2014年9月分(四篇)

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2014年9月28日(第4主日)

『神の栄冠を得るために』

ピリピ人への手紙3章12~16節


 『ひたむきに前に向かって』と語るパウロは「なすべきことはただ一つ」と言う。これに集中せよ。すなわち「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る」ことだ。 目標とは神の国であり、復活であり、救いの完成である。パウロは言う。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。」(12節)。それを目指して、ひたすら走ること、それが私たちがなすべきただ一つのことである。
 私たちは同じところで足踏みばかりしているようなキリスト者であってはならない。「神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」
 私たちは皆主イエスの十字架によって救われ、神の子とされた。そしてやがて復活の命にあずかり、復活されたキリストに似た者となることを信じるのだ。なぜならそれが聖霊のお約束だから。しかし完全に悟りきって、何の悩みも、課題もなくなる、そんなことはない。この地上の生涯にあっては、悩みつつ、しかし音を上げることなく、キリスト者としてなすべきことを誠実になしつつ歩んでいく。それが私たちの地上の生涯における歩み方なのである。
 パウロは言う。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」。後ろ髪を引かれるように、うしろのことに心を引かれ、うしろを振り返りながら走るのではない。この「うしろのもの」というのは、はっきり言えば、「罪」ということだ。罪人としての自分、主イエスの救いにあずかる前の自分の姿だ。神のことばに従うよりも、自分の願いや思いを一番にしていた自分。与えることよりも与えられることばかり求めていた自分。仕えることよりも仕えられることを求めていた自分。そういう自分と決別して、振り返らない歩みのことだ。 「ひたむきに前のもの」とは、私たちの救い主「イエスご自身」ということなのではないか。私たちに与えられた新し一週間、私たちが歩んでいくのは、この主イエスと神の国に向かっての歩みであるが、自分の罪と決別して、ただただみこころにかなった者へと成長していくことを願い、歩んでいく生活である。何の目標もなく、ただ一日一日を過ごしている、そういうものではない。目標もなく、うろうろとさ迷い、時間だけが過ぎていく。そのようなものではないのである。私たちの一日一日は、明確に主イエスと神の国に向かっての一日一日の歩み。この目標が与えられていることは何と幸いなことだろうか。
 私たちには不安が襲う。しかし心配するには及ばない。「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださっている」と。ここに私たちの救いの確かさがある。私たちが走っていって、その先で決して空しくなることのない確かさがあるのだ。「今では・・むしろ神に知られている」(ガラテヤ4:9) 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハネ4:19)。それゆえ私たちは安心して、心を尽くして、力を尽くして、その主イエスとの交わりを真実なものにしていくことができるのだ。
 過去の自分、罪人としての自分、自分の犯した罪が、私たちを捕らえようとして来る。それは逆らうことが出来ないほどの強大な力を持っているかのようにして、私たちに迫り、私たちを再び罪の泥沼の中に引きずり込もうとする。しかし、私たちはすでに神の子とされているのだから、自分を脅かす罪の誘惑をかなぐり捨てて、主イエスとの交わりの中で一日一日を大切にして生きようではないか。
  「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

2014年9月21日(第3主日)

