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2014年7月分(四篇)



2014年7月27日(第4主日)
『イエスさまのみ足の跡に従って』

ピリピ人への手紙2章12~16節

 私たちはなんとムダの多い生活をしていることだろう。時間もお金も、短い人生を無為に過ごし、費やしているのだ。子どもたちが巣立って夫婦二人残されたマイホームも「空の巣箱」になってしまい、長年身を粉にして働いて定年を迎えた夫も「燃え尽きて」人生の意味を失う。子どもだってそうだ。なぜ学校に行き学ぶのか、将来に必要なことなのだ役に立つのだと説明しても、真の生きる意味について教えることができない。自分がしていることは、本当に意味のあることなのか? こんなことをしていても、ムダではないのか? 大人も子どもも、意識することなく、この現代という時代が抱えている無意味という闇に、無防備にさらされているのである。そう思えてならないのだ。
 私たちはこのような問いに、もっと根源的な所で答えていかなければならないのではないか。しかもそれは、単なる説明ではなく、その答えの中で自分も喜んで生きているという、自分の存在をかけた、力あることばでなければならない。
 使徒パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58) 私たちの人生の歩みが、一見、ムダに見えるような日々の連続であっても、決してあきらめることのない人生があるのだ。パウロのことばをかみしめよう。
 この目に見える世界だけを見ているならば、私たちの苦労がムダになるということは、山ほどある。しかし私たちの労苦が、決してムダにならないと言い切れるのは、私たちの人生が神の大きなまなざしの中でなされているからに他ならないのだ。
 「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。」(詩篇56:8)。私たちの労苦、私たちの涙は、すべてをご存知である神の革袋の中に蓄えられる。神がご存知であり、神が報いて下さる。このことだけが、私たちを一切の無意味さから守るのである。だから、このことを知らされた者は、出しおしみすることなく、全力を注いで励むことが出来るのである。主のわざに全力を注いで励むのだ。
 パウロは「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(14節)と勧める。順風満帆に事が進んでいる時には、不平を言わない。つぶやかない。しかし、いったん困難な出来事に出会うと、何で自分はこんな目に会わねばならないのかと、不平を言い、つぶやいてしまうのだ。そして神に文句を言う。その場から逃げたくなるだ。
 しかし、逃げてはならない。場所を変えても、同じことだから。私たちが生きていく上で、困難はつきもの。私たちは場所を変えるのではなく、本当に逃げなければならない所、すべてを知り、すべてを導き給う、父なる神のみもとに逃げればよいのだ。神の革袋の中に、私たちの涙を注ごう。それは、神の御前に心を注ぎだして祈るということであろう。そうすれば、私たちの労苦は決してムダに終わらないということを知らされるはずである。私たちの涙が、ことごとくぬぐわれる日が来ることを知らされるからだ。
 それは、キリストの日である。主イエスが再び来られる日。その日にすべてが明らかになり、一切がムダでなかったことを知ることになるのである。
 イエス・キリストはよみがえられた。すでに闇は去り、日が昇ったのだ。心の雨戸を、この復活のキリストの朝陽に向かって、広く開け放とう。「曲がった邪悪な世代」にあって、いのちの光を高く掲げて生きよう。主にあってムダになることは何一つないからだ。

2014年7月20日(第3主日)

