2015年5月分(五篇)

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2015年5月31日(第5主日礼拝)

『いのちの泉聖書教会に導かれて』


 人工透析生活により長年住み慣れた東京を離れ、東金の地に移り住み、母教会である墨田教会での働きにも世代交代をと若き伝道者をお迎えし、自然豊かな里山に静かな日々、家庭菜園などと慣れないが初めての、まったく世俗と一線を課した生活を夫婦二人で楽しむ日々は、今までに味わったことのない心落ち着く生活でした。生活のために飲み水、調理用の水を確保するため街まで15分の車での移動も、新鮮な朝採り野菜を手に入れることも、楽しみの一つともなりました。何も便利さはないが、春は早朝よりウグイスや野鳥のコーラスに、夏はカエルの大合唱もやかましいというよりも、心地よささえ感じ、ウッドデッキにて朝のコーヒと祈りの日々は、充実した生活を享受するものでした。人と触れあい接する牧師としての生活では考えも及ばないような静かで平安な心と、知らずに積もり積もった心身の疲れを癒される日々でもありました。
 不思議な導きによってこの地を「終の棲家」として、神さまから与えられた家は決して大きくはないが、私たちに夫婦にはもったいないような、夢のような生活にも思えました。
 しかしそんな生活にも、十分何不自由ないにもかかわらず、何かが足りないと次第に感じるようになったのです。
 若き日より伝道者として召命をいただき、ただひたすらこの道を歩んできた私たちには、この地での生活は楽園のように思えるものでしたが、「ここは本当に自分たちの居る場所なのだろうか? 自分たちにはまだまだ何かすべきことがあるのだろうか?」と考えるようになり、「神さま、私たちはこのままで良いのでしょうか?」と祈りました。そのようにして夫婦で祈り話し合う中で、献身者として人生を歩んできた40数年、この地は「終の棲家」ではないのではと考えるようになり、「神さま、私たちの進むべき道をお教えください」と祈るようになりました。
 「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)により、自分のすべきことは何かを思い知らされました。今自分は人工透析という大きな闘いの中にありますが、自分の死に場所はここではない。私は伝道者として生涯イエスさまと教会に仕え、みことばを語り福音を宣べ伝えていくことこそ、生きる道であること。何よりもみことばを語り続けていきたいという思いが、心の内からふつふつとわき上がるのを押しとどめることはできなくなっていたのです。生涯伝道者としての道を貫くことが私たちの生きる道であることを確認したのでした。
 さまざまな制限の多い闘病生活ではあっても、「自分たちのできることを教え導いてください」と祈る中で、いのちの泉聖書教会を紹介されました。私たちはすぐにこれはイエスさまの答えであると信じ、受け止めることができました。神さまは立ち上がる勇気をも与えてくださいました。
 いのちの泉聖書教会、決して大きくはないがここにイエスさまの民がいます。イエスさまに与えられた使命と召命に忠実に応えて生きて、皆さんと心を合わせ、ひとつ思いと祈りをもって、イエスさまのみ身体なる教会を建てあげていきましょう。お一人おひとりに寄り添い、愛に満ちあふれた心豊かな教会、ここに「いのちの泉」湧きあふれる教会ありと、みことばに立って、福音宣教に情熱を注ぐ教会をと。この「就任式」にあって思いを新たに出発したいと思います。イエスさまの導きに心から感謝します。

2015年5月24日(ペンテコステ記念礼拝)

