2015年6月分(四篇)

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2015年6月28日(第4主日礼拝)

『あなたがたの霊に注意せよ』

マラキ書 2章 1~17節


 前半は、当時の霊的なリ-ダ-であるべき祭司たちに向かって、その腐敗・堕落について警告し、譴責する。「神さまの名をさげすむ」祭司たち。2章には「わたし(神)の名」ということばが6回繰り返されている。「神の名」とは、「神のご人格、ご性質、誉れ、神についての教理」を総括することば。その名がさげすまれている、汚されているという。それは「神の栄光を表わさない」ということである。それは神を愛さないということである。祭司への審きは大きい、祝福が呪いに変えられる。「顔に糞をまき散らす」、何という屈辱的なことだろう。その呪いは彼らの子孫に帰ってくるのである。
 祭司の正しい努めとは、神と私たち人間との仲介者としての働き。その働きは第1に人々を神に近づけること。第2に神を人々に近づけることである。プロテスタント教会の旗印は「万人祭司論」。その意味するところは、すべての信徒は祭司でもあるということ。神の御前に祈り執りなす努めは、一部の特権階級、司祭とか教会の特別に選ばれた人々に与えられているのではない。すべての信徒が祈ることにおいて、また神の御前に進み出ることにおいて、平等であり、与えられた恵み、神からの特権である。 ゆえに祭司のみでなく、私たちすべてのクリスチャンに向けられて語られ、あるべき姿として受け止めていかなければならないことばである。神を恐れ、真理の教えが常に口にあり、大胆に神と共に歩み、人々を救いに導き、神を愛するように教え導くつとめが私たちに与えられている。
 後半は神をないがしろにする人間の姿が、第1に霊的家族である同胞、隣人に対する不誠実が生まれ。第2に個々の家庭と夫婦生活に対する不誠実が生まれたことに表れたと語る。
 私たちの間における兄弟愛のきずなが無視され、汚され、破壊されていき、互いに裏切り合いが生まれていくのは、すべて神に対する裏切りから、不誠実、不真実から生まれた。『神に対して不誠実な人は、人に対しても不誠実である』。マラキは「唯一の父である神」、「唯一の創造者なる神」の子として選ばれ契約を結ばれたイスラエルのあり方を、先ず強調する。
 「泣きながら、叫びながら、涙をもって」、ささげものを持参し、神殿を訪れる。しかし、神は真の悔い改めを表さない兄弟を裏切る者のささげものに見向きもせず、これを受け入れない、とマラキは言う。裏切る者は、「畏れ」を持たない。
 神に対する背信は、第2の結婚の契約における破綻をきたした。離縁された妻の「涙と、悲鳴と、嘆きで」主の祭壇は覆われていると。平気で妻を離別した者たちが平然とささげものをし、またそれが受け入れられないことを聞くと、「なぜなのか」と反問するほどに無感覚になっている。
 神とイスラエルの関係において、離婚状態の生活をしていながら、夫婦の「交わり」に、つまり「礼拝」を守る意味は、もはや存在しえない。それは偽善以上に、へどの出る「裏切り」以外の何ものでもない。今を生きる私たちにも、悔い改めを求めて、強く迫ってくる。
 『すべての人は結婚を重んずべきである』(ヘブル13:4)。これは私たちと神との関係を語るもの。「あなたがたの霊に注意し」なければならないのである。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく』(箴言4:23)。神との正しい関係の修復を祈ろう。

2015年6月21日(第3主日礼拝)

