2015年1月分(四篇)

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2015年1月25日(第4主日礼拝)

『祝福をもたらす祈りの使者となろう』


ピリピ人への手紙4章23節(最終回)

 私たちの日常的なことばのやり取りの中ですぐれて豊かなことばは、人を心から祝福するということばだろう。
 イスラエルの挨拶は「シャローム」、それは「平安があなたにありますように」ということば。なんとすばらしい挨拶だろうか。
 私たちのまずなすべきつとめ。それは神をほめたたえることですべての栄光を我にではなく、神に帰すことである。それは神の国のわざでもある。私たちが主をほめたたえるならば、そこには神のご支配があり、神の国が来ているのだ。主をほめたたえるということこそ、キリスト者に最もふさわしいわざなのである。その意味で、私たちのすべてわざ、日々の営みは主をほめたたえることへと導かれていかなければならない。たしかに私たちのささげるいかなるわざも、全く罪のない、完全なものではあり得ない。何をしても、欠けがある。しかし、その欠けのあるわざも主が用いて下さる時に、私たちの唇に、主への讃美が生まれてくるのである。聖めて用いて下さるのは、神ご自身なのである。
 この手紙を閉じるにあたって、パウロは祝福の祈りを書き送る。
 「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」
 生来罪の中にある私たちは自我、自己中心的で、ほかの人を祝福するということができない。神によって変えられて初めてできることなのだ。
 「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」ことができるような人間にしていただくためには、どうしても神の恵み、助けが必要なのである。「神の恵み」とは、「主イエス・キリストの恵み」。パウロが、この手紙のはじめにおいてまず祈ったことであり、この手紙を閉じるにあたって、もう一度同じ祈りを書き送る。この手紙に一貫して流れているもの、それが「恵み」である。そして「主イエス・キリストの恵み」とは、主イエスが、あの十字架の上でなしとげてくださった贖いによって、私たちをその罪から解放してくださった恵み。そんな私たちを、喜んでほかの人たちを祝福し、ほかの人たちのために喜んで犠牲を払い、奉仕する人間に造り変えてくださるのが、主イエスの十字架上での贖いの恵みなのである。
 こうして私たちは、祈りの中においても、ほかの人たちのために、その祝福を祈るし、また、その人々の益になるようにと心の中で、考えながら、行動ができるようにと変えられるのである。
 興味深いことは、ここで「あなたがたの霊とともにありますように。」という場合、「あなたがた」は複数形。しかし、「霊」は単数形が使われている。これは、私たちが皆違う生活を営み歩んでいるけれども、その霊においては、「ひとつ」であることを表している。これは教会のことである。
 パウロは教会を身体にたとえてかしらであられる主イエスのもとで、私たちひとりひとりがその手足、身体の一部分であると教えた。
 教会は一つの霊によって統一されているのである。私たちが本当にこの事実に気づくとき、教会はまさに生ける一つの御霊によって生かされ、真に互いの祝福を祈る教会と変えられるのである。
 「一つの霊」、それは「主イエスのみこころ」。主イエスのご意志が何であるかをまず求めて生きよう。そのとき私たちもいのちの泉わきあがる教会となり、祝福をもたらす教会となることができるのだ。

2015年1月18日(第3主日礼拝)