『ひたむきに前に向かって』

ピリピ人への手紙3章10~16節

 「ただ、この一事に励んでいます」(13節)。このみことばを新共同訳聖書では「なすべきことはただ一つ」と。なんと力強いことばだろう。
 こう言い切れる人生は、まことに幸いだ。それは、悔いのない生涯と言って良い。私たちは雑多なことの繰り返しの中で、心かき乱される日々を送っている。明確な一点に向かってなされている。それが私たちクリスチャンの歩みなのである。
 私たちは主イエス・キリストの十字架のみわざによって、すでに罪を赦され、救われたものであるが、いまだその歩みは完成していない。この「すでに」と「いまだ」の間で、完成に向かっての私たちの信仰の歩みがある。その歩みにおいて、「なすべきことはただ一つ」と言い切れるだろうか。
 「前に向かって」とは過去に縛られない自由な生き方である。M・ルターは「義人にして、罪人」ということばで、私たちが神によって救われ、義と認められた、しかし、なお依然として罪を犯す罪人であると。これこそが私たちの信仰の歩みなのである。義とされた私たちが依然として罪の直中に居直ることは許されない。罪の中にあぐらをかいて古き自分に満足することなく、さらに高みに向かって、上にあるものを目指して歩もうではないか。
 なぜなら主イエスとの出会いによって、「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」を味わってしまったからである。パウロは言う。「聖霊を内に宿した」と。聖霊なる神は私たちを上へ上へ、前へ前と押し出しておられる。これを「聖化の恵み」と呼ぼう。聖化とは神の一方的な恩寵によるもので、私たちの努力によって勝ち取るものではない。
 「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがある」(9節)。
 この「望み」は、私たちが主イエスお会いするときに完成する。11節で「どうにかして、死者の中からの復活に達したい」とパウロは言う。だから12節で「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」と言い、13節で「すでに捕らえたなどと考えてはいません」と言っているのだ。
 それを得たい、それを捕らえたいと思い、今自分がなすべきことはただ一つ、「走っている」と言う。ここに聖化の道がある。神の国、終末、復活、完全へのあこがれ。それらを得ようと、目標を目指してひたすら走る。それが私たちの信仰の歩みであり、人生なのだとパウロは言う。
 パウロはここで競技場で走る人をイメージしている。レースが始まれば、後ろを振り返ることなく、ひたすらゴールを目指して走る。何となく走るのではなくて、賞を得ようとして、真剣に走る。それが私たちだ。何となく信仰生活を送っているというのではない。明確な目標、目あてがあって、そこに向かって走るのである。それこそが私たちの救いの完成である。
 神の国へのあこがれを持って、天を見上げ、前を見据えて前進しよう
ではないか。ただ前に向かって生きる者となろう。私たちの勝利と平安があり、新しい歩みに大胆に歩み出していける勇気が与えられること信じて。『 主にあって喜びなさい 』


2014年9月14日(第2主日)

『キリストを知っていることのゆえに』

ピリピ人への手紙3章1~9節

 ここにはパウロの激しい息づかいが伝わってくる。興奮しているのではと思うほどである。「ちりあくた」と言うが、これは排泄物のことだ。当時は口述された手紙であるゆえに、パウロの肉声と言っても過言ではない。「どうか犬に気をつけて」と言い、「悪い働き人」「肉体だけの割礼」と激しいことばでたたみ込む。3度も繰り返して「気をつけて」と、これもまた「警戒して!」と激しいことばだ。なにゆえ、パウロはこんなにも一見して取り乱したように語るのだろうか。そこにはピリピの教会が直面し、陥ろうとしている深刻重大な問題があった。同時に、パウロは福音の本質に関わることゆえに、激しい口調で語るのである。
 当時教会には福音の本質を脅かす間違った教えが忍び寄ってきた。それは私たちの救われるためには、律法を守ること、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければ、というものだった。異邦人伝道に召し出されたパウロにとって、このような教えは「悪しきもの」、伝える人間は「犬」にも劣る存在であると断定するのだった。この信仰的な戦いは単に教理的なものではなく、信仰の本質に関わる重大な障壁となる。
 ひるがえって今日の私たちはどうだろうか? これは今も私たちを脅かす悪しき力なのではないだろうか。私たちは16世紀の宗教改革の精神に立つプロテスタントの教会である。ルターもカルヴァンも「ただ信仰のみ」の教えを旗印に、当時の腐敗した教会の改革を推し進めた。
 私たち人間は誰しもが「誇り」を求め、大切にする。日本人は武士道に始まるように「誇り高い民族」なのである。プライドはだれもが持つ基本的心であるが、このプライドが時として私たちの人生を狂わすこともある。プライドを傷つけられた人間は我を失い、時には常軌を逸する行動に走る。良きプライドが一転悪しきものと変容するのだ。
 私たちクリスチャンも誇りを大切にする。クリスチャン、それは「キリストのもの」という意味である。キリストを誇りとするのだ。間違ってもキリストの顔に泥を塗るようなことは望まない。しかし現実はどうだろうか。自分のプライドを優先するあまり、キリストを誇りとしない生き方をしてはいないだろうか。
 3節で「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」とある。私たちは人間的なものに頼り、依存してはいないだろうか。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)である。
 「自分を誇る」ならば、キリストの十字架は無駄にしてしまうのだ。パウロはキリストに出会うまでは、頼りにし、誇りとするものがたくさんあった。ユダヤ人の中に超エリートであった彼が、今はそれらのものを「ちりあくた」のように思えるようになった。それはイエス・キリストを、その十字架の恵みを知ることのゆえに。「いっさいのことを損と思う」(8節)とさえ言わしめたのだ。
 私たちも同じではないだろうか。価値観の転換、生き方の転換、私たちの求めるものも変わったのである。この世の富も名声も力も色あせてしまうほどに、すばらしい救いにあずかった私たちは、あらゆる人間的な思いから自由にされたのである。ああなんと感謝、すばらしい恵みだろうか。
 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(詩篇34:8)
 私たちもも味わい、見つめよう。主イエス・キリストの恵み深さを。その時、私たちは本当に頼りとし、誇りとし、喜びとするものが、主イエス・キリスト以外にないことを知るのだから。