『さあ、今、恵みを受けるために』

マ ラ キ 書 1章 1~14節


 マラキとは「私の使者」という意味である。旧約聖書における最後の預言者である。彼のあと400年間にわたって預言者も起こらず、神のみことばも語れることのない、いわゆる「暗黒時代」が続く。その意味でもユダヤ人にとっては、マラキ書は預言書の封印、終結と呼ばれている。しかし、私たちには、やがて主イエスの誕生によって、文字どおり新しい時代の幕開けがあることを聞かされているのである。主を畏れ、主の御名を慕い求める者には、神からの光が輝いていることを認めることができるであろう。
 マラキのメッセ-ジは大きく3つ、第1に神の愛について、第2に祭司と民の罪について、そして第3にメシヤの来臨についての預言である。マラキ書のすばらしさは、メシアすなわちキリストの訪れを見、先駆者について預言したことである。その意味でも旧約聖書の一番最後を飾るにふさわしいと言うことができよう。
 1章は2つに分けることができる。5節まででは「神の愛」が、後半では、「わたしたちの真実な礼拝」がテ-マである。
 マラキによって最初に語られた宣告は「神の愛」について。アブラハムに与えられた契約以来、旧約聖書を通して貫かれているのは「神の愛」である。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)とある。契約の愛(ヘセドの愛)は私たちが不真実、不忠実な者であるにもかかわらず一方的に示される神の愛の特徴である。しかし、人々は言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(2)。これはまさしく神の愛を否定したことばであり、神に対する侮辱的な応答である。人々は目の前の状況だけを見て神の愛を疑った。彼らは神を思うよりも、この世のこと、肉的な欲求が満たされることだけを求めていたのだ。彼らにとって信仰は自分の都合と欲望を満足させてくれるものにすぎなかったのである。
 しかし、神はこのような不信仰な私たちを見捨てることはなさらず、かえって真実を傾け尽くしてくださった。神は3つの愛を語った。①「選びの愛」。ヤコブは兄エサウよりも優れていたのではない。エサウが退けられ、ヤコブが長子の特権を手にしたのは、ヤコブが正しかったからでも決してない。ここに神の自由な選びの姿がある。②「正しい愛」。神の選びの愛は悪しきイスラエルさえも支えてくださったのである。もしこの支え続けてくださる神の愛がなければどうなっていたであろうか。③「普遍的な愛」。「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方」。「今や、彼の威力が地の果てにまで及ぶ」(ミカ5:6)と。主の偉大さというのはメシヤの普遍的な愛と支配を意味している。つまり神のご支配と愛は、イスラエルに限定されたものではなく、私たちに対して限定され、効力をもつものでもなく、全世界のすべての国民、万民に対しても偉大なものであることを教えている。イスラエルは選びの愛を疑ったが、神は歴史を通して愛を証明し続けておられる。そして神は歴史のある一点において、ひとりの人物を通して疑う余地のない神の愛を表わされたのである。このお方とはまぎれもない、私たちの主イエスのことである。
 ゆえに神の愛を知った者は、この愛に応えて誠実に生きなければならない。あまりにも貧しく、不真実な姿を私たちにつきつけられているものとして謙虚に受け止めていかなければならないのである。

2015年6月14日(特別歓迎礼拝)

『ここに神さまの愛があります』

Ⅰヨハネ 4章7~10節


 人が一番求めているもの、それは「愛」である。人格を持った私たちは、ひとりでいることはできない。もうひとつの人格を必要としているのだ。人は共に生きるように造られている。互いに愛し合い、助け合い、支え合って生きるところに、真に充実した人生が展開するのである。「共に生きる」とは、単に「一緒に生きる」こととは違う。「互いに生かしつつ生きる」ことである。このような生き方こそ、本当の生きがいを感じる。
 三重苦の聖女といわれたヘレンケラ-は、その伝記の中で「私にとって最大の苦痛。それは分からないということではありませんでした。分からせることができない、ということでした」 愛を伝える。これが私たちにはむずかしい。
 フランスの文豪、ビクトル・ユ-ゴ- 「人生における最高の幸福は自分が愛されていると自覚するところからはじまる」
 アメリカの精神医学者、グラッサ-のことば。「人間は人格的存在として、二つの本質的な欲求を持っている。愛し愛されることである。そして、自分が自分にとっても、他の人にとってもかけがいのないものであると感じることである」
 人は形だけの関係ではなく、もっと、内容のある関わり、人格が真に求めているものを与えることができるようになりたいと考えている。
 私たち人間の持っている「愛」について、平凡社の世界大百科事典、「ある人にとって、価値ありとされた対象によって、彼が引きつけられるときに起こる、精神的課程を愛と呼ぶ」。愛とは価値を追求するものであると。
 パスカル「彼は10年前に愛していたあの女性をもう愛していない。それはそうだろうと思う。彼女はもはや同じではないのだ。彼だって同じではない。あの時、彼は若かったし、彼女だって若かった。彼女はすっかり変わってしまった。あの時のままの彼女だったら、彼もまた愛したかもしれない」。これを聖書では「エロ-スの愛」と呼ぶ。その本質は美しいもの、価値あるものを追い求めるところにあり、結局は自分を喜ばそうとしているだけにすぎない。価値の変化によって、愛も変化する。つまり、対象の価値が減少すれば、愛もまた減少する。ここに私たちの悲劇がある。
 プラトンがその「饗宴」の中で、「エロ-スは花の咲いていないものや、花の盛りをすぎてしまったものには、肉体であれ、他のいかなるものであれ、その中に腰をおろすことはできない。エロ-スは美への恋であって、醜さへの恋ではない」と言っている。私たちの愛は自己中心的である。愛という美しい名のもとに、どんなに人と人とが傷つけ合うのだろう。
 男女の愛、夫婦の愛、すばらしい。しかし私たちはそこにも限界があることを忘れてはならない。愛が憎しみに変わることを私たちはよく知っている。
 人のために死ねるか。誰もできない。しかし、ここにたったひとり、それをしたお方がおられる。イエス・キリストであり、十字架の上に現わされた神の愛である。主イエスは十字架の上でさえ、自分をののしり、あざける者たちのために、自分を十字架につけた人々のために、神に赦しを祈った。ここに真実の愛、私たちが求めてやまない愛がある。
 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ1:18