『イエスさまのみ足の跡に従って』

ピリピ人への手紙2章1~11節
                
 パウロは教会に起こる問題、不一致の原因として「自己中心」をあげ「虚栄」をあげている。自己中心と虚栄は、福音にふさわしい生活を損ね、教会の一致を妨げる原因となるのだ。これを取り除くために、①キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ。②互いに人を自分よりもすぐれた者と思え。③自分のことだけではなく、他の人のことも顧みよ、と勧める。そしてイエス・キリストのうちに見られる模範を信仰をもって見つめ、ひとり一人が意志的に求めよて生きよと勧める(5節)。
 6~11節は「キリスト賛歌」と言われている。キリストは神でありながら、神であるのに自分を無にしてしもべとなり、奴隷となり、人間となった。そして死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった。人は上へ上へのぼろうとする。名をあげ有名になり、みなから誉められて自慢したいという気持ちがある。俺はすごいんだ、どうだ見たか、という気持ちがあるのだ。
 しかしイエス・キリストは反対に下へ下へと向かっていった。神ならば一番高いところにいればいいようなものだが、そして見下ろしていればいいようなものだが、神でありながら一番低いところ、死に至るまで、十字架の死に至るまで下へ向かって進んでいったのである。
 イエスが人々の心を勝ちとられたのは、権力を振り回してではなく、人々の心を感動させずにおかない愛と、自己犠牲と献身を示されたことによる。イエスは人々の面前でご自身の栄光を捨てられ、その人々を十字架の死に至るまで愛された。その愛によって人々の心が和解し、その反抗が打ち砕かれるのである。人々がイエス・キリストを礼拝するのは、服従させられたからではなく、すばらしい愛を知ったからである。私たちは、「これほどの権力には反抗できない」というのではなく、「こんなにすばらしい神の愛が、わたしの人生と魂と全存在とを支配しておられる」といい表すのである。イエスのみ前にひざまずかせるのは、すばらしいイエスの愛だ。礼拝は恐怖から生まれるのではなく、愛に根ざし、愛に向かうのである。
 これは「キリスト告白」でもある。パウロはイエスの御姿を思い起こさせている。もっと言えば、彼はここで礼拝の心を思い起こさせようとしているのである。私たちは、この礼拝の心において生きる時、初めて思いを一つにすることが出来、謙遜になることが出来るのである。礼拝の心とは、神の御前にぬかずく心、神なるイエスを心からほめたたえる心なのである。ここにこそ真の一致が生まれるのだ。
 私たちが毎週このように礼拝をささげているのは、神の戒めだから、命令だから。そうではない。ご自分を捨てるほどに私たちを愛してくださるイエスに、心からなる感謝を献げ、神のご栄光をあらわすためなのだ。
 ここに、二つの見るべき教えがある。前半の6~8節は、下へ下へと降る神の愛である。神から人間に、しかも十字架の死へと。9~11節には復活、昇天、すべてのものにあがめられるという、上へ上へという神の働きがある。自分たちのわざや歩みを認めてくださるのは、神ご自身である。もはや私たちは人の評価や自分を偉く見せようと気遣う必要はないのだ。ただすべてをご存知である神の御手にゆだね、ひざまづけばよい。
 神は、天を引き裂く程の力と愛をもって、危うい小さな歩みの一つ一つに、関わろうとしておられるのだ。だからただ主がたたえられること、神のご栄光が現れること。それだけを、私たちの願いとしよう。それが新しくされた者としての歩みだからである。

2014年7月13日(第2主日)

『混沌とした世にあって私たちは一つ』

ピリピ人への手紙2章1~11節
                
 袖ヶ浦の町にいのちの泉聖書教会という教会があることは、偶然の産物ではない。神がこの教会を、どんなに小さくとも教会として支え守っていてくださることには測り知れない神のご計画があるのだ。今の小さな群れには非現実的に思えても、、ビジョンを持つことや目標を掲げて教会が歩むということは決して意味のないことではない。むしろきちんとしたビジョンや目標を掲げて歩んでいかなければ、行く先の見えない教会となってしまう。今年の下半期に向かってしようとしていることは、このビジョンと目標作りである。私たちの教会はこんな教会です。私たちはここに向かって歩んでいます、というように具体的に見える形でのビジョンを作り上げていこう。
 そうした作業を進める上で忘れてはならないこと。この根底にある確かな神さまのご計画は、この世界が求めてやまないもの、憧れをもって見ているものが教会にはあるということだ。この世は、袖ヶ浦の町はいのちの泉聖書教会を必要としているのだ。世界は、同じ思いを持てずにあえいでいる。そこにはカオスしかない。暗闇が人々の心を支配する中で光を掲げ、ここに救いがあると伝えることは教会のなすべきわざである。この世を見てごらん。毎日新聞やニュースで私たちが目にし、耳にすること。それは世界各地での紛争であり、この愛する国の指導者たちの混乱である。身近な私たちの周りにも混沌は存在する。人が同じ思いを持ち、一致するということは、本当に難しい。そういう世界のただ中にあって、教会にはこの世界が求めてやまないもの、一致への道筋というべきものが与えられているのである。
 ピリピの教会にあっても、不一致と混乱はパウロの心を痛めていた。牧師にとって一番うれしいことは、教会に集う一人一人が、神のみ前で心を一つにして歩んでいること。一番悲しいことは、教会の中で仲たがいがあり、一致して歩んでいけないことだ。
 だからパウロは「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と懇願する。歴史を見ても教会は一致と調和のために闘ってきた。
 たしかなこと。それは教会はどのような状況の中にあっても、同じ思いとなり、一致していくということを諦めたことはないということ。いろいろな人間が集まっているのだから、バラバラでもしょうがない。そんな風に考えたことは一度もない。どうしてか?教会はキリストの体だから。キリストのいのちが息づいている交わりだから。キリストの体がバラバラであるなどということはあり得ないからだ。第二に、教会は一致していくための道筋を知っているということ。ではどうしたら、教会は一致していけるのか、共に同じ思いを持つことが出来るのか。パウロは言う。「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と。気づいただろうか?
 これは、私たちが毎週礼拝の最後に受ける祝福のことばと同じなのである。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント13:13)。
 パウロはピリピの教会に、「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり」がないなどということは、考えていない。あるに決まっている。キリストの教会として立てられているからだ。それゆえに教会は一つ思いに立てるのだ。三位一体の神のみ前に立つことが求められているのだ。教会の一致というものは、人間的な知恵や、小手先のことで与えられるようなものではない。一人一人が三位一体の神のみ前に立つとき自らの姿が照り出される。そこで、悔い改めが起きる。ここにおいてしか、人間は一致することが出来ないのだ。ただ、神のみ前に真実に立つこと。ここから真の一致と調和が始まる。

