔い改め」ということばは、ギリシャ語では「メタノイア」と言う。これを逆から読むと、「アイノタメ」、「愛のため」と。上から読んでも下から読んでも同じことばになる。「アイノタメノメタノイア」。悔い改めてどうなるのか。神の愛を知り、その愛に生かされて、隣り人を愛していこうとする者に変えられるのだ。
 聖霊によって洗礼を受けるとは、圧倒的な神の力によって新しいいのちに生きる者にされるということだ。繰り返し繰り返し悔い改める者になるということだ。自分が生かされている意味、目的、誇りを、主によって与えられ続ける者にされるということだ。自分の小ささ、愚かさ、欠けといったものからも解き放たれるということだ。眼差しが天に向けられるということなのである。
 預言者イザヤは言った。「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる」と干からびた私たちの心に水がわき出し、川が流れる」。私たちが向きを変えてイエスさまに従って歩むところに水が、いのちの泉がわき上がり、流れ出すのだ。「いのちの泉聖書教会」。ここからイエスのいのちの水がこんこんとわきあがるようになる。このことを信じて歩んで行こうではないか。
 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
 私たちの教会は「いのちの泉聖書教会」。なんとすばらしい名称だろう。ここからイエスの永遠のいのちの泉はわき上がるのだ。これをもって誇りとし、荒野のようなこの世に向かって福音を叫び続けよう。

2015年7月19日(第3主日礼拝)

『 荒 野 で 聴 く 福 音 』

マルコによる福音書1章1~3節


 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。この「はじめ」ということばは味わいの深いことばである。聖書の第1ペ-ジの第1行目には「初めに、神が天と地を創造した」と書かれていることとマルコが同じようにはじめということばからイエスのご生涯を書き起こすのは、決して偶然の一致ではない。天地の創造という大事業に匹敵する驚くべきみわざが、ここに始まろうとするのを見るのだ。無の中から神はことばによって有を創造されたが、今、神は罪と滅びの中から、同じくことばによって義と救いを確立しようとされる。
 「福音」(ユーアンゲリオン)は、Good News、喜びのおとずれの意味。そしてそれは、「イエス・キリストの」、すなわち「神の子イエス・キリスト(について)の」と説明されている。この「福音」が荒野に響き渡っている。「荒野」、そこは何もない不毛の地。私たちの人生はいつも何か頼りにするものを求めている。財力であったり、仕事であったり、健康でもある。そのようなものに依存しているとき、私たちは荒野にはいない。しかしそれらのものを失ったとき、私たちは荒野に放り出されたかのように感じる。
 その荒野に今、叫ぶ声が聞こえる。「福音」は、「喜びの知らせ」でもある。「福音」とはイエスに出会うこと。イエス・キリストの福音という言い方は、生きた、人格としてのイエスに荒野において出会うことなのだ。
 福音は「荒野」から始まった。ロ-マの宮廷でもなく、ギリシャの学校でもなく、エルサレムの神殿でさえなく、何もないところ、不毛なところ、福音を聞かせる相手の人間の不在なところ、そこでいったい何がはじまるのだろう。人口密度の高いところ、福音伝播の足場に都合の良いところで、どうして福音ははじまらなかったのだろうか。これが神の知恵にかない、神のご計画であった。
 救いは私たちの快適な生活、経済的にも豊かで何福音自由のない生活や人生の中にはない。人生の不毛の時、荒野を彷徨うような中で福音は語られ、福音は聞かれるのである。福音は、荒野にたたずむ私たちのために神から送られたものなのである。
 聖書のはじめ、創世記の第一声は「初めに、神が天と地を創造した。」。地は茫漠(ぼうばく)として何もなく、闇が大水の上にあった。そしてことばがあった。「『光があれ。』すると光があった。」と。
 万物のはじめに神のことばがあった。このことばによってすべてのものは始まった。「信仰によって,私たちは,この世界が神のことばで造られたことを悟り,したがって,見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル11:3)と。使徒パウロも「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」と神の創造のみ力を語った。(ローマ4:17)
 私たちの人生の荒野のような暗黒で、不毛で何も見えない世界はある。神の「光あれ」が響き渡るとき、もはやそこに闇はなくなる。それゆえアブラハムは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた。」(ロマ4:18)
 宗教改革者J・カルヴァンは「主の栄光の舞台」と。イエスにあって生き、どのような暗闇に閉ざされ、先の見えないような荒野にあっても、神のみわざは途絶えることなく行われる。そしてそれはまたイエスにある「新しい創造」というすばらしいみわざなのだ。
 誰にでも荒野はある。乾ききった大地、終わりの見えない荒涼とした世界、道さえも失われたと思える世界。そこに神のことばは響き渡る。あなたが「光あれ」との力強いことばを聞くことができるならば、あなたの世界も人生も開けてくることを知ろう。

2015年7月12日(第2主日礼拝)

『 見 よ。そ の 日 が 来 る 』

マラキ書4章1~6節(最終回)


