2015年4月分(四篇)

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2015年4月26日(第4主日礼拝)

ゼカリヤ書(10)9章1~17節

『望みを持つ捕われ人よ』


 9章以降においては、預言者ゼカリヤの視線はその時代を越えて未来の地平線上に注がれる。その視界の中に次々と展開してきたのは、彼の死後百数十年から始る一大歴史ドラマであった。パトモス島でヨハネが世の終わりの情景を見たごとくに、ゼカリヤのためにも主は時代のとばりをあげてはるか未来を見せてくださったのである。9章以降がゼカリヤ書の第2部になる。
 1節に『宣告』ということば。もともとの意味は『重荷』。ここにあげられる国々のために受けた神の審判の重荷のメッセ-ジであった。未来の第1章は、ゼカリヤの心に重荷のようにのしかかってきたのである。そこに見た情景は、いくつかの民族が滅ぼされていく有様であった。それはユダヤ人の宿敵ともいうべき3つの国、スリヤ、フェニキヤ、ペリシテがのたうち悶え苦しむ光景であった。
 ゼカリヤの視界にさっそうと登場してきた征服者は、勇ましく軍馬を駆って勝利進軍を続けるアレキサンダ-大王その人であった。しかし真の解放者は、アレキサンダ-大王のあとから来る更に偉大な「王の王、主の主」たる君である。向かうところ敵なき常勝のアレキサンダ-大王も、勝てないものがあった。それは「死」。紀元前323年、バビロンに遠征中にわか病を得た彼は、32才の若さで世を去った。その後の小国ユダヤの歴史は長く史上に残る弾圧と大迫害のそれであった。聖書は焼き捨てられ、神殿は忌むべきブタの血と偶像で汚され、殉教者の血は川のように流されたといわれる。このときにあたって神の起こしたもうた解放者が、ユダ・マカビ-とその家族であった。彼らに率いられたユダヤ人はスリヤの軍隊を追払い、神殿をきよめ独立を得た。後にヨハネ10章に言われている「宮きよめの祭り」の起源ともなっている。この輝かしい解放の預言が13~17節であり、今日もなおユダヤ人たちに記念されている。
 しかしながら、エジプトからユダヤ人たちを救い出してくれたモ-セにせよ、バビロン捕囚から解放してくれたクロス王にしろ、またこのアレキサンダ-大王やマカビ-にせよ、彼らのなした解放はゼカリヤの見た最大の解放者のそれに比べれば、太陽の前の星にすぎない。
 世界全人類を罪と死の恐れから解放する、真の勝利の王は、アレキサンダ-大王のように軍馬に乗っては来なかった。彼の解放は武力によるものではない。彼の解放はろばの子に乗って訪れた。まことに彼は剣と弓矢をもって勝ち進むのではなく、「真理と柔和と義」によって勝ちを得てたくましく進む王であった(詩篇45:4)。彼はなんと敵対者の血を流すことでによってではなく、ご自分の血を流すことによって、この偉大な解放を成し遂げたのである(11節)。
 ユダヤ人の歴史は囚われのそれであった。希望の見えない暗黒の中で人々はメシアを待望した。やがて時至って、神のご計画は実現した。それは十字架という敗北者の姿によって。だがここにこそ真の救いと解放の道があった。思い起してほしい。よしんばあなたが捕われ人になったにせよ、あなたは「望みを持つ捕われ人」なのだ。水なき穴に落ち込んだ捕われ人に望みなどあろうはずがない、と言うか。まさに然り。しかし、主イエス・キリストを見上げれば事情は一変する。
 解放は血の力による契約がなされた以上、いかなる困難があろうとも、いかなる犠牲を払おうとも、神は解放の手を必ず伸ばしてくださるのでる。
 神は私たちがしばしば不忠実であったにもかかわらず、捨てたまわなかった。彼の血のゆえに神はなんの資格も、とりえも、功績もない者を、ただイエスを信じ頼ったというだけの理由で、驚くほどに豊かな恵みをもって顧みたもうのである。私たちの望みはこれ以外にはない。カルバリの血は罪人であり神の敵でさえあった者を無条件で赦したもう比類のない愛を告げているのだ。

2015年4月19日(第3主日礼拝)