『 聖 徒 の ひ と り ひ と り に 』


ピリピ人への手紙4章21~22節

 パウロはピリピの兄弟姉妹たちに対して、書き送るべきことをすべて書き記したのち、最後に個人的なあいさつを書き記す。彼は、いつもピリピにある教会の兄弟姉妹たちひとりひとりのことを心にかけていたし、祈りのうちに常に覚えて祈っていたので、今、こうして手紙を書いている間も、そのことが自然に出てきているのだ。
 「キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに」とパウロは言う。牧師と教会員との関係も、ちょうどこれと同じである。特別に重要な働きをしている人々だけではなく、すべての信徒に対して、牧師は気を配っている。親が子どもに対しても、ひとりひとりに、同じように愛情を注ぐが、それでも時々子どもは満足しないで、もっと自分を愛してほしい、他の兄弟よりも、と願う。牧師と教会員との関係も同様で、牧師は主イエスから託された教会員で、どうなってもかまわないなどというような人のいるはずがない。
 パウロがここで再び、ピリピ教会の兄弟姉妹たちのことを、「聖徒」と呼んでいる。これはこの手紙の最初の部分、1章1節にも使われていることばで、私たちキリスト者のことである。すべてのキリスト者は、この世から聖別されているという意味で「聖徒」と呼ばれている。私たちの間の特定の人をそう呼ぶのではない。
 主イエスによって、この世から救われ、聖別されたすべてのキリスト者は、「聖徒」なのである。私たちが聖い生活をしているから「聖徒」とされたのではない。私たちは、決して聖くないが、主が私たちを聖別してくださったのである。聖別とは、そのもの自体が聖いからというのではなく、聖い目的のために、特別に分けておいてくださるということだ。キリスト者はそのような意味で、だれでも「聖徒」と呼ばれているのである。パウロは、「すべての聖徒たちから……よろしく」と言う。ここで、わざわざ「聖徒」ということばを使っているのは、ここに彼が「聖徒の交わり」ということを考えていたのではないだろうか。キリスト者の交わりは、この世のいわゆる「おつきあい」とか「社交」といったぐあいのものとは、全く異なり、神の聖いご目的のために備えられた者たち同士の交わりだ。そこでは、つまらぬ人の噂話や、愚痴や、だれかの批判が語られるのではなく、それを通して神のご栄光があらわされ、主イエスの教会が建て上げられていくのである。
 パウロは彼と一緒にいる兄弟姉妹たちからのあいさつであることも付け加えている。聖徒の交わりがここにもよく表されている。パウロはいつもの公同の教会の一員として自分をとらえ、また、すべての教会が、主イエスにあって「一つからだ」であるという思いを確かにするようにと、教会間にあいさつを交わすのである。
 「特に、カイザルの家に属する人々が、よろしく」と言う。このことばは、きわめて広い意味をもっている。ローマ帝国の皇帝の近親者、宮中に仕える役人や、奴隷をも意味する。このことはすでに福音が帝国内に浸透していることがわかる。そしてこの事実は、遠くパウロの身の上について心配していたピリピの教会の兄弟姉妹たちにとって、どんなに大きな喜びとなり励ましとなったことだろう。
 このようなパウロのあいさつは、お互いの安否を気遣っている主イエスにある愛する兄弟姉妹たちの間では、どんなに力強い励ましであり、あかしとなったことだろう。私たちも、愛より出た安否の問い合いをしたいものである。それには、この世の複雑なあいさつや、しきたりや、形式はいらない。ただ愛から出たまごころがあればよいのだ。神の御前に共に心一つに賛美と礼拝をささげ、お互いに愛し合う者たち同士の交わりは、たとい一言であっても、その行間ににじみ出ているものから、お互いへの信頼と感謝と喜びを汲み取ることができるはずだからである。

2015年1月11日(第2主日礼拝)

『どんな境遇にあっても満ち足りる』


ピリピ人への手紙4章10~20節

 パウロは、ピリピの教会から、何度となく贈り物、これは実際には献金のようなものであった。それについての感謝が、ここに記されている。しかし、ここに記されている感謝は、いささか風変わりである。ここには「ありがとう」とか、「感謝します」といった、直接感謝の意を表すことばが、一言もないのである。「感謝なき感謝」と言われてきた所以(ゆえん)である。
 ここには献金とはいったい何なのか、これを受け取るということはどういうことなのかが書かれている。この世の中では、物をあげたり受け取ったりするのは、なかなか難しいものである。あげる方は好意であげるのだが、受け取る方は時には引け目を覚えるということがない訳ではない。頂ければ何かお返しをしなければならない、と考える。これがいつの間にか私たちの国における習慣のようになっているのでる。恩に着せるというか、物を恵んであげるという思いはなくても、受け取る方には何か引け目を感じる。そういうことでは物のやりとりで、かえって人間関係がこじれてしまう、ということがあるのだ。「差し上げる」ということばはとても良い。
 私たちの持っているものは、すべて神によって与えられ、神から預かり、託されているもの、と考えることにしよう。献金という行為もそうである。献金は神のみこころにかなうように、神のみわざに仕えるために献げる。それが献金というものなのである。
 献金というものは、感謝のしるし、献身のしるしであるが、同時にこのことによって私たち自身が神のみわざに参与するということなのである。パウロはピリピの教会から献金を受け取りながら、ピリピの教会の人々が自分の伝道のわざに共に与る者となったことを喜んでいるのだ。パウロは、個人的に自分を支えてもらってありがとう、そんなことを言っているのではない。もちろん感謝はしている。しかし、15節で「物をやり取りでわたしの働きに参加した」と言うように、ピリピの教会が献金というわざを通して、再びパウロの伝道のわざに共に参加する者となったということを喜んでいるのである。
 私たち夫婦はこの袖ヶ浦の地における伝道を神から託された。新しい年も継続して、いのちの泉聖書教会に一所懸命仕えていきたいと願っている。しかし、同時に私たちはこの私たちの街、袖ヶ浦や市原や、木更津といった近隣の街々にだけ伝道しているのではない。これらの街以外の所での主のみわざにも参加することが出来るし、しなければならないと思う。私たちは自分の教会以外の所に献金することによって、より広い神のみわざに参加することが出来るのだし、そのような広い神のみわざに思いを広げることが出来るのである。もっと豊かに献げる教会となりたいものだ。
 ややもすると自分の教会のことしか考えられなくなってしまう狭さがある。しかし、神さまのみわざはいつももっと広く、もっと大きい。私たちの目、私たちの信仰が、その広く、大きな神のみわざに向かって開かれていくように祈ろうではないか。
 パウロは、自分はどんな境遇においても、貧しくても豊かでも、満腹でも空腹でも、物があっても無くても、どんな状況でも対処して満足することが出来ると言う。「足ることを知る」。これこそが私たちを、あらゆる物欲、人間関係から真に自由にし、喜びに満ち溢れた信仰生活の秘訣である。