2014年9月07日(第1主日)

あかし 『私の信仰への道』 (6)

全校生徒の前に華々しいクリスチャンとしてのデビューは見事に頓挫してしまった。
 激しいブーイングの嵐の中、引きずり下ろされるようにして演壇を降りた私は完全に打ちのめされてしましった。クリスチャンになったばかりの私は意気軒昂、全校生徒がキリスト教徒にさせるくらいの思いで、イエスさまの救いの福音とそのすばらしさをあかししたかったのだ。心のうちにふつふつをわき上がる伝道への情熱はそのはじめに、見事に挫折感へと変わってしまった。その後に校内ででの友人たちの私を見る視線は必ずしも好意的ではなかったように思えた。しかし生来負けず嫌いの、へそ曲がりの私は、それでも何とかしてキリスト教というものを友人たち、だれでもよかったつかまえては話をしようと努力した。ところがキリストの「キ」の字を聞くだけで、皆真剣に耳を傾けるどころか、かえっておもしろ半分に茶化したり、ときにはキリスト教への反発や攻撃をしてくるのだった。
 自分がクリスチャンになったことがどんなにすばらしい経験であったか、自宅では父はもとより家族の誰もが耳を貸してはくれなかったが、高校ではそれができると考えていたのであるが、現実はそんなに甘くなかった。私の周りにはクリスチャンと呼べる人は一人もいなかったから、孤立無援の敗北感を嫌と言うほど味わされたのであった。
 そんな中、当時ハイビーエーという高校生クリスチャンの集まりは、私にとって大きな力であり、信仰生活を続けるのに大いに助けとなった。リーダーのスタッフの助言はありがたかった。学内で伝道についても大きな示唆を与えてくれた。その助言のひとつは、大声で叫び語ることではなく、「沈黙のあかし」であった。それはこんな内容であった。
 ただ、聖書をいつでもどんな時でも、手にして歩くことだった。登校時はもとより、授業間の休憩時間にも、常に聖書を手にし、時間を作っては聖書を読みふけった。これは自分自身の信仰に大いに役立っただけでなく、いつしか学内でも変な「あだ名」がつけられるようになった。「聖書野郎」。これは揶揄もあったが、私にはまんざらではなかった。すると、私の読み、常に手にしている「聖書」について、尋ねてくる友人が一人二人と現れてきたのである。そんな彼らに、聖書が私にとってどんなにかけがいのない宝で、自分の今を支えてくれる力であるかを、説明ことができた。もちろん「くどくど」ではなく簡潔に語るすべをも教えられていた。2~3分もあれば十分だった。やがてそんな友人の中から、教会に行ってみたいという友人も起こされてきた。教会に誘う、あるいはハイビーエーにも誘うことができるようになった。「沈黙のあかし」には語る以上の効果があったことは、今でも忘れることのできない、伝道とあかしの最も大切な基本になったことは言うまでもない。
 またあの屈辱的な経験にも副産物があった。おもしろ半分に票を投じたのだろう、私はなんと生徒会副会長に選出されたのだ。精力的に生徒会活動をし、当時高校は短髪が規則だったのを、生徒会新聞を発行し、学校側とも激しくやりあったが、ついに条件付きの長髪が認められ、勝ちとったのである。これは自分ひとりの力ではなかったが、校内にも協調し、良き仲間にも恵まれることになった。こうして私は高校生活において、クリスチャンとしての認知をしてもらえたのではないかと、今では忘れられない経験となった。また社会科の授業の中で、たまたまキリスト教について学ぶ機会があったときには、教師から「青木、お前がキリスト教について説明しろ」と言われ、喜んで準備をし、発表できたこともうれしい経験であった。
 そんな意味では、私の高校生活は大いに刺激的な3年間であったと言えよう。