2014年4月分(四篇)

目次に戻る

2014年4月27日(第4主日)

『始められ、完成されるイエスさま』
ピリピ人の手紙1章3~8節
(本日の礼拝説教から)

 ああなんとすばらしいことだろう!
 神さまの栄光の舞台、その最前列で神さまのみわざを見ることができるのは。そればかりか私たちがその舞台に立って演ずる、胸の躍るようなワクワクした演出に緊張しないわけがない。神さまの描いた場面光景に私たちもそこに居る。喜びと感謝、これこそ私たちに与えられた特権、これは皆に等しく分かち与えられたもの。「共にあずかる」ものへの大いなる祝福。ひとりの監督者のもとで、演ずる皆はその心と思いをひとつにして台本に心を注ぐ、そのとき言うに言われぬ妙なるハーモニーが生まれる。
 パウロとピリピ教会は祈り祈られつつ、互いに支え合う関係にあった。喜びも悲しみも共有できたのは、一つ目的のために、「福音を広めること」、神さまのご栄光の舞台に私たちは招かれているのだ。
 いつも私たちは完璧ではない。ミスもするし、自分が満足できるような演技をすることもできない。けれども監督者である神さまは完璧である。終わって振り返ってみればそこに神さまの大いなる御手のわざを発見できる。ことを始められたお方は、ことを終えられる神さまなのだ。
 一歩、二歩後退しても恐れることはない、二歩後退したら今度は三歩前に進めばよいのだ。神さまは初めから完成を求めてはいないのだ。
 「あなたがたのうちに良い働き」とは救いのみわざ、これは私たちが始めたのではない、神さまに与えられた賜物だ。だから完成も神さまのみこころのうちにある。私たちは悲壮感をもって、遮二無二(がむしゃら)になって突っ走る必要はない。気持ちも軽やかにこの道を行こう。肝心なこと、それは「完成者であるイエスさまから目を離さないこと」だ。
 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
 モーセに率いられたイスラエルの民は、前に海、後ろにエジプト巨大な軍隊、絶対絶命な状況にあって、神さまにつぶやき、モーセに逆らった。そのとき、モーセの語ったことば、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト14:13,14)。自分の状況しか見えず、慌てふためく私たちに向かって「私がいるではないか。恐れるな。落ち着け。私があなたに代わって戦う。」と、神さまは言われる。私たちの天国への道行きも全く同じだ。神さまが最後まで守り導いてくださるとはなんとありがたいことだろうか。今舞台の最前列で圧倒されるような神さまのみわざを見させていただく恵みをいただいた。このいのちの泉聖書教会で起きる出来事もしっかり見せていただき、伝えていきたい。神さまの救いのみわざは、今もこの教会において、起き続けているから。


2014年4月20日(第3主日)

『えっ、私たちも聖徒ですか?』
ピリピ人の手紙1章1~2節
(本日の礼拝説教から)

 「聖徒たち」。ピリピの教会は確かに使徒パウロが産み出したすぐれて豊かな教会だ。しかし「聖徒」とは? 奇異に感じるのはなぜだろうか?
 私たちは「聖人」じゃない。清廉潔白にして品行方正、清く正しく生きてはいない。罪を犯すし、失敗だって何度繰り返してきたことだろう。この手紙は特別な人たちに宛てた手紙なんだ、と思う。そう、この手紙は特別な人たちに、ピリピ教会に、そして今ここにいる私たちに宛てられた手紙だ。私たちも「特別」な人たちだという。「聖」とは神さまにのみ用いられることば、「聖(きよ)く分かつ」の意、その神さまの名前が私たちに使われる。罪と死の奴隷の縄目から、イエスさまの十字架と復活によって、罪赦されたばかりか「神の子」とさせていただいた特別な存在なのだ。「クリスチャン」という神さまのものとされた私たちこそ「聖徒」と呼ばれるにふさわしい。けれども私たちのうちに特別な何かが備わっているわけではない。ただ一方的に恵みによって与えられた名前なのだ。
 イエスさまの永遠のいのちに与った私たちは神さまの特別な子どもとされた。ああなんとうれしいことか、感謝なことか。この「聖徒」にふさわしい歩みをしよう。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(Ⅰペテロ1:16)
 パウロは「イエスのしもべ」と自らを言い、「イエスにある」と言う。ここに「聖徒」たるもの生き方が明らかにされる。
 「しもべ」とは「奴隷」、主人の所有物である。今や私たちはイエスさまの奴隷とされた。十字架の上で流された尊い血潮をもって買い戻された奴隷である私たちは新しい主人に仕えるものとされた。もはや私が私の主人ではなくなったということなのだ。私が心の王座に復活の主イエスさまをお迎えしよう。そのためには、自分がその王座から下りなければならない。イエスさまが私たちの心の王座におられる限り、私たちには喜びが絶えることがないのだから。
 「イエスにある」とは「イエスと結ばれる」ということだ。今年の年間主題聖句を思い出そう。子どもの手をしっかり握ってくださる父なる神さまの愛と導きに私たちの人生を委ねよう。自分の力で人生を歩もうとするならば、必ず躓き倒れる。そんな私たちをイエスさまは愛の力強い御手をもって握りしめ、支えてくださる。イエスさまに信頼して歩む人生には喜びが絶えることはないからだ。
 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ63:9)
 いのちの泉聖書教会とは、イエスさまのいのちに与り、イエスさまと共に歩んでいく教会だ。そして私たちがイエスさまにあってひとつの喜びを共有する交わりの家族でもある。ひとり一人が「聖徒」であることを誇りとし、イエスさまの喜びを共に分かち合う歩みを進めていこう。
 復活のイエスさまは言われる。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 今日は復活祭、「イエスさまはよみがえられた!」 この福音が世界中を駆け巡る日。私たちも共に喜ぼう、感謝をささげよう!