ゼカリヤ書(14)13章1~9節

『その日…一つの泉が開かれた』


 その日「罪と汚れをきよめる一つの泉」が開かれるとある。このみことばこそが13章のすべてを言い表していると言える。ただ原文では「きよめる」ということばはない。正確には「罪と汚れのための一つの泉」である。この「開かれた泉」とは預言のことばとして受け止めよう。主イエスがご自身の十字架の血によって罪を取り除くお方であることを預言しているのである。Ⅰヨハネ1章7節に「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:9)
 したがって1節の「この日」とは終末的な預言である。12章では新しい終末の時代は福音が語られる時代で、恵みの霊が豊かに注がれることによって、人々は自らの罪に気付かされ、罪と汚れに大いなる嘆きが与えられると言われている。しかし、その嘆きとは決して絶望的な嘆きではなく、罪を自覚して十字架を仰ぐとき、驚くべき罪の赦しと慰めが与えられ、嘆きは喜びに変わるのである。
 13章では私たちの罪と、十字架によって与えられる2つの恵みについて語られている。①「義認としてのきよめ」。「罪と汚れ」という2つの表現をもって、私たち人間が2重の意味で汚れていることを表している。神の正しい道からはずれて歩む私たちは「汚れ」たものとなった。②「聖化としてのきよめ」。神は私たちの罪を赦してくださっただけでなく、私たちを罪の力からも解放してくださるのだ。私たちは開かれた泉である主イエス・キリストの血によって洗われ、義とされただけでなく、聖別されたものとなった。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ロ-マ8:1~2)。
 ゼカリヤはこの章で、神がもっとも厳しく取り上げて糾弾しておられるものが3つ、①偶像、②偽預言者、③汚れた霊。これらのものは人々を著しく堕落させるものである。罪と汚れは厳しく糾弾され、私たちの内から取り除かれなければならないものなのである。私たちにとって「きよめの信仰」は祝福に満ちた信仰生活のために必要である。
 だから、私たちは「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのである」と信じ、断固として一切を主イエス・キリストに明け渡さなければならない。
 後半の7節からは、「開かれた泉」としての主イエスの苦難が預言されている。神の審きの剣は神が約束されたメシヤを攻めるものとなった。自らを救おうとされた民によって退けられ、弟子たちからも見捨てられ、良い牧者であるイエスはただおひとり剣に向かわれた。これは、大祭司カヤパの剣でもなく、ローマ総督ピラトの剣でもなく、イスラエルの罪と全世界の罪に対する神の正しい審判の剣であった。本来ならば私たちが受けるべき刑罰を、ご自身の身に受けて下さるために、自ら進んで十字架に向かって歩まれた。
 私たちは、果たして自分の『罪、汚れ』に対してどれほど真剣になってきよめられることを求めているだろうか。それは神のみ前に真剣に生きていないということだ。罪と汚れをきよめる、それは命の代価を支払うことなしにはあり得ない。神の良き牧者が、刺し貫かれることによって、そのいのちを差し出すことによってなされる、その日が必ず来る、とゼカリヤは預言した。そして今その預言が成就したのである。今私たちはその預言の成就の恵みの時に生かされているのだ。ああ、なんと感謝なことだろう。

2015年5月17日(第3主日礼拝)

ゼカリヤ書(13)11章1~14節

『恵みと哀願の霊を注ぐとの約束』


 神は困難に直面し、落胆しているイスラエルの民に、すばらしい祝福の約束を与えてくださった。この12章の表題は「宣告」、もともとの意味は「重荷」であり、「イスラエルについての主のことばの重荷」ということ。ゼカリヤはイスラエルの民に対する神からの重荷をもって、バビロン捕囚から帰還はしたものの様々な困難のために挫折しかかっているの民に希望と激励のメッセ-ジを語られたのだ。
 ゼカリヤはイスラエルの民が良き牧者を拒むという光景を予見した。そしてそれに続く不吉な運命についても預言した。しかし「重荷」ということは、見捨ててしまうということではない。見切りをつけて、きれいサッパリと忘れてしまうことができるようなものならば、重荷とは言わない。捨てることができないからこそ重荷なのだ。
 民に対する神の祝福の約束が語られている。回復の希望を与えられながらも、種々の困難と周囲の働きによって失望の中にあるエルサレムの民を神さまは祝福されるのだ。いくたびも背きに背いた末に、滅ぼされたようなイスラエルについて、なおもゼカリヤが希望を失わなかったのは、この神の真実さを知っているからであった。「主であるわたしは変わることがない」(3:6)そればかりでなく、ゼカリヤはもっと積極的に神の祝福について語ろうとしている。①エルサレムはそれを取り囲むすべての者に対して「よろめかす杯」となる。「よろめかす」とは、神の怒りとさばきを表わし、ぶどう酒を飲むようにたやすく敵はエルサレムの血を流そうとしるかもしれないが、実はそれは彼らにとって毒杯となるというのだ。私たちクリスチャンはこの世にあって周囲からの戦いと迫害の中にあっても、必ず神によって守られ、自分を攻め囲むすべてのものに対して、「よろめかす杯」となるのである。②エルサレムはこれを奪い去ろうとするすべてのものに対しては「重い石」となる。クリスチャンは、世界を罪悪によって堕落させようとするサタンの働きにとって、大きな障害となっている。バビロンの王ネブカデネザルは、一つの巨大な像が人手によらずに切り出された一つの石によって打ち砕かれたという不思議な夢を見て恐れた(ダニエル2章)。イエスは、罪によって人間の心の中に建てられた王国を砕かれる「礎の石」である(イザヤ28:16,Ⅰペテロ2:6,7)。「この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます」(マタイ21:44)。
 神は、傲慢と不信仰によってご自身に逆らう者をイエスによって砕かれる。「堅く据えられた礎の、尊いかしら石」と呼ばれたお方は、人生において、一度徹底的に神によって砕かれた経験のある者を、誰も動かすことのできない「重い石」としてくださるのである。③イスラエルの指導者たちはその周囲の敵に対して「たきぎの中にある火鉢」「麦束の中にある燃えているたいまつ」のようにされる。信仰の火を消そうとして襲いかかってくる様々な困難や苦難、あるいは迫害する者の中にあっても、神はクリスチャンをなお信仰と愛によって燃え上がらせようとされる。「背教者」として知られるロ-マ皇帝ユリアヌスは、キリスト教徒を心の奥底から憎んで迫害した。しかし、ペルシャとの戦役でいのちを失い、短い在位を失ったのであるが、彼が最後に語ったことばは「おお、汝ガリラヤ人(キリスト)よ。汝は我を征服せり」であった。主イエスの十字架の死によって、私たちはサタンに対して完全な勝利を与えられているのである。
 人は十字架を仰ぎ見るときに、自らの罪を示され、心は深い嘆きで打ちひしがれる。心の底から自分の罪を嘆くとき、聖霊の恵みを体験する。たしかに、この12章はペンテコステの恵みをあかししている。恵みと哀願の霊はあの日、たしかに教会の上に注がれた。今私たちが求むべきは主の恵みと哀顧の聖霊の注ぎなのだ。