ゼカリヤ書(9)8章1~23節

『悲しみの断食は、喜びの祝宴に』


 8章は断食についての積極的なメッセ-ジ、神が与えようと備えておられる数々の祝福の約束が述べられている。7章でゼカリヤの語ることばを聞いたイスラエルの人々は深い罪の意識をもち、神の怒りを強く感じた。しかし8章では数々の祝福が語られ、希望が見える。神は7つの輝かしい祝福の約束をお与えになられた。そのひとつひとつが神の約束であることを思うときに、さながらこの8章は祝福の夕立が降り注いでいる観がある。
 ①シオンに対する神の愛。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」。神とイスラエルの民との間の契約が確立されたときに、神はご自身を「ねたむ神」と自己紹介した。そこには、私たちたちは神の所有であり、他の何者にも属さない。十戒の偶像礼拝禁止はここにその根拠をもっている。神のねたみは神が契約を結ばれた民をどれほど強く愛しておられるかの尺度でもあった。②神はシオンに帰られ、エルサレムのただ中に住まわれる(3)。③エルサレムの町は穏やかな年老いた者たちや、喜びに満ちた子どもたちであふれる。④神にとって不可能なことはない(6)。⑤神は再びイスラエルの民をエルサレムに集められる(7,8)。⑥神殿再建に伴って、不安な時代は過ぎ去る(9~13)。
⑦神はエルサレムに幸いをくだされる(14~17)。
 18節からユダヤ人の断食が、「楽しみとなり、喜びとなる」と言われる。これは神がなされるすばらしい取り替えのみわざである。人々にとって非常に暗いみじめな記憶をよみがえらせるこれらの断食が「うれしい例祭」となり、実際に彼らにふりかかった悲惨な出来事が最も喜ばしい祝福に変えられてしまうということを知ったときの驚きはどんなであっただろう。同じように人がイエスの十字架の贖いによって救われるとき、人生の最も暗い悲惨な経験が、かえって最も明るくて美しく、喜ばしいものに変えられるのだ。
 終わりに輝かしい未来を約束する(21)。これはキリストの福音の世界宣教の預言でもある。F・B・マイヤ-は「Fast Turned Feast」(断食転じて祝宴となる)と言っている。悲惨のシンボルである断食が歓喜の祝宴となるのである。神の恵みの王道である。真実に悲しむ者は必ず神よりの慰めを得て、悲しみの日はやがて喜びの日を連れて来るようになるのである。かつて国々の民の中に呪いとなっていたイスラエルは祝福の基となる。諸国の民は先を争ってイスラエルに近づき、その祝福に分け与りたいと願うようになるというのだ。
 このような祝福がバビロンの捕囚という、忘れることのできない困難と苦痛の歴史と経験に起因することを知る。イスラエルの歴史にとって一番暗黒時代(バビロン捕囚)は、神の恵みによって祝福の日の源泉となるのである。これは私たちにとっても大いなる約束であるに違いない。
 悲しみの日、涙の年こそはやがて来るべき神の祝福のための準備であると知ろう。神の御手が私たちの最愛のものを取り去る時、神の光が私たちの醜い姿を容赦なく照す時に、神のみことばが私たちの魂の急所を突き刺す時、私たちはうめき、傷つき、涙を流すであろう。その時には、ただあわれみ深い主の懐に飛び込み、主の手にみずからをゆだねよう。やがて主は悲しみに変えて喜びを私たちに与えてくださる。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。(エレミヤ31:13)

2015年4月12日(第2主日礼拝)