2014年7月6日(第1主日)

あかし 『私の信仰への道』 (4)
                
 教会というところがどのようなものかを全く知らずに育った私には、はじめての未知との遭遇であった。未知との遭遇では宇宙人と、まさしく私のそれも同じだったように思う。紹介されて行った教会はたいそう立派で、生まれてから仏教の寺しか知らない私には欧米の文化そのものだった。独り恐る恐る足を一歩踏み入れたとき、どこからかコーヒーの香りが鼻をくすぐり、やはりそれはインスタントのコーヒーしか飲み慣れていない私には新鮮な興味をかりたてるに十分だった。受付には数名の女性が立ち迎え入れてくれた。「はじめて来たのですが・・・」。会堂にはすでに多くの人々が座っている。案内されて腰をおろした。周りを見渡すと皆身なりをきちんと整えた大人、学ランの私には宇宙人ではないけれど今までの出会ったことのない人々の集まりに、一抹の不安を感じた。礼拝が始まる。粛々とプログラムが進み、学者さんのような人が立って説教を始めた。hi-b.a.という高校生を相手にした集まりとは違って、お話はあまり理解できないものだった。私には難し過ぎるので、密かに周りの人たちを横目で見ながら、「この人たちはこのお話を理解できるのかしら? できるとしたらこの人たちはただ者ではない」。そこに集まる人々が異星人に近いものに思えた。礼拝が終わると皆が互いに挨拶を交わし、空気は一変する。だが私に声をかける人はいなかった。そこそこと逃げるようにして教会を後にした。ここは自分のいる場所じゃない、と正直思った。それからは教会には行くことはなかった。
 ある日二級上の一人の先輩が声をかけてくれた。「青木くん。教会に行ってる?」。「行っていない」と答える私に「こんど僕の通っている教会に来てみない」と誘ってくれた。私には一度きりだった教会の印象はあまり心地よいものでなかったが、やはり教会には行きたいという思いはあった。前回も書いたように、私の信仰のスタートは父親との確執を生み、それはますます激しいものなっていたのだ。どこかで助けが欲しいと願っていたが、その方法を見いだせないまま日々が過ぎていったのである。勧められるままに先輩の通う教会に足を運んだ。なんと私が生まれて小学6年生まで育った町にある教会だったのにも不思議な驚きと感じた。その教会は平屋の古びた建物で屋根の上に十字架が立っていなければただのバラックのようなものだった。決して教会らしい、コーヒーの香り漂うものとは違うものだった。躊躇する私を先輩が迎え入れてくれた。きしむ床にも驚かされたが、子どものベンチのような椅子に腰をおろした。端っこに座ると反対側がシーソーのように上がるのだ。仕方なく真ん中に座った。そのうち人々が集まってきて礼拝が始まった。集まる人たちは身なりは質素、普段着の人も多かった。それ以上に驚いたのは、私の周りにいる人たちが皆私に声をかけてくれるのだ。「ようこそ」の一言は私の心には恥ずかしさ半分、しかし心地よい響きだった。その上礼拝の中で歌う賛美歌を開いてくれたり、聖書を開くのを手伝ってくれたりするのだ。お節介な人たちだなあ、と思うのだが、それも何かうれしかった。なぜかは後で知ることになるのだが、新しい人には親切にしてくれるのを、その女性が自分に好意を寄せているのだと思い込んだのも、思春期の少年らしい思い込みだったと思う。
 正面にドカッと座る牧師先生はちょび髭のおじいちゃんであったが、そのお話は力強く、厳しい口調で、私には「お説教」されているように感じられた。長い長いお話があり、礼拝は終わった。すると次から次へと私に声をかけてくれではないか。そこには活気がみなぎり、信仰に生きている人たちの集まりのように思えた。ここは異星人の集まりではない、クリスチャンの愛にあふれた世界だと実感した。その日からこの教会が私の生涯にわたる母教会となったことはいうまでもない。