 マラキは400年間にわたる「暗黒時代」を予見するかのように、絶望の中に突き落とされるであろう同胞への深いあわれみの心をもって語り続けた。それは神の厳しいさばきの日の訪れについてだった。人々はこの世のさまざまな不条理と不毛の現実の中で、神が自分たちを見捨ててしまわれたのだと言い、「神のもとに帰れ」とのメッセージにも耳を傾けることはなかった。彼らは神と真正面に向き合い、悔い改めることはしなかったのだ。マラキは神の愛は変わることがないとの信仰に立って、これから来るであろう暗黒の時代の先に、一筋の光明を見、新しい時代の幕開けについて語った。「その日」の来ることを告げる。
 高ぶる者、神を認めず、神のもとに立ち帰ることをしなかったものには、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来すると。一方、2節「しかし」これは大いなる、しかしである。主の名を恐れ、悔い改め、主に仕える者に対しては、「義の太陽が上り、いやしがある」と。牛舎から太陽の光へと解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となるのである。それはまた、逆転勝利の日ともなると。
 絶望の中にある人々に希望を語ること。現実の何も見えないような苦難、困難の中に置かれている人に、出口はある、この先には光が、輝かしい未来がある、と語ることはどんなに難しいことだろうか。なぜならそれを口にし、語ろうともその根拠がないかぎり、空しく響くだけである。しかし「わたしは変わることがない」「わたしはあなたを変わることのない愛をもって愛する」と語る、神がおられる。神の救いはいつ来るのだろうかと待つ人々に、「ここに救いがある。希望がある」と伝えることは、私たちに与えられた使命である。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ35:4)
 旧約聖書の終わりは「呪い」と「祝福」で締めくくられる。
「彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」とマラキは預言したが、ヨハネは「斧もすでに木の根元に置かれている。」と語った。(マタイ3:10)
 「呪い」それは律法の限界だった。神を認めず、不信仰になり続けるならば、そこには呪いしかない。しかしそれは神の本意ではない。神はむしろ地を祝福しようとされている。その新しい時がやがて来ようとしているのだ。その日その時を待ち望めと、マラキは結ぶ。そしてバプテスマのヨハネ、そして主イエスの誕生によって新しい時代は幕を開けた。イエスはそのご生涯のはじめにイザヤ書を手にとられその一節をお読みになられ、「主の恵みの年を告げ知らせるために(ルカ4:19)」と宣言された。イエスは呪いをもたらすためにではなく、祝福を与えるために私たちのもとにおいでになられた。そして今私たちはイエスのお誕生とご再臨の間の「恵みの日々」に生かされている。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)神はすべての人が悔い改めて立ち帰ることを願っておらる。
 聖書は一貫して神の祝福について語るのだ。新約聖書は、「主イエスよ、来てください」と私たちの祈りのことばで終わり、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示録22:21)」という祝福のことばで結ばれているのである。十字架によってすべての呪いがその上に置かれた。暗闇の中にいる人々に光が与えられた。私たちは無感動という敵と闘って、心から感謝と喜びにあふれた礼拝をささげ、この世に向かって祝福を語り祈り続ける群れ(教会)となろうではないか。

2015年7月5日(第1主日礼拝)

『主の前で、記憶の書がしるされた』
                  
マラキ書 3章 1~18節

 神の前に敬虔に歩もうとする者の生活の苦しみは、依然変わりがないのに、神に聞き従わない悪を行う不敬虔な者たちが、栄えていた現実の中で人々は神に向かってつぶやく。悪人が栄え、神に従う者たちが苦しむ現実を見て、それでも神を信じることにどんな意味があるのか、義である神は一体どこにいるのか、と。
 けれども神は「主であるわたしは変わることがない」と言い、12節では「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と約束され、17節では「彼らは、わたしのものとなる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」と言われる。民がどんなにつぶやき、神を疑い、背を向けようとも、変わることのない愛を示し続けておられることが、この3章全体にわたって表されている。
 「悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と、皮肉をもって主に問いかける民たちは、決して真正面に神と向き合ってはいない。斜めに構えて、神を見る。そこに彼らの不信仰があった。そのような態度で「主を煩わせている」現実があったのに、「どのように煩わせたのか」と開き直る、民の驚くべき不信仰を見て、預言者マラキは途方にくれた。(2:17)
 この3章においてマラキは、民は、自分の汚れを棚に上げて、神の不在、神さまの正義のなさをあげつらうが、今、求めなければならないのは、神がなにかをしてくれることではなく、むしろまず自分の不信仰に気づき、きよめてもらうことであった。
 神の心変わりを問題にする私たちは、主の愛によって救われ、選ばれた民でありながら、その神の愛に応えて生きていない、むしろ神に背を向け、神から離れる歩みをし続けていた事実をまず問題にしなければならない。それゆえ主は、「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」と言われる。神の恵みは、信仰において受け取るのだ。その信仰とは、具体的に人格ある神を礼拝することである。
 「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
 「わたしをためしてみよ」ということばは、そのような神の招きがあるときにのみ、有効である。神が「ためしてみよ」と招いておられる。
 私たちも干ばつではなく、信仰の干ばつに出会う。健康のこと、仕事のこと、さまざまな苦しみに会う。そのようなときに、あのイスラエルの民のように「正義の神さまはどこにいるのか」とつぶやくことのないようにしよう。「わたしをためしてみよ」と主は私たちの大胆な信仰を求めておられるのである。
 「わたしの宝」(17節)。神は私たちを「宝物」のように取り扱ってくださる。「あわれむ」ということばも、元来「惜しむ」の意味のことば。主は、「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たち」がつぶやくがあっても、「宝物」とし「惜しむ」ほどに、特別な愛情をもって、大切に扱われる、というのである。
 いのちの書に、私たちの名前が知るされている。なんとすばらしいことだろう。しかもそれは決して取り消されることのないいのちの書なのだ。
 いのちの書にわたしの、そしてあなたの名前が記されていることに、心から感謝し、喜ぼうではないか。そしてこれをもって心から満足しよう。