ゼカリヤ書(8)7章1~14節

『だれのための断食なのか』


 神殿工事に最着手し、順調に進んでおよその目鼻がついてきたとき、主の宮に仕える祭司や預言者たちのもとにベテルの人々がやってきて、ひとつの質問をした。ユダヤ人がバビロンに捕囚となって70年の間、彼らは4つの断食を定めて守り続けてきた。しかるに今や聖なる都エルサレムは灰の中から急速に復興し、神殿は着々とその昔の栄光と美しさを取り戻しつつある。そのような時に荒布をまとい、頭を灰でおおって断食を続けることが全く矛盾しているように思えたのである。誰もが抱いた素朴な疑問だった。 心の内にある真の感情の表現であるのでなければ、断食も嘆きも無意味であり、神に喜ばれないものとなる。深い苦悩と悔い改めを表す礼拝でなければ、それは形骸化し、無益というよりももっと悪いものとなる。形式を形式のために守り、いのちのない儀式を守り行うことほどたましいを損なうものはない。「毎年行なってきた」ということのゆえに、惰性的に何かをやってやってはいけない。魂からの奥底からの深い感動なしに、ただ浅い感情で味付た程度の宗教行事は、真の宗教的生にマイナスの作用をする危険が非常に大きいのである。
 山上の説教において、イエスは施しをすること、断食をすること、祈ることさえも、神のみこころをお喜ばせするため以外の動機で行なわれ得ることを警戒しておられる。「神に向かって」なされる代わりに、「自分のために」なされることがあってはならない。
 もし「飲むにも食べるにも、すべて神さまの栄光のために」(ロマ14:6)するのでなければ、食を断つというときだけどうして神を喜ばせることができるであろうか。
 何よりも神が私たちに求めておられることは、神のみことばへの聴従、服従ということである。どのような供え物も犠牲も、聞き従うことにまさって神を喜ばせることはできない。
 ユダヤ人はエルサレム滅亡という「結果」を悲しむことよりも、その悲劇の原因となった彼ら自身の神への不従順を、そして神を憂えしめたことを悲しむべきであった。もし彼らの断食がそこまで掘り下げられたものであったら、何と幸いなことであっただろうか。「神のみこころにそった悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)
 情けないことに、私たち人間は悲しむ時においても、神のみこころにそった悲しみ方よりは、この世的な、自己中心的な悲しみに陥りやすいのだ。
 5節には「このわたしのために断食したのか」とある。神が求めておられることは私たちのある願いをかなえていただくために、自己の目的の実現のために断食することではない。より高い信仰生活と実を結ぶことに生きることである。他の人に対する思いやりとか、この世とか社会がもつ罪悪に対する痛みをもつことなのである。
 イエスもしばしば断食をされ、夜を徹して祈られた。その祈りはご自分のためのものではなかった。自分の願いがかなえられるためではなく、そこで神のみこころが何であるかを問い、それに従い行くことができるために祈られた。断食には意味がある。自己目的のためにではなく、自らの罪を神のみ前に悲しみ、神のみこころをなすことをのみ求めてやまない祈りをささげようではないか。

2015年4月5日(復活祭 イースター記念礼拝)

『イエスはよみがえられた』

ルカによる福音書24章13~32節

  この朝、「キリストはよみがえられた」という喜びのメッセージが世界中を駆けめぐっている。
 復活の信仰、これこそが聖書とキリスト教信仰の土台である。パウロは言う。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。……もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
 人の死はあらゆる希望と喜び、縁を断ち切る残酷な現実である。しかしキリストは死と墓を打ち破ってよみがえられた。絶望と落胆の中にある人にどのようにご自分を表され、彼らの絶望と落胆を取り去って、生きる喜びと感激を与えられたか、を聖書は伝えている。
 失望と落胆の内にエマオへと旅する弟子たちにイエスはご自身を現された。「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」
 復活の主イエスご自身の方から、弟子たちに、そっと近づいて来られ、一緒に歩き始められた。「エマオの道行き」は、私たちの人生の縮図である。日没に向かって歩む弟子たちに、イエスが近づいていかれる。その弟子たちに、永遠の夜明けを告げる方として、ご自分の方から、そっと近づかれたのである。
 イエスは私たちと共にこの人生を歩んで下さる。日常の行動、食卓、寝室でも、喜びの時も、悲しみの時にも、そっと近寄ってくださり、真実な慰め深い人生の同伴者となってくださる。
 最初、弟子たちはこの方がイエスであることには全く気づいていない。弟子たちの暗い顔は、この世のさまざまな問題、健康のことで、家族のことで、仕事のことで、さまざまに思い煩い、心が重くなれば、それは暗い顔で歩む旅路となってしまう。しかし、暗い顔で歩んでいたものが、喜びに輝くお顔に変わることができる道がある。信仰の眼が開かれるとき、私たちと共に歩まれるイエスを認めることができ、私たちの悲しみは喜びへと変えられるのである。
 「イエスは生きておられる!」との宣言。ここには永遠のテーマ「罪と死に対する決定的な勝利!」が記されている。聖書の福音は十字架と復活による罪と死に対する完全なる勝利宣言である。
 イースターの良き訪れは、罪と死に捕らえられ、暗い顔をしている私たちへの輝けるメッセージである。「主イエスは生きておられる!」。このことばこそ天地を揺るがすほどの人類への最大にして最高の福音だ。
 主イエスご自身によって聖書が解き明かされた時、お互いの心がうちに燃えたではないかと弟子たちは言う。復活信仰とはいつも聖書のみことばによって、熱い信仰の炎が、愛の炎が燃え続ける生涯を私たちに与えてくれるものなのである。 
 そして、主イエスが、私の罪の贖いとなって十字架にかかってくださり、私の死と罪の縄目を砕いて復活されたと信じるときに、私たちの新しい命の出発が始まることを知るのである。「イエスは生きておられる!」