2014年4月13日(第2主日

『恵みと平安がありますように』
ピリピ人の手紙1章1~2節
(本日の礼拝説教から)

 使徒パウロの手紙の冒頭で、いつも彼は祈る。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」
 これは彼の祝福を祈ることばだ。いつも彼はこの祝福のことばをもって始め、閉じている。神さまの祝福のあるところにのみ、真の幸いがあるのだ。パウロは、相手に対する神さまの祝福を祈らずにはいられなかった。
 「恵み」それは、一方的に与えられるもの、何の見返りも計算も働かない、与えてくれるものの好意だ。私たちは誰か他の人から思いがけない好意を受けるとき、「ここには何か裏がある、下心が働いているのではないか」と考える。好意はそのまま感謝して受けるものだ。「恵み」とはもともとは「秩序」とか「美しさ」を意味していた。
 ここに神さまの秩序と美しさが表されている。もっぱら神さまの一方的な好意の表れとして「恵み」だ。その具体的なものがイエスさまの十字架による好きである。
 神さまに愛され、顧みていただく値打ちもない私たちを、一方的な好意によって顧みてくださった。無条件に、何の見返りも求めず、賞賛をあびることも求めず、喝采をあびることもなかった、それが十字架である。
 この神さまの恵みが罪人である私たちの上に与えられ、注がれるとき、どんなに罪の中に孤独であり、いのちの力がついえてしまいそうな人も、立ち上がることができる。あなたがどんな悩みを抱えていても、みじめな状態にあっても神さまの恵みをいただくならば、一挙に解決して、新しい力といのちいただき、喜びに変えていただくことができる。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
 「平安」。「平安」とは、「神の恵み」の結果として与えられるもの。「神さまの平和」である。生まれながらにして、「怒りの子」であり(エペソ2:3)、争い、憎しみ、不和を、うちに持っているもの。人を愛することのできないもの。これが罪人の姿。しかし、神さまはわたしたちのうちにあるそうしたもの、つまり悪しき思いを、十字架にかけて滅ぼしてくださった。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)
 イエスさまのお約束。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
 これらの「恵みと平安」は人々と分かち合われるものだ。
「恵みと平安」というこの二つのことばの中にこめられている驚くべき祝福の宝庫を、私たちはわがものとしよう。この二つの祝福こそ、ピリピの教会にあった問題を解く鍵だった。教会がこの「神さまの恵みと平安」を祈り求めている限り、教会は倒れることがない。私たちは互いに言い交わそう。「あなたに恵みと平安が豊かにありますように。シャローム」


2014年4月6日(第1主日)

『頑張れ人生、眼張る人生』


いのちの泉 私たち日本人は「頑張る人々」だ。生まれて死の床に着く瞬間まで「頑張れ!」 ということばに励まされて生きる。
 「頑張る」、それは「頑を張る」こと。「頑」とは「頑固」のガンである。ある目標に向かって粘り強く、強い意志を持ってやり抜くために、自分をしっかり持って生きるのである。しかし、人はそんなに強くない。どんなに「頑張って」みても挫折はある。自分の限界を知る。そんなとき崩れ落ちるように、人は傷つき倒れる。あるいは「頑張って」生きる人にとって「頑張らない」人を許せない心がある。「自分はこんなに頑張っているのに、あの人は何もしない」と裁いてしまう。そうすると不平、不満が心にわき上がってくる。平安を失ってしまうのだ。
 教会にも「頑張り教徒」はいる。「あれはダメだ。これをしなければならない」と自らを追いやり、他人をも強いる。こんな生き方はイエスさまの教えられた人生ではない。
 つまるところ「頑」とは「エゴ」のことだ。この「エゴ」がやっかいな代物で、人から希望も喜びも奪い去ってしまう。「エゴ」(私が、私を、私に)が「私のために」にとなんと狭量で不自由な人間にさせるのだろう。
 「バーン・アウト」、それは「燃え尽きる」ことだ。ある人が長年頑張って働き、そしてある日使い過ぎたモ-タ-が焼き切れてストップするように、体力的にも精神的にもエネルギ-のすべてを消耗して何もできない状態に落ち込む、つまり、燃えつきて灰カスのようになってしまう状態がバ-ン・アウト・シンドロ-ム。このような燃えつき人間になりやすいタイプは、勢力的で、精神力が強く、目標に向かってまっしぐらに進む人、あるいは一徹な理想主義者に多い。暮しの統計によると、我が国の自殺者のうち、41%が40才から59才までの人であり、そのうち75%が男性が占めている。私も50才の働き盛りに燃え尽きた経験がある。
 原因は働き過ぎもあったが、もっと深刻なことは「人を許せない」ことだった。傷つけられて愛し許すことができなかったこと。日々不安の中に眠れない日が続いた。10年間苦しんだ。
 イエスさまは優しく語りかける。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
 イエスさまのみもとに行こう。ここに真の癒やしと安息がある。「あなたの罪は赦された」と宣言くださるイエスさまのおことばにいつも立ち帰ろう。「頑張る」とは「眼張る」ことだ。神さまの恵みに日々「目を見張る」ように感動し、感謝していきることだ。
 いのちの泉聖書教会を神さまから託された。私の中にある思いは、この教会がどんなに小さくとも、ここに喜びがあふれ、感謝が充ち満ちている。そんな教会と礼拝を神さまに献げたい。毎週語られるみことばの説教には、イエスさまの真の福音、つまり「赦しと慰めと解放」とがあふれている、そんな説教をしたい。ここにこそ神さまの家、神さまの家族が集まるいのちの泉あふれる世界が拡がっていくのだから。
「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(詩篇34:8)