2015年1月4日(新年礼拝)

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』


ゼカリヤ書4章6~7節

 バビロン捕囚から解放されたユダヤ人が、ダビデの子孫であるゼルバベルを先頭に、約束の地に戻っていく。神殿は破壊され、荒れ果ててしまった聖なる都に戻ったのである。しかしことは順調には進まなかった。周辺に住むサマリヤ人や近隣の総督の妨害活動や讒言によって、ペルシャ王により神殿再建に中止命令が下されたのである。計画は頓挫し、イスラエルは失意と絶望の中に沈み込んでしまった。
 ゼルバベルは、神殿の再建にと取りかかってはみたものの、彼の前には問題が山積していた。どのような思いでこの厳しい現実を見つめていただろうか。希望の見えない世界は私たちの前に進もうとする思いを打ち砕き、力を根こそぎ奪い取っていく。出口の見えないトンネルほど、私たちを不安にさせるものはない。
 主のみわざを推し進めていく上で大切なことは、主のみことばに従うことである。しかし現実の目の前に起こることや、迫る困難を見たとき、一番大切なみことばに聞き従うということを忘れてしまうのである。
 神殿再建という大事業を委ねられたゼルバベルはかつての偉大な王ダビデや、その子ソロモンのような力はなかった。目の前にそびえ立つ大きな壁を前にして、「自分にはできるだろうか、できるはずはない」と逡巡したことだろう。しかし、主はみことばをもって彼を励ます。これがあなたへの「わたしのことばだ」と。
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』
 主のみわざは数の力にはよらない。私たちいのちの泉聖書教会はほんの一握りの信徒によって成り立っている教会である。お金もない、かつてのような若々しいエネルギーも湧いてこない、それが現実であろう。しかし、私たちは私たちの手の中にあるものを見てはいない。神のもとに置かれている無尽蔵の宝に心と思いを置くのである。
 私たちは、厳しい現実に出会い、自らの弱さ、足りなさを知るとき、それを嘆き、あるいは失望し、落胆し、挫折してしまう。けれども、私たちにとって最も必要なことは何だろうか。主がゼカリヤという預言者を通して与えたあのメッセージが必要なのだ。すなわち、権力ではない、また能力でもない、「わたしの霊」だと。
 主の御霊によってでなければ教会は立っていくことができない。どんなに品行方正で、模範的なすばらしい信徒がいたとしても、小さくともステキな会堂をもっていたとしても、それらが主のご用に間に合う器として整えられるということではない。私たちの前には「大きな山」がどっかと立ちはだかっている。しかし、彼の目はさらに前方に、その耳は後方からの主のことばに向かう。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」
 なんと力強いことばだろう。主は「みことば」だけでなく、「全地を行き巡る目」をもって、ことを見張り、ことを行われるのである。この2015年の年頭にあって、あらためて主の「みことば」に聴き、主が何をいのちの泉聖書教会をとおしてなそうとしておられるのかをへりくだって見極めていきたいと強く思う。