2015年6月7日(第1主日礼拝)

ゼカリヤ書(15:最終回)14章1~21節

『その日、主への聖なるものと刻まれる』

 救い主イエスがこの世に来られ、十字架の上で、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことによって、全人間にひとつの希望が与えられた。それは「光がある」という希望である。「義の太陽」朝日の輝きのように現れ出た時に、そこには暗黒は存在しえない。これは福音である。さまざまな試練の中にあり、いくら待ち望んでも良い結果が見えない、希望がむなしく消え去っていくように感じる時に、万事が最悪の事態に思われるような時に、また体力の衰えと忍び寄る死を意識し始めた老年を迎えた時、人生の夕暮れを実感するような時に、神は光をやみの中に輝かせてくださるのである。
 主の日がやって来る時、エルサレムが祝福されるとともに、地上のすべての人々が祝福を受けるという約束が書かれている。
 ①「その日には、エルサレムから湧き水(原意は生ける水)が流れ出て」世界に及ぶ(8)。「湧き水」とは神の御霊の流れ。エゼキエル47章にあるように、福音宣教がなされるときに、どこへでも聖霊の川は流れていくのである。
 ②「主は地のすべての王となられる」普遍的な神さまの国が建設される(9,10)。多くの国民がイエスさまのみもとに来るようになるのだ。使徒パウロは新しきイスラエル、教会を思い描いた。
 ③「エルサレムは安らかに(原意は安全)住む」(11)。ここにうるわしい一致と祝福を見る教会の姿がある。
 ④神の民の究極的な勝利が約束され、強調されている(12~15)。
 暗黒の中にありながら、イスラエルが持ち続けた「主の日が来る」は、主イエスにおいて実現、成就する。イエスのご支配がこの地上において、打ち立てられる日、愛の王国を私たちの心に打ち立ててくださった。そのときに、私たちを隔てている垣根は見事に取り除かれたのだ。終わりの日に、再びイエスが私たちのもとにおいでくださる日、世の力がいかに巨大であろうとも、悪の支配がいかに根強いものであろうとも、すべてが白日のもとに引き出されて、イエスさまのご支配のもとに引き出されて、羊とヤギとが分けられるように分かたれるのである。私たちはこの日が必ず来ることを信じて、希望をもって生きていこうではないか。
 ⑤敵対者の回心(16)。なんという神のあわれみの深いお取り扱いではないか。イエスに敵対した者たちが、今は友となり、エルサレムにあって、唯一真の神を礼拝する者と変えられるのである。多くの異邦人が主イエスの救いにあずかって、真の神を礼拝するようになるのだ。
 ⑥「主への聖なるもの」(20,21)。大祭司は「主への聖なるもの」と刻まれた純金の板をその額に着けて神のみ前に出た(出エジプト記28)。イエスの十字架の贖いのご目的は、すべて信じる者を救い、「主への聖なるもの」となすことであった。「主への聖なるもの」とは「イエスのために、神の所有となるべく、分かたれたもの」という意味である。①十字架の贖いによって一切の罪と汚れから聖別、②神に仕えるために、献身(意志の聖別、明け渡し)、③内住の主により御霊の実を結ぶこと。
 傲慢と虚飾の現れの馬も、イエスが乗ってくださるときに、軍馬も平和の用に供せられ、その鈴はたえなる澄んだ福音の音色を周囲に響かせるのだ。
 「主への聖なるもの」とは、私たちの全生活を通してあかしされなければならないことなのである。
 ゼカリヤの預言は輝く希望に彩られて終わる。彼の生きた時代は決し
て明るいものではなかった。その後の歴史も、キリスト教会の歴史も暗黒時代があった。しかし、信仰をもってイエスを仰ぐ私たちにとっては、最後は常に光に満たされるのである。ゼカリヤ、希望の預言者はこのことを強く私たちに教えてくれている。(おわり)