2015年5月10日(第2主日礼拝)

ゼカリヤ書(12)11章1~17節

『慈愛と結合の杖を持つ真の大牧者』


 11章に入ったとたんに、預言の調子はにわかに暗くなる。10章ではメシヤ到来という輝かしい祝福が述べられているのに比べて、11章にはメシヤが捨てられるという暗い悲劇的な結末が述べられているのだ。緑の国土が次々と廃土と化し、悲哀と号泣が国に満ちている様子が、預言者ゼカリヤの心を重苦しく圧した。牧者なき羊の悲しみーーそれは善き牧者を拒んだことによって自ら招いたことであったが、イエスの十字架の40年後にローマ軍がなだれをうって北方からレバノン、バンヤン、ヨルダンと侵攻したときに、この預言は現実のものとった。しかし、この不吉な兆候はゼカリヤ自身の時代にひとつの模型をもってすでにその姿を現わしていたのであった。
 大祭司ヨシュアと王ゼルバベルは、その使命を終えてこの地上の生涯を閉じて、去って行った。彼等は指導者としてはまことにか弱い存在であったが、たしかに神の立てたもうた器であった。しかるにその後継者たちは全然違っていた。彼等は牧者の心を持っていなかった。ただ自己の名誉欲と野心を満たすために、その地位をふさいでいるにすぎない「愚かな牧者」であった。それを見抜いていたゼカリヤには主のみ旨の痛みが切実に感じられたのである。
 民の性質を知っているゼカリヤは、困難は承知のうえで、ただ主の羊に対するやみがたい愛ゆえに、その召命に応じた。本来不従順な民を主の牧場に導くために用いられた2本の杖は「慈愛」と「結合」と呼ばれた。「慈愛」とは民に対する測りがたいほどのいつくしみによって、大牧者が与え給うた恵みの契約であり、「結合」とは、イスラエルの民同志の愛の一致結合を意味した。民が迷える羊とならないように、牧者の心づかいに満たされつつゼカリヤはこの2本の杖を用いたのである。
 しかるにゼカリヤの牧羊はイスラエルの民の間で成功したであろうか。否、その労苦に対して報いられたものは、冷笑と拒絶と侮りであった。もはやゼカリヤの牧者としての任務は終わりを告げる。あまりの不従順のゆえに、牧者の愛顧は取り去られ、わがままな羊は放任されるところとなった。羊に対する主の豊かなご配慮に気付いて、再び悔い改めることを願ってゼカリヤは報酬を求めた。ところが人々の反応は、ゼカリヤの労苦に対する全くの無視よりも更に悪意に満ちたものであった。銀30枚!。それは奴隷の売値。これこそが長年涙し、祈り続けた牧者への支払われた報いであった。それは誰に向けられた評価であったろう。銀30枚を宮のさいせん箱に投げ込んで、その場を立ち去ったのである。そしてついに残された第2の杖も折られた。くすしくも、それから500年後に同じ町で起こった最大の悲劇の予表となったのである。
 真の大牧者の尊い働きに対して最も侮りの評価を示す取り引きがなされた。銀30枚、たった銀30枚!。それが3年半もの間イスラエルの町々村々を巡り、すばらしいわざを行い、神のみことばを伝え続けられた労苦に対する、罪人たちの評価であった。まさしくイエスの命の代価でもあった。牧者の杖は再び折られたのである。
 しかし神は見捨てることはなさらなかった。復活の朝、それは失われた「慈愛と結合の杖」の取り戻しでもあった。新しい契約のもと、主の教会は生まれ立ち上がったのである。その血潮によってご自身のものとなった羊たちと永遠の契約を結ばれたのである(ヘブル13:20)。
 ああなんと感謝なことか! 折られ捨てられた大牧者の杖が、今再びその手に。主イエスは私たちのために慈愛と結合の杖を持って呼び集め、導かれる。私たちの群れは主の民、慈愛と結合の杖によって生かされるのだ。私たちもまたこの杖を手にして歩もう。小さな牧者として、いのちの泉に歩む教会として。「私を愛するか。さらば私の羊を飼え」(ヨハネ21:26)。これはイエスの招きであるから。

2015年5月3日(第1主日礼拝)

ゼカリヤ書(11)10章1~12節

『 主 に 雨 を 求 め よ 』


  9章では、穀物とぶどう酒が豊かに与えられることが約束されているが、雨が降らなければならない時に、もし雨が降らなければ、地はその実を生じることはできない。農業を営む人々にとって、雨はいのちである。どんなに汗を流して働いても、雨が降らなければ無収穫に終わるからだ。まったく自然まかせであるところに農業の不安がある。だから「主に後の雨を求めよ」と勧められている。「後の雨」とは、今でいう春の3~4月頃に降る雨、穀物に穂をもたらす大切な雨で、もしこの時期に雨が降らないと、穀物は枯れてしまう。収穫のためには、もっとも必要とされている雨である。私たちも時宜にかなった時に、必要な雨を求める。では今日求めなければならない「雨」とは何か。大いなる収穫のために、私たちは聖霊の大雨を求めなければならないのである。求めるならば必ず「主はいなびかりを造り、大雨を人々に与えられる」と約束しておられる。「雨を主に求めよ」。
 メシヤによってもたらされる祝福について、新しいイスラエルの誕生についての祝福の預言が語られる。
 ①神のご臨在による勝利。(5節)②イエスはあわれみによって救ってくださる(6節)。神のあわれみのゆえに、贖いによって(8節)「彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる」。③困難な働きを成し遂げる力が与えられる(7節)。④散らされることの祝福(6,8,10節)。「彼らはその地で、きらめく王冠の宝石になる」(9:16)。「アッシリヤの誇り」「エジプトの杖」(11節)に象徴される地獄の総力も、信じる私たちに救いを得させる神のダイナマイトの力に逆らうことはできない(ロ-マ1:16)。⑤私たち自身が蒔かれた種になる(8,9)。それは多くの実を結ぶためである。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24) 
 蒔くということは、暗黒を通らなければならない。数か月、種が土の中にあって、光を見ない時があるように、ときとして神は私たちから、神の恵みのすべての意識的経験、神のために働くすべての力、神ご自身の美しさというものを取り去られることがあるだろう。しかしそれはイエスの墓の中に、より深く下りて行くことにほかならない。「一粒の麦」として地に落ちて死ぬのである。そこから神のお取り扱いが始り、実が結ばれるのである。神は土の中に葬られた種を決してお忘れにならないのです。そして新しい復活の力によみがえらされ、さらに豊かな実を結ぶようになるのだ。
 バビロン捕囚の70年の終わりには、神の民は多くの国々に文字どおり散らされた。後にロ-マ帝国が君臨する領土内どこに行ってもそこにはユダヤ人がいた(使徒2:9~11)。同様に、農夫である父なる神はペンテコステ以来、地の果てにまでキリスト者たちを蒔かれて今日に至っている。ロ-マのコロセウム(円形競技場)の砂の一粒一粒が殉教者たちの血であるとロ-マ教皇は語ったが、福音が全世界に宣べ伝えられるまでに、ロ-マ皇帝ネロをはじめとする多くの迫害者たちの下に、何と多くの血が流されたことだろう。しかし殉教者たちの血は教会の種となったのである。私たちも福音の種である。今日の暗い世界においても実を結ぶことができるように、聖霊の「雨」を祈り求めようではないか。